十三、元宰相
アダン・キュベリー伯爵は、窓の外で音もなく天から降り注ぐ真っ白な雪を眺めていた。
一年で最も寒い季節を迎えている。今日は一段と冷え込んでいて、日中でも暖炉の前で暖まりたくなる。かつての年ならば、家族とこの屋敷でゆっくりと過ごしていた一の月。
妻は三年前に亡くなり、今年は子どもたちの姿もない。アダンは一人で過ごす冬の寒さに、身体の芯まで冷やされる思いがした。そんな時はいつも、私室に飾ってある家族の肖像画に引き寄せられてしまう。
絵の中の家族五人は、いつでも幸せそうだ。エレリアに引き継がれている、美しい髪を肩に流した在りし日の妻は、まだ四歳だった小さな二男を膝に乗せて、花のような微笑みを浮かべている。
彼女の墓はこの領館の敷地内にあるが、子どもたちは命日に祈りを捧げに来られなかった。未成年に帝都で暮らすことを義務付ける、それがそもそも異常な事態だが、将来の当主であっても少しも領地に帰ってはいけないとは、おかしな話である。
……人質なのだから、自領に親しみ学ぶことなど、優先されないのだろうが。
「エレリアでもあと一年以上……。ウィルドとイーリオが帰ってくるのは、まだまだだな……」
妻に子どもたちの成長を見せてあげられない。ただもう一度顔を見させてあげることさえも、遠い日になりそうだ。
建前では、アダンへの処分は終わっている。かけられた「疑い」がすべて晴れたとは判断されていない状態だが、いち領主として年次報告に行くことは許されて良いはずだ。アダンは当然の義務と権利として、春には帝都へ上がりたい旨を役人に申請してある。
キュベリー領に建つこの屋敷には、常に数人の監視役がうろついている。彼らが何かに手をかけたりすることはないが、屋敷で働く者たちにとっては、彼らの姿が見えるだけでも息が詰まることだろう。
もう何ヶ月もこの暮らしだ。時折もはや慣れてしまったような錯覚に陥るが、やはりこの不快感にはまったく慣れていない。
アダンは執務の席につき、帝都に暮らす子どもたちから届いた、役人による検分済みの手紙を読み返した。
長男ウィルドと二男イーリオは、ティノーラ・リエフという二人目の剣の師を得て、新しい剣技を教わっているようだ。ウィルドは、姉も少し上達したが、まだ自分のほうが勝っていると自慢している。イーリオは背が伸びて、冬の服を全部取り替えたこと、飼っているオウムが新しい歌を覚えたことなどを書いている。
娘のエレリアは、秋の終わりにバーリン領で起きたネウルスとの戦闘が、春にまた起きないかと懸念しているようだ。個人的なところで、ティノーラの兄ノルドレンが、また後方支援に出ることも心配だという。
国境のリエフ家といえば、ディーゼン陛下がベネレスト帝の「横暴」を謝罪した伯爵家だ。陛下は支援をしていたが、大胆な領地改革をするために、私財をも切り崩していたようだった。支援の上積みを提案しても、免税までしていただいているのですから、これ以上は受け取れませんと辞退していた。一年前の年次報告では、ようやく赤字がほぼなくなって、特に酪農事業が軌道に乗り始めていたようだった。
実質軟禁されているアダンは、情報網を失っている。役人が聞かせてくれる話しか届かない。だから知らされていないことも多いのだろうが、ネウルスとの戦に関しては、半月ほどで敵国が撤退したと教えてもらうことができた。
バーリン家が特に問題なく対処したのなら、しばらくは元の睨み合いの状態に戻るだろうと、アダンは踏んでいた。ネウルスにしてみれば、相手の隙をつけなかったのなら、連続して戦を仕掛ける利点はこれといってない。次の好機を窺うだろう。
アダンは羽ペンを取り、子どもたち一人ひとりへの返事を書き始めた。
それぞれの最後は、同じ言葉で結んだ。お前たちの成長した姿を見るのを楽しみにしている、と。
家族がいないと、一人の時間を持て余すばかりである。冬の間にこなすべき領地の執務も例年より異様に少なく、すぐに終わってしまった。アダンは半ば仕方なく、子どもの頃に好きだった油絵など描いて過ごしていた。
気を紛らわせながら毎日日が暮れるのを待っていると、監視役たちに奇妙な動きがあった。雪の積もる中、領地外から役人がやってきて、何事かを真剣に話し合っていた。数日後にも同じことが起きた。
また何か冤罪をかけてくるのかと、アダンは身構えていた。これだけ情報を遮断された中で、果たして対抗できるだろうか。しかし彼らは、キュベリー家側には何も伝えて来ず、何を仕掛けても来なかった。
アダンも使用人たちも落ち着かぬ日々は、さらに役人がやってきたある日に、突然変化を迎えた。
「我々の任務は一部解除となりました」
彼らは、アダンの行動の何もかもを監視していたが、その一部をやめるという。なぜそうなったのかアダンに心当たりはなく、何かの罠かと疑った。
「勘ぐっておいででしょうが、これは中央からのお達しです。来訪者は引き続き確かめさせていただきますが、お相手によってはお話は聞きません」
彼らはここ最近の動きを、やっと説明した。
キュベリー領だけでなく、こちらの地方、特に北や東の方面の領の各商業協会から、キュベリー伯爵への締め付けを非難する声が強まっていたのだという。
フェデルマの中央部にあたるキュベリー領は、国内の物流の要所である。東西南北の物が集まる領都ベルスタは、大きな街道町であるとともに、帝都に次ぐ商業都市のひとつとなっている。帝都が遠い北部や東部地方の領の人たちにとっては、ここはその代わりになるのだ。
それほどに大事な都市であるのに、キュベリー伯爵と領民との間の意思疎通に障害ができたことが、重大な問題を引き起こしていた。あらゆることを領主に諮れなくなったことで、商業に支障が出ていたのだ。
それは単純な商人たちの利益減少の問題には留まらない。帝都への移動が難しくなる冬に、ベルスタで物が手に入らなくなるということは、北部と東部の一般の人々にとっては死活問題に繋がる話だった。
そんな民の声を受けて、ついに領主の貴族たちからも、キュベリー家への対応が行き過ぎだという声が高まった。中央の者たちも折れざるを得ないほどに。
——商業に支障……?
話を聞いても、アダンはどうも腑に落ちなかった。確かに民からの要望や承認を求めるような案件が、今年はほとんどなかった。それもあって仕事があっけなく終わってしまったのだ。
だがアダンへの訪問が、完全に遮断されているわけではない。商業協会の者がその気になれば、面会を申し入れることは充分可能のはずだったのだ。
キュベリー領の商業協会の代表者ザナロがアダンに面会を希望したのは、それからすぐのことだった。役人は同席を見送った。領内の話であり、商いの相談であるので、ザナロがそう望んだのだ。
アダンにとっては実に久しぶりに、中央に筒抜けにならない会話となった。
「物流や商いが滞っているというのは本当なのか。領内に留まらないところまで影響が及んでいると聞かされたが……なぜそんなことになった?」
領主に会うことができないくらいで、それほどのことにはならないはずだ。よほど重要なこと以外はアダンでなくても、裁量権を持っている者はいる。帝都にいることの多いアダンの代行者である領地管理人でも良いし、目の前にいるザナロにもある程度の決定権はある。充分に回していけるはずだった。
アダンの父の代から領内の商人を束ねる立場にあるザナロは、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。我々にはこうする他に、手段がなかったのです」
「手段……とは、何のことだ……?」
顔を上げたザナロは、にっと口元で笑った。でもしわのある目元では、少し無念そうな色を見せた。
「私たちは、キュベリー様を……解放して差し上げたかったのです」
「……! 私のためにか……!?」
はい、と言ったザナロは、膝の上で拳を握った。
「役人を追い払いたいと考えていたのですが……商人の力では、そこまでは叶いませんでした」
彼は、いや彼らは、敬愛する領主へかけられた濡れ衣が許せなかった。商人が政治を動かすことは難しいが、せめて軟禁という仕打ちをやめさせたかった。
商人とは、横の繋がりが太いものだ。周辺の領の協会も、キュベリー領の怒りに同調した。アダンがザディーノと通じているはずがないのは、誰もがわかっていた。
彼らは密かに連携し、監視されているキュベリー領主と商議できないことを口実に、秋の頃から徐々に物流を遅らせた。わざと物が少ない状態にすることで人々が不安を覚え、貴族に向かって声を上げるように。
急激に力をつける旧派に逆らえず、黙り込んでいた領主たちも、内心には息子や娘を帝都へ連れて行かれた不満を抱えている。民の声という後押しを受けて、一斉に中央に向かって批判を集中させることになった。
ついに帝都の中央政治をも動かしたのだが——
「狙い通りにはなりました。……しかし、すべて思い通りとは行きませんでした。残念でございます」
「驚いた……領主方を手玉に取ったのか」
アダンは顎に手を当てて、苦笑を堪えられなかった。まさか膝元の領地で、そんな企てがされていたとは。
「商業とは、日々の生活の基礎を作るものと自負しております。基礎が細くなれば、人は不安に陥り、どんなに重い腰でも上げましょう。しかしご安心ください。皆様が冬を越すのに問題ない程度の物資は、各々の協会が裏で確保してございますので」
「……大したお方だ、あなたは。並の貴族よりお知恵が働くのではないか?」
「知恵と悪知恵を使い分けてこそ、一流の商いができるというもの。お褒めにあずかり光栄でございます」
今度こそ、アダンは声を出して笑ってしまった。ザナロも笑ったが、ふうっと、悔しさがにじむ表情に戻った。
「しかし、やはりと申しましょうか……役人どもは、帝都へ帰ってはくれませんでしたね」
「そうだな。それにしても……私は、領内の混乱にさえ気づけない世間知らずになっていたのだな。野放しにはしてもらえないが、少しの自由は手に入れられそうだ。本当に助かったよ。ありがとう」
アダンはザナロに、今の帝国の状況を聞いた。思っていたよりもまったく、旧派は政策転換を進めていないようだった。国内の豊穣計画をやめ、国境線を東に動かすための軍需に、予算を転換するかと予想していたのだが、そういう動きはないようだという。
「ザディーノとネウルスも退きましたし、昨年の大混乱は治まった状況です。民の間では、平穏な生活が戻ったと感じている者が大半でしょう」
「……そうか。平穏は……何よりだ」
アダンは数ヶ月前の、帝都近くの港で「裁判」を受けた時のことを思い出していた。
旧派の面々とルイガン……彼らは、皇帝ディーゼンを手にかけ、皇太子リューベルトが事故死するきっかけを作り、アダンを排斥した。
そこまでしておいて、彼らは何も変えていないというのだ。これでは、あまりにも奇妙ではないか。
——旧派は一体何をしている? 嵐の前の静けさなのか……それとも、もしかして彼らは、国を変えることができないでいる、のか……?




