十、養女
初めてできた友人のティノーラは、ターシャのことをお兄様にも紹介してくれた。優しそうな方だった。ティノーラも優しい人だが、雰囲気は少し違う。やはり成人しているためか、大人らしくて物静かで、落ち着いた印象の方だった。
叔父以外の貴族の男性と話した経験がなかったターシャは、緊張のあまり、きっと見るに耐えない挨拶を披露してしまっただろう。そう考えてしまい、あとになって気落ちした。
——子どもの頃から、アイダに教わっていたのに。
アイダは、いつかは貴族の方のご夫人となられるでしょうからと、ターシャに対して勉学だけでなく、マナーや作法まですべて教えてくれた。でも、日常的に練習できる食事の作法と違って、相手が必要な挨拶などは、実践したことはなかったのだ。
せっかく教わったことが役に立つ場面だったのに、きっと上手にできていなかった。
アイダには、本当に申し訳ないと思っている。家庭教師としてイェルム家に雇われたばかりに、彼女はターシャに振り回されることになってしまったのだ。
数ヶ月前、十二歳のターシャが暮らしていた領地の屋敷に、セルギ・イェルム伯爵の遣いの者が訪れた。春と秋くらいにはセルギ自身も領地に顔を出すし、それ以外にも年に数度は、意思疎通のため管理人と話し合いに使者が来ていたが、その時の彼は国からの御触れを携え、ターシャを訪ねてきた。
「命令なので、帝都へ上ってください」
その者は、無感情でそう言い付けた。ターシャに見せたのは、未成年は帝都に住むとするあの御触れだけ。セルギからの手紙などは何もなかった。
公式書類上ではターシャはセルギの娘で、貴族の子女である。行かなければ、セルギが御触れを破ったことになる。行くしか選択肢はなかった。
教わるべき勉学はとっくに終わっていたので、アイダとの契約は解除して、彼女には孤児院で正式な教師となってもらおうと思っていた。しかしアイダは、メイドでいいからと、ターシャに付いてきた。
アイダが一緒で、心細さは和らいだ。うれしかったけれど、心苦しくもあった。
帝都へ着いてすぐにセルギから、成人と同時に養子縁組を解消しようと言い渡され、アイダから学んだ令嬢の教養は役に立てられなくなったことも、申し訳なかった。
ターシャは十三歳になったばかり。ようやく十五歳まであと二年を切った。
成人したらイェルム領に帰るが、伯爵家とは縁が切れる。修道院に入って、孤児院の教師になろう。自分ももっと成長し、あの子たちに学びたいだけ学ばせてあげよう。そう決めていた。
今はメイドのアイダを、もう一度教師として一緒に連れて行くことくらい、セルギも認めてくれるだろう。
——二年後の将来を、そう描いていた。
「ターシャさん」
名を呼ばれて、心がひやりとした。
声の主は、同じ館に暮しているのに、言葉を交わすことのない相手。目障りにならないために、顔を合わせないよう気を遣っている相手だ。
「リビー様……す、すみません」
「なぜすぐに謝るの。出来の悪い召使いのようね」
「あの、私はもう、部屋に戻るところですので……」
「待ちなさい。聞きたいことがあるから声をかけたのよ」
書類上のターシャの養母リビー・イェルムは、苛立った様子だった。
リビーがセルギと出会い、結婚したのは帝都でのこと。それからずっとこの屋敷で暮らしている。セルギが領地へ行く時にも同行しないので、彼に養女がいることは知っていたものの、今年まで会ったことすらなく、関心も持っていなかった。
ターシャがこの屋敷へ到着した日に初めて挨拶を交わし、それ以降食事も別にしている。ほとんど見かけることもないこの「娘」が、日中はずっと外出していたことさえ、ずいぶんあとになって知ったくらいだった。
「ターシャさん、あなた……近頃はキュベリー家にまで出入りしているそうね」
ターシャの胸の奥が、雪が吹き込んだように、ひゅっと冷えた。はい、と返事も返せず、おろおろと視線を床にさまよわせ、手のひらはドレスの布を握りしめていた。
「リエフのお嬢様といい、まったく、あなたの交友関係は理解できないわね。旦那様が放っておいていいと言うから、咎めはしないけれど」
リビーが、不快そうに目をそばめた。嫌々ながら認めるだけよ、という表情だ。
ターシャにとって、ティノーラとエレリアはもう大切な存在だ。二人との時間を失いたくない。リビーが不快に思っていても、表向きだけでも許してくれると言うのなら、これまで通りに過ごしたかった。
養子縁組解消の届け出は受理されているから、城にいるような貴族からは、ターシャは実質セルギの娘とは思われていないらしい。エレリアと仲良くなろうがイェルム家は関係ないと、はっきり言い切ってあるから問題ない、セルギはそう言って、ターシャを放任してくれているようだった。
「この家の役に立っていないのに、面倒事を起こすのはやめてちょうだいね。キュベリー家に何か動きがあったらすぐに離れるのよ。いいわね」
「……は、い……」
ターシャは少しだけ、唇を噛んだ。
役に立たない——
博識なアイダから男性顔負けの知識を授かっても、ターシャはこの家にとって、何の役にも立たない人間なのだ。身体が虚弱なせいで出産を望めるかも疑わしい彼女は、跡取りが必要な貴族社会では、政略結婚の駒としてすら使えない。
そんな「娘」がリビーにはさぞ邪魔なことだろう。
「目立たないように、おとなしくしてくれればいいのよ。それくらいできるでしょう。成人してからも、家を用意するから、そこで静かに暮らしなさい」
「……い、家……?」
初めて聞いた話に、ターシャは顔を上げた。
「そうよ。他人になったからといって、家と使用人くらい付けてあげるわよ。女の子を道端に放り出すほど、冷酷な人間だとでも思っていたのかしら?」
「い、いいえ……そんな——」
ドレスを握っていたターシャの手に、ますます力が入った。おとなしく静かにしていなさいとは……どういう意味なのか。リビーと相対するのは怖いけれど、問わずにはいられない。
「わ、私は……その、修道院に入ろうと……中にある孤児院で働いて、暮らすつもりでいたので……」
「修道院? なんですって、やめてちょうだい。領地で暮らす以上、あなたがイェルム家の生まれであったことは、きっと隠せないわ。伯爵家を追い出されて、孤児院で働かされているなんて噂が立ったら、社交界で旦那様に悪い影響が出てしまうじゃない」
「……え……」
「いいから、用意されるところへ行きなさい。働く心配なんてしなくても、生活の面倒は見てあげるから」
リビーは踵を返して行ってしまった。これ以上ターシャと話すことなどないと、意見など聞かないと、その着飾られた背中が語っていた。
「……わたし……は……」
——何をしても、いけないの?
あてがわれた家で、出される食事を食べ、用意される服を着て、毎日息を殺すように静かに、人目につかないよう暮らして……何もしないで、年を取って死ぬ日を待つだけの生き方しかできないのか。
イェルム家に恥をかかせるつもりなんてない。ただ、子どもたちに勉強を教えて、喜ばれるのがうれしかっただけ。またそうしたいと思っただけ。
そんなに、いけないことだったのだろうか。
ターシャの目に、涙が浮かんだ。
「……だめ」
階段を上り、部屋へと急ぐ。廊下で泣いているところなんかを誰かに見られ、それがリビーに伝わってしまったら、まったく厄介な子だとまた煙たがられてしまう。なるべく顔が隠れるように、髪を手ぐしでわざと乱した。
使用人たちからは客のように扱われて、必要なこと以外話しかけられることもない。外に出る際の服は、家柄に見合うものを用意してくれた。でもターシャのための部屋は作られていなかった。使用しているのは客室のひとつであって、二年限りの居候をさせてもらうだけの部屋なのだ。
そこに入って一人になったとたん、ぽろぽろと涙が流れて落ちた。顔にかかっていた髪にまで染み込んでいく。
せっかくリエフ家で、レマがきれいに梳いてくれたのに。お嬢様のついでですと言って、彼女はいつもターシャの髪を、艶を出す油も使ってきれいにしてくれる。ティノーラは、自然に少し巻いているのが素敵よね、と言ってくれる。
「素敵じゃ……ないです……私は」
私は、人の邪魔ばかり。何もできない——
勉強を終えたエレリアの弟たちが、使った道具をぱっと片付け、中庭へと走っていった。
落ち着いていて大人っぽいエレリアと比べると、二人とも少しやんちゃなくらいに元気な少年だ。この姉弟は顔立ちも髪もそれぞれ違うが、みんな美しい。そして勉強もとても良くできる。きっと将来は重要な役職に就けるだろう。
「ティノーラとエレリアは、十五歳になったら……どうなさるのですか?」
ターシャは勉強会で使った本や羽ペンを二人と一緒に片付けながら、初めてごく近い将来のことを尋ねた。
「成人したらってこと? 領地でお兄様を手伝うわ」
ノルドレンはもう少しで十六歳。母から爵位を相続する日も遠くないはずだから、それを支えるつもりだと、ティノーラは迷いなく答えた。
「わたくしは……そうね」
エレリアは少しの間、思案した。
「帝都と領地の行き来になるかしら。お父様のお手伝いもしたいけれど、弟たちのことも気になるしね」
表向きは降格したことで処分は終わっているが、キュベリー伯爵は帝都を追放されたも同然らしい。この館には、来られるとしても年次報告くらいになるようだ。キュベリー家の親子は引き裂かれている状態なのだから、エレリアがそれを結ぶ役割をしたいということだろう。
ふと、エレリアの視線が動いた。監視の男を意識したように見えた。彼はいつもよりもこちらを注視していた。
ターシャは、あっ、と言いかけてしまった。
あの男は、少なからずキュベリー家を敵視していて、伯爵の動向に敏感になっているのだ。そんな男の前で将来何をするか質問するなんて、無神経なことだったかもしれない。ターシャは自分の世間知らずを恥じた。
こんなことだから、貴族社会でやっていけるはずもなくて、何もせず静かにしていなさいと言われるのだ。
「ターシャは確か、孤児院の先生になるのよね?」
「えっ、……どうして、それを」
なんの気なしに言ったようだが、ティノーラの言葉はターシャをびっくりさせた。
平民になったら修道院に所属するつもりだと、彼女に話した覚えはある。でも、そこに孤児院があることまでは言っていないはずだった。
「以前、アイダさんに聞いたことがあったのよ。新しくできた修道院の中の孤児院で、一緒に子どもたちに勉強を教えていたって。だから、そうするのかなと思っていたの。ごめんなさい、違った?」
「い、いえ……」
ターシャは握り合わせた手に、ぎゅっと力を込めた。
「あの時は、先生が足りていなかったから、真似事をしていただけで……。今頃はきっと、きちんとした先生が雇われているはずです。だから……私は先生にはなりません」
「そう……? ターシャは教えるのが上手だから、似合いそうだけれど」
勉強会で時々ターシャに助言を求めるティノーラは、そう言って笑った。彼女は褒めてくれているのに、ターシャはとっさに応えられなかった。
「それなら、修道院の経営のお手伝いをするの? ターシャならそれもできそうだわ」
「……いいえ、修道院に入るは……やめました。叔父が、家を用意してくれると、言うので……私は身体も弱いですし、そこで静かに暮らします」
二人のやり取りを見ていたエレリアが、ターシャに向かって口を開きかけところで、弟たちの大きな呼び声が窓を超えて響いてきた。エレリアは、二人で先に始めていて、と返事をした。
「ねえターシャ。あなたは最初に出会った頃より、顔色がいいわ。これといって病気もしていないのではなくて?」
「はい……ここのところは」
「あなた自身や周りの方の認識ほど、病弱とは限らないのではないかしら。自惚れたことを言うようだけれど、ティノーラやわたくしと過ごしていたほうが——人と関わって楽しい時間を持ったほうが、ターシャの体調にも良いのではないかと思うの」
エレリアの指摘に、ターシャの頬は緊張したように強張った。そうかもしれないと思ってしまったのだ。
領地の屋敷に籠っていた時よりも、孤児院で教師の真似事を始めてからのほうが。帝都に来てから部屋に一人きりで息を潜めて暮らしていた時期よりも、思い切って外に出て二人とも出会えた今のほうが。
--私の身体は……良くなった気がする……
明らかに、体調の揺らぎが少ないと思えた。食事も以前より取れるようになり、痩せすぎていた身体は少しだけ健康的になれたと思う。
「だから、労り過ぎてしまうのは逆効果を生まないかと、少し心配になったの。……余計なことを言っていたら、ごめんなさいね」
外へ行きましょうと言って、エレリアはこの話題をお終いにした。監視の男の前で、これ以上ターシャの家の内情を話し合うことを避けるためだ。
きっと心から心配してくれながら、イェルムの家のことまで細かに配慮してくれる。エレリアはそういうことをできる人だ。彼女は本当ならば、皇后になるはずだった方だという。こんなに素敵な方なのだから、そうなれば良かったのにと思う。自分なんかと付き合っている今の境遇は、あまりにも似合わない。
ターシャは、エレリアにもティノーラにも嫉妬はしていない。尊敬できる大好きな二人だ。
でも、二年後には身分違いとなる。
イェルム家の娘であり続けたいとは思わない。でも二人と友人でいられなくなってしまうのだとしたら。
その日には——来てほしくない。




