十一、相談
ティノーラがエレリアから教わってきたレストランは、下級貴族の街区の商業中心街から少し外れた、落ち着いた街並みの一角にあった。ノルドレンは朝のうちに事情を説明しに訪ね、店が一度閉まる午後の時間に料理長と会う約束を取り付けていた。
グレッド家の方々とリューベルトにはお墨付きを貰っているとはいえ、今日は実際にこの帝都で店を構える人物に、リエフの乳製品を食べてもらうのだ。ノルドレンの内心は不安と緊張が入り乱れていたが、リエフの代表として堂々と胸を張るよう心がけ、バターとチーズを差し出した。
どちらも、一般的なものよりも白い。おそらくこんな色のものは見たことがないだろう。料理長は怪訝そうな顔をした。
「ずいぶんと色の薄いチーズですね。ですが……うん、香りはとても豊かです。焼けばもっと香ばしいでしょうか。では早速、お味を——」
彼はチーズをひとかけら切り取ろうとした。一般的にチーズは固いものなので、そのつもりでナイフを入れたのに感触は柔らかく、さらに溶けてしまいそうな断面が現れ、ますます首をひねっていた。そしてかけらを口にするなり、見た目の色と反して薄くない味と、舌を包むような独特の食感に目をむいた。
驚いてくれることまでは予想できたが、気に入ってくれるかは別問題だ。ノルドレンは彼の反応を注意深く見守った。
「リエフ様、これは……西大陸からの輸入品か何かでしょうか。これまで流通しているどのチーズとも、あまりに違い過ぎます」
「いいえ、輸入品ではありません。我が領が生産しているものです。いずれ帝都でも販売したいと考えております」
「なんと……これが、フェデルマ産なのですか……」
気を落ち着かせるように大きく息を吐くと、料理長はもう一度チーズを口にした。それから何も言わずに、今度はバターを切り取って直接舌に乗せて味わった。
「これも、また……香りは芳醇……コク深いのにさわやかで、舌触りもいい——」
独り言のように呟くと、彼はまたもうひとかけら口に入れて、しばらく黙り込んだ。
見守るしかないノルドレンの前で、彼は静かにナイフとフォークを置くと、参ったと言わんばかりに、首を大きく振った。
「リエフ様……素晴らしいお品です。私はこれが欲しくてたまりません」
彼は途端に沸き上がった興奮を抑えられない様子で、リエフのバターやチーズを褒め称えた。ぜひ卸してください、そのまま出すのもいいが、調理法も開発したいと、料理人らしくあれこれと提案までし始めた。
帝都のことに疎いノルドレンは、妹を通してエレリアに教えられるまで知らなかったのだが、このレストランは時には、貴族の晩餐会に出張を要請されるほどの名店なのだという。
上級貴族とも関わりがあり、それほどまで名が通っているのに、リエフの名を聞いても、キュベリーの紹介だと言われてもまったく意に介さないのは、彼が筋金入りの料理人だからだ。貴族たちの権力の優劣になど興味はなく、純粋に食材と料理だけを追求する彼だから、エレリアも紹介してくれたのだった。
この料理長は平民なので、もともとは平民の街区で店を始めたのだが、評判が貴族にまで届いてこの店を建てた。始まりの店も弟子が営業を続けている。
彼に気に入ってもらえたのなら、両方の店で、平民にも貴族にも食べてもらえる機会に恵まれるかもしれない。今回の売り込みは大成功といえるだろう。
ヒュッと繰り出されてきた木剣の切っ先を盾で逸らし、ノルドレンは身をかわす。そこから流れるような動きで、右手に握る木剣を、相手の胴の辺りに横薙ぎにする。ティノーラも兄に負けないくらい素早い動きで、後ろへ身を引きそれをかわした。
「母上と私が期待していた以上の手応えを得られたよ。リエフ領に明るい報告を持ち帰ることができる。あの店を紹介してくれたエレリア様に、直接感謝を申し上げたいところだ」
「それはだめでしょう、お兄様。ちゃんと私から伝えておくから」
「ああ、くれぐれも頼むよ」
一合二合と打ち合いながら、ノルドレンは妹に店での出来事を聞かせていた。もちろん落ち着いて話すつもりでいたのだが、夕方に屋敷に帰るとティノーラが、稽古をつけてほしいと、身支度も万端に待ち構えていたのだ。
エリガ城では、こうして会話をしている二人は、よく見かけられる光景のひとつだった。リーガとレマは庭の隅から懐かしそうに眺めている。
ティノーラが踏み込み、再び剣先が突き出されてくる。彼女は細剣を使うため、斬りかかるというより突きの攻撃が主となるのだが、その鋭さは一瞬ノルドレンの冷静さを奪った。
カッと乾いた音が鳴り響く。ティノーラが思わず短く声を上げた。痺れたらしく、右手を軽くさすっている。持っていた木剣は弾き飛ばされ、芝生の上に転がっていた。
「ごめん、ティノーラ。大丈夫か」
「大丈夫よ。手を打ったわけでもないのに、そんなに心配しないで。やっぱりお兄様は強いわね。少しも勝てそうにないわ」
「いいや、今の一撃には驚かされたよ。ティノーラも腕を上げたな」
「そう?」
ティノーラは歯を見せて笑ったが、ノルドレンは何かが気にかかった。
「お兄様、まだ盾の捌き方も上手なのね」
ノルドレンも双剣使いになる前は、普通に剣と盾を使っていたのだ。
ティノーラとの手合わせになると、いつも左手は使わなかったのだが、今日はレマにはできない、盾を持つ相手をしてくれと頼まれた。
「時々殿下とも、盾を使った訓練もしているんだ。昔を思い出して、お相手をしていたんだよ」
「どちらもできるなんて、本当に器用よね」
「器用さと強さは、残念ながら別物だがな」
「もう、謙虚なんだから。お兄様はすごく強いじゃない。シンザに勝っているんだから、自信を持っていいと思うわ」
そうかな、と言ってノルドレンは腕から盾を外した。
シンザと手合わせをすれば、今は八割の試合で勝つ。あの男は追い上げてくるだろうが、負け越すわけにはいかない。実は負けず嫌いのノルドレンは、そのために双剣に転向したのだから。
九年前、リエフ家がベネレスト帝によって領地を移されてから、ノルドレンとシンザは良き友人となり、やがてライバルとなった。
しかし成長するにつれて、体格に恵まれてゆくシンザとの間に差を感じ始めた。ノルドレンもどちらかといえば背は高いし、手足も長く筋力もあるが、シンザには負ける。同等の鍛錬を積んでも、生まれ持った素質の違いが際立ってきてしまった。
同じことをしていても、対等になれなくなる日が来る。そう悟ったノルドレンは、旧国からリエフ家の臣下となった騎士隊長に、珍しい双剣使いがいたことを思い出し、教えを請うたのだった。
妹が言うように器用であることが奏功し、師の教えをすべて吸収したノルドレンは、シンザとライバルであり続けることができている。
「私も、もっとがんばらないとね。こんなに戦が頻繁に起こっているのだから、リエフ家の娘として、早く立派な騎士にならないと。お夕食の時間まで素振りをしようかしら」
「そんなことを考えて、急に手合わせなんて言い出したのか。でもティノーラ、それだけか?」
「うーん、もっと筋力強化を図るべきだと思う?」
「……。そうじゃない。今日、何かあったのか。なんだか、苛立っているように見える」
「……!」
図星を指していたようだ。ティノーラは口ごもった。
「言いたくないならいい。ただ、剣が少し荒くなってる。それも制御しないとだめだぞ」
「うん……。ううん、お兄様……聞いて。私ね、気持ちのやり場に困っているのよ」
妹は小さな中庭の隅にあるテーブルに木剣を置くと、その横の椅子に座った。
話は、ターシャのことだった。
キュベリー邸で二年後のことを話題にした昨日の帰り際、エレリアがティノーラに、ターシャと話して、と耳打ちをしてきたという。
「私にも、ターシャは少し元気がないようには見えていたの。エレリアは、自分がいるところでは監視にも聞かれてしまうから、ターシャは話しづらいんじゃないかと思ったみたい」
彼女が自分から話すまで話題にして良いか迷っていたティノーラを、エレリアの言葉が後押しし、今日訓練場脇のガゼボで会った時に、ターシャに聞いてみた。
エレリアも心配していると言うと、ターシャはぽつぽつと話し始めた。心のうちを話すことに慣れていないのか、彼女にしては話がまとめられていなかった。
ゆっくりと話を聞いていると、エレリアやティノーラと自分との違いを改めて感じ、寂しくなってしまった、ということのようだった。
もちろんティノーラは、何年後だって友達だと伝えた。エレリアも同じ気持ちに決まっている。
でもターシャの言う違いは、身分の話だけではなかった。彼女の未来にはやりたいことも、するべきこともなかったのだ。用意されている空虚な暮らししか選べない。求められるのは、平民になってからも、イェルム家の恥にならないことだけ。
「イェルム伯爵は、ターシャを何だと思っているのかしら。勝手すぎると思わない?」
話しているうちに、ティノーラはだんだんと感情的になってきた。シンザがセルギをあまり好きではないからといって、仮にもターシャの義父なのだから、色眼鏡で見てはいけないと心得ていたはずだ。養子縁組解消の話を聞いても、相続に関して混乱を起こさないためにやむを得ない、貴族家ならばあることだと考えるようにしてきたのだろう。
だがついにティノーラの我慢が限界を迎えた。セルギはターシャを、少しも家族として扱っていない。ターシャの将来が無造作に潰されようとしている。それなのに、ティノーラは何もしてあげられない。それに苛立っていたのだ。
「ターシャ様は養子縁組解消に関して、本当に何も申し立てないのか」
「ええ、しないそうよ。イェルム家に残りたいという気持ちは持っていないって」
実の父親の生家でもあるから、迷惑をかけずにこのまま手続きを終わろうと思う……ターシャはそうも言った。
彼女からそう聞かされてしまうと、もはや文句のひとつも言えなくなる。
「きっと私にできるのは、時々イェルム領へ会いに行くことだけよね」
またやり場のない気持ちが蘇って落ち込み、おとなしくなったティノーラは、素振りをする気がなくなり、レマを連れて着替えに行った。
「ターシャ様のご事情を初めてお知りになった時も、お嬢様はあのようにお怒りになり、悲しんでおられました」
ティノーラたちが館の奥に消えると、リーガが静かな声でノルドレンに明かした。
「そうか……あまり怒る子ではないんだがな」
エレリアにもどうにもできないだろう。それでなくても今のキュベリー家は、些細な揉め事でも起こすことのできない状況だ。
——ターシャ様が、ご自分が我慢なされば良いことだと諦めてしまわれているのも問題か……
ターシャが納得してセルギの指示に従っても、ティノーラのほうがいつまでも悔やんでいるような気がする。ノルドレンにしてやれることはないだろうか。
セルギが家名に傷がつかぬようにと立ち回るのも、次期当主として理解できなくはないのだが。
「日が落ちました。ノルドレン様も、そろそろ中へお入りください」
「うん? ああ、そうだな」
ノルドレンには、それほど帝都でゆっくりしている時間はない。早々にエリガへ帰り、冬を越える支度と戦の準備を終わらせなくてはならない。それから、騎士隊を率いてバーリン領へ出陣するのだ。
妹がテーブルに木剣を忘れていた。ノルドレンはそれを拾い上げると、ふと昔を思い出した。
ノルドレンに最初に剣を教えてくれたのは父親だったが、ティノーラに基礎を教えたのは父親ではなく自分だ。移された領地を改革するために、両親はとても忙しくしていたから、自然とそうなった。
現在はそんなことはないが、幼い頃のティノーラは小柄で力も弱いほうだった。だから稽古の開始は、もう少し大きくなってからにしようと言ったが、ティノーラは頑固に毎日素振りをし始めた。諦めようとしなかった。
「おとうさまが街の人に、あきらめるのは最後にすることですよって、言っていたもの」
それは森を開拓する話の一部だったのだが、父の言葉はティノーラの信条となっていたらしい。
彼女の手本たるあの父が健在だったなら、友達のことを諦められず、何度も憤る娘を褒めたことだろう。それから、何か知恵を授けたかもしれない。
父は、諦めてしまっている人々に、無理やりにでも道を開いてみせた人だった。立ち止まって俯いてばかりの領民に、前を向く根拠を捻り出したのだ。
ターシャもあの頃の領民と同じだ。イェルム領で命令通りの人生を送るしかないと、俯いてしまってる。自分がやりたいことをしてしまうと、イェルムに迷惑をかけるからと。
「……いや……待て、……そうか。イェルム卿の面目を潰しさえしなければ、ターシャ様は従わないという選択もできるのではないか? 二年後であれば、リエフ領へお引き取りしてしまうというのも……可能じゃないだろうか」
「お引き取り……ターシャ様をですか?」
「ああ。たとえば私から、イェルム卿に依頼したらどうだろう。平民になったターシャ様を雇いたいと。リエフも伯爵家には変わりないんだ。貴族から直接頼まれれば、イェルム家の元令嬢が他領に移住しても、不自然な話にはならないんじゃないか?」
セルギはターシャとの家族関係は解消はしたいくせに、周囲から養女を追い出したように見られることは嫌で、自領内で不自由のない生活を与えようとしているだけだ。
ターシャは平民になるのだから、雇用契約を結ぶことは可能になる。伯爵家で重用されるならば、イェルム家の恥にはならないのではないだろうか。ターシャも選択肢に加えてくれるかもしれない。
彼女はとても知識が豊富だとティノーラが言っていたから、人手の足りないリエフ領としても、優れた人物が来てくれるのはとてもありがたい。
リーガは、ノルドレンの発案に心から感心した。誰のことも困らせない素晴らしい案だと思った。
「本当にそうなれば、お嬢様も大変喜びましょう」
「あくまでも、ターシャ様がリエフ領を選んでくださればの話だ」
どんな将来であろうとも、価値を決めるのは本人のみ。自分の道を選択するのは、自分なのだから。




