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炎国の騎士と北の夜明け  作者: 紘麻 涼海
第四章 それぞれの道
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十六、先帝が遺したもの

 ある日ガレフの執務室を訪れたリューベルトは、初めての願いを口にした。

 

「外へお出になりたい……とは、どういう意味でしょうか」

「今この国がどうなっているのか、直に見に行きたいんだ」

「それはイゼルに限らず、ということでしょうか」 

「グレッド領に限らず、だ。国中を見たいとは言わないが、できるだけ他の領も見たい」

「町々の様子を見たい、と?」

  

 リューベルトは真剣な眼差しで頷いた。

 未成年のため、皇太子であってもまだほとんど公務に携わっていなかった彼は、懸念していたほど顔を知られていないようだった。ディーゼンに連れられて視察したことのある地を避ければ、この東部の平民で彼の正体を見抜く者は、おそらくほぼいない。

 とはいえ、存在を勘付かれる危険がないとはいえない。

 しかしリューベルトは、引く気はなさそうだ。ガレフを困らせてしまうことをわかっていても、どうしても諦めたくない願いなのだろう。

 

「それは殿下にとって、今後のことをお決めになるのに必要なことなのですか」

「そうだ。私は……そなたたちから話を聞くだけではなく、この目で、この国を見たいのだ」

「そうですか……」

 

 ガレフはこめかみのあたりを指先でつつきながら、しばしの思考に入った。

 騎士隊を護衛につければ、かえって目を引く。絶対的に信頼できる者を伴につけ、リューベルトに平民の旅人の振りをしてもらったほうが良いだろう。

 

「……シンザとセスを付けましょう。あの二人なら、大概の危険には対処します」

 

 リューベルトの護衛役をしているシンザとは、ずいぶん気心も知れているようだ。弟だけでも魔獣は心配ないだろうが、平民のセスがいたほうが、町では何かと動きやすいだろう。

 

「ほ……本当に良いのか……?」

 

 すぐに認めてくれたガレフに、リューベルトは驚きを隠せないようだった。

 

「そう……ですねえ……。できれば服装だけでなく、お顔のほうも変装していただきたいところですが」

「ああ、する。それで迷惑を軽減できるなら」

 

 生真面目に頷いたリューベルトに、ガレフはふっと表情を緩めた。

 

「私とて、殿下の自由を縛ってしまっていることを良しとは思っておりません。父もそうでした。……ただ、向こうの手の者に見つかることがあれば、それは大変危険であることを、お忘れになりませぬよう」

「もちろんわかっている。目立つことはしないと誓う。本当に、ありがとう」


 リューベルトが出ていったあと、ガレフはこの話をしに弟の部屋へ向かいながら、もう一度思考に耽った。他の町の様子を見たい……つまり一般の民の生活風景を見たいと、リューベルトが今言い出したことの意味を考えていた。

 


 

 


 以前にシンザとセスが帝都で演じた、主人と雇われ護衛騎士という設定を、再び採用することになった。今回のセスは旅商人だ。リューベルトは彼の弟として、馬車に乗って移動する。

 ガレフからは、ひと月ほど旅をすることを許可された。

 

「すみませんね、シンザ様。御者までさせて」

「いいんだよ。俺は『雇われ』なんだからな」

 

 御者台との間にある窓を開放し、ニヤニヤと楽しそうに笑うセスに、シンザはなるべく嫌味を込めた笑顔を返した。

 セスの後ろから、リューベルトが顔を出した。彼は商人がよく纏うローブを身に着け、麻の布を頭に巻いて、がらりと雰囲気を変えていた。

 

「本当にすまない、シンザ」

「——あっ、いいえ、お気になさらないでください、殿下。当主(あに)の命令ですから。それに、外にいるのも気持ちの良い陽気ですよ」

 

 出発は晴れた日だった。窓から車内に入ってくる緩やかな風は、シンザの言う通り心地よい。

 イゼルの街の城壁はすぐそこに迫っていた。

 両親が突然命を絶たれた、一年前。自分もそうなるのだろうかと怯えて毎日を過ごし、逃げ出し、保護されて、東の果てに来た。あれから初めて、リューベルトはイゼルを出る。

 

「では、少し速度を上げましょうか。行きますよ、セス様、リュート様」

 

 シンザが雇われ従者になり切って鞭を振るう。御者台に乗る体験が珍しいためか、少し面白がっているようだ。

 ついにイゼルから外の世界へ旅立った。

 ほぼ真西に向かって進む馬車の中で、セスが改めて座り直し、リューベルトに向き合った。

 

「さて、と。ではここからは、俺たちも設定を始めましょうか。敬語はなしにしますから、リュートとお呼びしますよ。……じゃない、呼ぶからな」

 

 イゼル城内では気にしていなかったが、外では殿下ともリューベルト様とも呼ぶわけにはいかない。名をリュートとするのは、ガレフを交えて決定済みのことだが、グレッド家にはあまり遠慮のないセスでも、皇家への呼び捨てには気後れを見せた。

 

「ああ、そうしてくれ。……ではないな……。もちろんだよ兄様、だろうか」

「平民の場合、兄様より兄さんのほうが自然ですね。じゃなかった、自然だな」

「……」

 

 リューベルトとセスの間に、沈黙が下りた。思っていたよりも、この兄弟設定をこなすのは難しいかもしれない。

 馬の足音と車輪の回転音が耳に響く。

 

「……時間はあるのだから、練習しよう……兄さん」

「そ、そうだな……リュート」

 

 七年前も言葉遣いを直すのに苦労したことを思い出し、リューベルトはなんだか笑いたくなった。

 

 


 

 

 シンザは念のために、旧派の貴族が治める領に入るのは控えようとしたが、リューベルトはそこにも行きたいと言った。貴族の誰にも出くわしてはいけないのならば、どこの領でも危険度は同じである。避けるべきは領主がいる領都なのだ。

 実際の民の生活を見ることが目的なので、領都にこだわる必要はない。旅人が多くよそ者が目立たない町を選んで巡っていった。

 ひとつひとつの町には二泊程度滞在した。美しい金髪を隠すように巻いた布を、まつ毛の間際まで下げたリューベルトは、ゆっくりと人々を観察するように見て回った。時には店の者に話しかけもした。

 基本的には彼がしたいようにして、シンザとセスはそれをさり気なく警護する形を取っていた。

 

「昨年は大変な年だったけどねえ。今年は平和であってほしいわね。そうでないと、売れるものも売れないからね」

 

 商人らしく、最近の景気はどうかと問うと、衣服店の夫人はそう答えた。

 

「ここ何年かは内乱が起きなくてほっとしてるよ。墓ばかり作らされるのは滅入るからな」

「ガリアデル様の時が一番ひどかったよな。あの頃は忙しすぎて親父が身体を壊しちまった。ベネレスト様のおかげでそういうことは減って、ディーゼン様になってからは無くなったからな。これからも、このままであってほしいもんだよ」

 

 熟練の石職人たちはそう言って、庭を飾る彫像を彫った。

 

 パン屋にはたくさんのパンが並んでいた。昨年の小麦は一昨年よりも豊作で、店主が夫婦で開発した新商品の売れ行きも良いという。

 お代を払いながら、リューベルトは思い出した。ヴィオナたちに保護されてイゼルへ向かっている時、確かに青々と豊かに伸びた麦畑をたくさん見かけた。

 

「そうですね。昨年は農業が好調でしたね」 

「ええ。作物が穫れないと私たちの商売は成り立たないですから、ありがたいことです」

「あなたたちのようにそれを運んでくれる商人さんにも、とても感謝していますよ」

 

 後ろにいるセスを行商人だと思っている店主夫婦は、商いをするもの同士として「兄を手伝う少年」に、にこりと笑いかけて続けた。

 

「冬にベルスタ辺りで物流が止まった時は、どうなるかと思ったものです。行商人(あなた)方のほうが大変だったでしょうか? あれは貴族たちの揉め事が元凶でしょう。ああいうのは本当に困りますよね」

「あ……、ああ、ベルスタの……」


 それはキュベリー領都である。真冬の一時期、ベルスタの物流に遅延が起きた影響は、グレッド領にもあった。大きな問題にはならなかったが、あれがきっかけでアダンへの扱いが改善したらしいと聞いた。

 リューベルトは今の今まで、結果的には良かったという、単純な感想しか持っていなかった。そのおかげでアダンとエレリアが情報を共有でき、イルゴとジグのことも知れたのだから。

 でもそんなこととは無縁の人々から見れば、冬を無事に越せるかどうかのほうが遥かに重大だったのだ。彼らの視点からは、貴族同士のつまらない揉め事に、生活を脅かされかけた出来事でしかなかったのだ。


「そうですね……大変迷惑な一件でした」


 リューベルトは、ぎこちなく肩をすくめてみせた。






 町と町の間の街道では何度も魔獣に出くわしたが、すべてシンザが一刀のもとに切り捨てた。リューベルトはもちろん、セスの魔法の出番もなかった。

 

「どの町もにぎやかだね、兄さん」

 

 馬車の窓から外を眺めていたリューベルトが、ぽつりと呟いた言葉はまるで独り言のようで、セスは返事を返すのが少し遅れた。

 

「うん、そうだな。冬はあまり動けないから、春から初夏は一番人が動く時期なんじゃないかな」

「そうか——」

「でも夏以降もそれほど大差はない、かな。俺もグレッド領の外にはあんまり出ないけど、ダイル様たちのお供で他領に連れて行ってもらった時は、こんな感じだった気がする」

「兄さん。フェデルマは、平和……なのかな」

「んー……? バーリン家に押し返されたネウルスも諦めたようだし、今のところはどこにも火種はなさそうだから、多分しばらくは平和が続くんじゃないかな」

「……良かった」

 

 リューベルトの表情は、穏やかに見えた。

 穏やかではないのは、眠ったあとだ。

 警護のために三人同室で宿泊しているのだが、リューベルトは時折うなされて起きる。起きたあとは他の二人に気取られないよう、暗闇の中でじっと息を殺しているのだ。

 彼はこのことを知られたくない様子なので、シンザもセスも目覚めていない振りをした。戦場近くで野営することもあるシンザたちが、こんな異変に気づかないはずがないのだが——

 両親のことを思い出すのか、帝都で大切にしていた人たちのことを想っているのか、反逆者への怒りか、それともその双肩にかかる様々な重圧ゆえなのか。

 シンザたちはいつも結局、眠った振りを続けるのだった。

 

 


 

 

 綿花栽培が盛んな領では、農家の老人にも声をかけた。彼が言うには、四年前大発生した虫にやられてしまって、ほとんどの木を焼却処分したことがあるのだという。

 

「あの時はもう廃業を考えたよ。でもね、国から領主様経由で支援金が入ったんだ。それで種と元肥を買えた。お国から、大事な産業だからやめないでほしいと言われたら、動けるは限りやってやろうと思ってしまうものでね」

 

 腰をさすりながらも、老人の笑顔は明るかった。

 この地方の領は、全般的に農業が栄えていた。魔獣よけの柵で囲われた畑では、老若男女が話に花を咲かせながら働いている。

 夜の食堂では名物だと言われた、香りの良いきのこと鹿肉のスープ煮をいただいた。

 

「どうです? そろそろ旅も終盤になりますが」

 

 シンザが尋ねた。彼は雇われ騎士の役なので、敬語で構わない。気をつけるのは呼び方だけだった。

 

「とても有意義だよ。私のわがままに付き合ってくれて、本当にありがとう」

「そんなこと、いいんですよ。私もこんな旅は初めてですから、実は楽しんでいます」

 

 三人で囲んでいたテーブルに、近づいてくる影があった。

 

「よう、あんたらはどこから来たんだ」

 

 話しかけられる前に、すでにシンザは密かに身構えていた。いつでもリューベルトの盾となり、相手を取り押さえられるように。

 酒の入った三人組の男が、少々馴れ馴れしく話しかけてきただけのようだった。視線はセスに向けられているので、行商人仲間だと思ったのだろう。一般の民には違いないが、酔った相手なので、話しかけられたセスがそのまま対応した。どうやら北のほうから来たらしい。

 

「ニーザってとこだ。知ってるか」

「それはまあ、フェデルマの人間だから」

 

 ニーザ領はベネレスト帝の晩年の頃に、旧国の民による蜂起があった。速やかに鎮静化されたというこの小さな事件は、国内(・・)で起きた最後の戦いとして有名になっている。

 

「いやあ、最後の内乱地なんて二つ名を付けられてるが、今は静かなものなんだぞ。大丈夫だから、あんたたちももっと来てくれよ」

「そうそう。もう蜂起なんて起きないからさ」

 

 セスもシンザも一瞬リューベルトを見やったが、彼は表情を変えていなかった。

 その後も商人たちは、ニーザのいいところを長々と語り合っていた。悪い人間ではなさそうだが、よく喋る男たちだった。もっとも専門的な会話になって、商人ではないと気づかれても面倒なので、セスは初めから聞き役に回って、時々相槌を打つ程度にしていた。


「きみくらいの年だと、ニーザのことは知らないのかな?」


 ふいに一人がリューベルトに話しかけた。


「……二つ名については知っています。訪ねたことはありませんが」

「そういう人が多いんだよなあ」

「新しい取引先が見つかるかもしれないぜ。ぜひ兄ちゃんとおいで」

「前の皇帝のおかげで、すっかり平和なんだから」


 リューベルトが伏せがちにしていた顔を、少しだけ上げた。隙を見て間に入ろうとしていたセスが口を出す前に、彼は商人たちに問いかけた。


「皆さんは先の皇帝のことを、どう思っていますか」

「うーん? 甘い人だったよな。でもいい人だったんだろうな。旧国の人間への弾圧も偏見もなし。それどころか他と同じように、ニーザの地方振興も補助してくれてたんだからなあ」

「去年皇帝が代わっちまって心配してたけど、今のところ変化はないし、良かったよな」


 うんうんと、男たちは頷き合う。

 リューベルトは特に感情を見せず、平坦な口調でもう一度問いかけた。


「——では、今の皇帝は……どう思いますか」

「今の皇帝? 子どもだろ?」

「どうせ何もしてないだろ。俺に言わせれば、国のアタマなんか誰でもいいんだよ。皇帝だろうが、周りのお偉いさんだろうがな」

「そうそう。生活に必要な稼ぎができて、命の心配をせずに毎日が送れればな。みんなそうだろ?」

 

 男たちはさらに酒をあおり、次第にろれつも回らなくなってきた。セスにも酒を勧めてきたが、機嫌を損ねて騒ぎにならないよう、少し口をつけたあとは丁寧に断って、シンザに目配せした。

 

「そろそろ行きましょう、セス様、リュート様」

「ああ、行こう、リュート」

「うん……そうだね」

 

 ——この頃にはもう、リューベルトの心は定まっていたのだろう。シンザはあとになってそう思った。

 

 

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