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炎国の騎士と北の夜明け  作者: 紘麻 涼海
第四章 それぞれの道
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十二、小さな前進

 それは夢のようなお話で、ターシャはまぶたも唇も壊れたみたいに開いたまま、ぼうっとしてしまった。

 

「すぐにお返事をとは申しません。二年後以降だって構いませんよ。こちらはいつでも歓迎いたします」

 

 向かいに座るノルドレンの声に我に返ったターシャは、慌てて唇を引き締めた。きっと幼子のような顔をさらしていたと自覚して、頬が熱くなった。

 

「どうかなさいましたか?」

「あ……い、いえ……その」

「私の言葉では信用できませんか? これでも次の伯爵なのです。優秀な人材をお招きする権限くらいは持っていますよ。どうぞご安心を」

「いっ、いいえいいえ、申し訳ありません……っ、そのような心配をしているわけではなく——」

「ふふ、冗談に決まっているでしょう、ターシャ」

 

 隣でカップをソーサーに下ろしたティノーラが、楽しそうに笑っている。ターシャはますます頬が熱くなるのを感じながら、つい浮かしかけていた腰を椅子に下ろした。

 ティノーラの伯爵家へ招いてもらえるなんて、本当に夢物語のようだ。それもリエフ家の事業を手伝うなんて、大それた仕事をくださるという。望むのなら孤児院の教師でも良いという。こんなことが、本当に自分なんかの身に起こるのだろうか。

 

「た、大変うれしいお話で……驚きで、その、動転してしまって……」

「私もターシャが来てくれたらとてもうれしいわ! ただ、フェデルマの中ではちょっと暮らしにくい領だから、そこは覚悟してから来てね」

「こら、ティノーラ。勝手に決めるんじゃない。来てくださるかは、ターシャ様がお決めになることだ」

「それはわかっているけれど」

 

 ティノーラがちょっとむくれた表情をした。今まで見たことのない表情だった。ターシャは彼女のことを自分より大人だと思っていたけれど、兄の前だと少し違うようだ。

 エレリアのことも、二人の弟と仲が良いなと思っていた。母がいないから、必要以上に心配してつい口を出してしまう、なんて姉特有の悩みも吐露していたが、ターシャからすれば羨ましい限りだった。

 ターシャにも書類上には義理の弟がいるが、ほとんど口を利いたこともない。確か五歳だと聞いたが、大体リビーと一緒にいる彼とは、ターシャが顔を合わせる機会がないせいもあるし、彼のほうもターシャを姉だとも従姉だとも思っていないのだと思う。帝都へ来て初めて会って挨拶をした時も、貴族子女として教わったばかりだと思われる、型にはまった言葉しか返されなかった。

 

「ほ、本当に……私などに、そんな素敵なお話をいただけるのですか……? 私は……イェルムでは、疎まれているだけなのです。そんな、私なんかに……」

 

 ふとノルドレンの目が、真正面からターシャを捉えた。

 そうですね、と言われるのかと思った。その青鈍色の瞳を正視できなくなって、ターシャはテーブルの木目に視線を落とした。

 

「ターシャ様。失礼ながら、それは良くない癖かと存じます」

「……癖……?」

「私なんか……と、ご自分を卑下なさるところです」

 

 彼の声は、怒ったり呆れたりしたものではなかった。とても優しい、耳に温かい声。

 

「謙遜すべき場面であったとしても、あまりご自分を貶めるものではありませんよ。それは、あなた様のことを大切に思っている、私の妹のためでもありますので」

「ティノーラの……ため……?」

「そうです。ティノーラは大好きなご友人を、あなた様にけなされることになるのですから」

「——えっ……、そ、そんな——」

「私は妹の見る目を信じております。ターシャ様は貶められてよい方のはずがありません」

 

 ターシャは戸惑ってノルドレンを見、次にティノーラのほうを見た。ティノーラは得心が行ったような顔で、うんうんと細かく頷いている。

 

「そうね。そういえば時々そういう言葉を使うのは、ターシャの悪い癖ね。ぜひ早く直してほしいわ」

「えっ……、ご、ごめんなさい、不愉快な気持ちにさせていたのですか?」

「不愉快……というより、少し悲しい、かしら。私もエレリアも、ターシャのことが好きなんだもの」

「ごめんなさい……き、気をつけます……」

 

 ノルドレンとティノーラの兄妹は顔を見合わせ、ふわりと笑っていたが、ターシャはなんだか泣きそうになっていた。ティノーラにさらりと言われた言葉は、初めてもらった言葉でうれしかった。

 ノルドレンに指摘されるまで知らなかった。言葉のひとつでも、自分を大切にするべきなのだということ。それが自分を見てくれる人のためでもあるのだということを。


 セルギには姪としても目をかけられず、遠ざけられてきた。そうとわかっていなかった本当に幼い頃、彼女は会っていなかった半年間の出来事を、養父に話そうとしたことがあった。「おとうさま」と話しかけた瞬間に彼は嫌そうな顔をして、その場を離れていってしまった。

 その後もセルギは、ターシャとの時間を作らなかった。挨拶にも「ああ」としか答えなかった。

 そうしてやっと気づいた。あの人と自分は家族ではないのだと。セルギにとってターシャは邪魔な存在、いらないのに捨てるわけにもいかないモノなのだと。

 そんな自分を、大切に思えたことはなかった。

 けれど、ティノーラが好きと言ってくれるターシャという存在を、これからは自分自身でも見つめ直してみよう——初めてそう思い始めた。

 

 


 

 

 夜、時々仕事が早く終わるとアイダは、一人で過ごすターシャの部屋を訪れてくれる。ターシャは、今日リエフ家からいただいたお話を聞いてもらった。

 

「ティノーラ様のお兄様が、そんなをことを? とても素晴らしいお話だと思います」

「うん、私もうれしい……」


 ターシャはイェルムの屋敷に帰ってから、何度も今日のことを思い返し、リエフ領で暮らす自分を夢想しては、一人で笑みをこぼしてしまっていた。

 将来を待ち遠しく感じるなんて、これも初めての経験かもしれない。

 

「ノルドレン様はね、もしアイダが二年後にはメイドを辞めるつもりでいるのなら、ぜひご一緒にとおっしゃっていたわ。リエフ様の領は少し危険もある国境領だけれど……アイダも考えてみてくれないかしら」

「私のことまで……ですか!?」

 

 ターシャの未来にひとすじの光が射したことに心からほっとしていたアイダは、今度は心からびっくりさせられた。まさか自分まで気にかけてもらっているとは思いもしなかったのだ。

 

「それはとても……ありがたいお話にございます」

「良かった! 私、この二年のうちに、もっと勉強しておきたいわ。少しでもお役に立ちたいの。こんな私なんかを——」

 

 あっと言って、ターシャは一度言葉を切った。

 

「……私を、雇ってくださるリエフ家に、できる限りの恩返しをしたいと思っているの」

「良いお考えだと思います」

 

 ターシャの前向きな発言に、アイダはうれしそうに賛同してくれた。


 その実現のために、ターシャはセルギにひとつのお願いをしようと思っていた。

 これまでターシャが読んでいた本は、領地から持ってきたものである。許されるだけ馬車に積んできたのだが、もう全部読み終わってしまった。

 もっと学がほしいターシャは、この家の書庫に入る許可をもらいたかった。ターシャの実の父親は騎士として戦った人だが、セルギは文官として働いている。彼の書庫にはおびただしい量の本が並んでいたと、掃除をしたことのあるアイダから教えてもらっていた。

 普段は書庫のドアには鍵がかかっている。その鍵は、セルギと家令が持っているらしい。

 

 ——お願いを……

 

 そう決心したつもりが、なかなか切り出せずに数日が過ぎた。

 ターシャはセルギにお願いどころか、嫌われていると知ってからは話しかけたことさえない。領地の屋敷に彼が仕事で滞在していても、アイダに導かれて挨拶と生活への配慮のお礼を述べるだけだったのだ。

 

 ——これではだめ。ちゃんと……!

 

 今日こそはと、ターシャは執務室のドアの前に立った。お客様が来ている様子はない。セルギが城へ行く前、朝のうちに、ほんの少しだけ話をする時間をもらうのだ。

 養父である叔父と話をしようとしているだけなのに、ノックをしようと持ち上げた手は情けなく震えてしまい、何回も躊躇った。またやめたくなってきた。諦めてしまいたい……

 

 ——いいえ。私は……お役に立つために、できることをしたいの……!

 

 意を決して、ターシャは扉を叩いた。

 はい、と聞き慣れない声が返ってくる。

 

「ターシャです。す、少し……聞いていただきたいお話が、ございまして……」

 

 カチャ、と目の前の扉が開いた。そこにいたのは、叔父ではなかった。ターシャは部屋を間違えてしまったのかと、心臓が飛び出してしまいそうなくらい驚いた。

 

「話とは何だ」

 

 奥から、少し聞き覚えのある声がした。そうだ、これが叔父の声だ。ノックの返答は扉を開けたこの男性、家令の声だったのだ。

 彼は、どうぞお入りください、と手招きした。

 家令がいると思っていなかったターシャは、ますます緊張し、足まで震えそうになった。

 

「話というのを聞かせなさい。私はあまり時間がないんだ」

 

 執務机に広がる書類を片付けながら、セルギは疑わしそうな顔をして、ターシャを急かした。

 でもその圧迫感のおかげで、縮こまっていたターシャは早くしなければと、話し始めることができた。

 

「お願いが、ございます……。し、書庫の本を、読ませていただけないでしょうか」

「書庫?」

「貴重なものには、触れません。い……一部でも、いいので……」

「話とは、それだけか?」

「は……はい」

 

 セルギは大きな机の向こうで、気が抜けたように姿勢を崩した。

 

「……何のためだ」

「もっと、勉強が……したいのです」

「勉強? キュベリーの子息たちに、家庭教師まがいのことでもしているのか?」

「……? いいえ……私自身が……したいだけです」

 

 エレリアの弟たちには、優れた家庭教師がついている。ターシャが勉強を教えたことはない。

 セルギはじっと探る目で、ターシャを見た。怖くなった。やはりだめだろうか。

 

「キュベリーの屋敷で何かを見た、何かあった、という話ではないのだな?」

「……は、はい……。キュベリー様のお屋敷では、特に何も……ありません」

 

 そこまではっきり言われて、セルギが何を疑っていたのか、ターシャにもようやくわかった。

 彼にしてみれば、これまで話しかけてきたことのない義理の娘が、わざわざ部屋を訪ねてきたのだ。何事かと警戒心が働いても無理はない。しかもターシャは、問題のあるキュベリー家に出入りしている娘だ。黙認してやっていたが、何か面倒事に巻き込まれて相談に来たのかと考えていたのだろう。

 イェルム家を守るための算段も、頭の中では始めていたのかもしれない。

 

「そうか、それならばいい。……ああ、書庫か。いいぞ、鍵を渡しておいてやる。貴重な古書の類も読んでもいいが、部屋からは出すな。それ以外は元に戻しさえすれば、持ち出しても構わん」

 

 セルギが合図をすると、家令がポケットから束になった鍵を取り出し、その中から一本の鍵を外し取った。

 彼が差し出したそれを、ターシャは両手で大切に受け取った。

 

「あ、ありがとうございます、セルギ様」

「話は終わったな」

 

 出て行けと言わんばかりのセルギの態度に、ターシャは急いで礼をした。家令が開けた扉を、彼にもお礼を言いながらくぐった。

 すっかり追い出されたような最後だったが、ターシャは気にならなかった。廊下を歩きながら手の中の鍵を確認した。持ち手の部分もただ丸く、透かし彫などの飾りもない、ただの鉄製の鍵だった。

 でもこれは、何でも諦めてばかりだったターシャが欲して、自発的に行動して得たものだ。

 本を読めるのも幸せだけれど、自分のために自分で動いて手にすることができたこの鍵は、鈍色でも輝いて見えた。

 

 

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