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炎国の騎士と北の夜明け  作者: 紘麻 涼海
第一章 皇太子
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三、婚約者

 食事が載っているトレイを持ったイルゴが厨房に戻ると、料理長は顔を曇らせた。

 皇太子はまた食べてはくださらなかった。料理長は、身体に負担をかけない食材と調理法で、さらに当人の好みと考え合わせながら工夫しているのだが。

 リューベルトは食事を取らず、もう三日目に入っていた。

 

「何もいらない。入ってくるな」

 

 彼が発する言葉はこれだけだ。

 アダンが見舞いに来ても、近く執り行われる国葬の説明にロニーが来ても、剣と馬術の師や専属教師が心配して様子を見に来ても、少しも顔も見せずに追い返す。

 

 イルゴから見れば、リューベルトは実年齢よりも大人びた少年だった。皇太子としての教育をしっかりと吸収し、頭も良く、騎士としての腕も順調に上がっていた。

 両親を一度に亡くし、十三歳でこの大きな国の帝位を継承しろと言われたのだ。すんなりと気持ちの整理がつくほうがおかしい。

 でもこれは、今までのリューベルトからは予想できなかった反応だった。ここまで何もかもを拒否するとは思いもしなかった。

 リューベルトにまともに顔を合わせられるのは、今はたった一人だ。妹皇女のリミカだけである。

 イルゴは最終手段として、リミカに託すしかなくなってしまった。まるで皇女を利用しているようだが、もはや他に選べる手はないのだ。

 

「姫様。このお水を、リューベルト殿下とご一緒にお飲みいただけませんか」

 

 水の入ったコップを二つ渡されたリミカは、不思議そうに首を傾げた。

 まだ七歳のリミカにも、両親の死を教えなければならなかった。彼女は、どうしてもう会えないの、と侍女を掴んで大泣きした。けれどリューベルトほどには、死というものを理解できていないのだろう。それ以降はあまり泣かない。

 ただ、何度も何度も兄の顔を見に行っている。怪我を心配してか、寂しくなるのか。二人がどういう会話をしているのかは、誰も聞くことはできない。

 

「わかったわ。飲んでって言えばいいのね」

 

 素直なリミカは兄の侍従の願いを聞き入れ、コップを持って兄の部屋に入っていった。

 出てきた時には、飲んだわ、と言ってイルゴにコップを返した。

 次は果物をたっぷり擦ったものを持っていってもらったが、それは飲まなかったという。

 次の切ったりんごもまた、だめだった。

 

「イルゴさん」

 

 ため息をつくイルゴに声を掛けたのは、エレリア・キュベリーだ。

 火災直後から城門は閉ざされ、出入りは厳しく制限されていた。それが先刻解除されたことで、エレリアは侍女を連れて城に来たようだった。

 

「先ほどリミカ様に、お水やりんごのことをお聞きしたのですが……殿下はもしかして、何も召し上がっていないのですか」

「ええ……そうなのです」

 

 イルゴとエレリアの付き合いはまだ長くはない。主のリューベルトがエレリアと会うようになってから、必然的に顔を合わせることが増えた。

 エレリアももうすぐ十三歳で、リューベルトと同じ年の生まれであり、落ち着きのある聡い少女だ。皇帝と皇后は、息子と婚約を決めた彼女のことをとても歓迎していた。

 エレリアはイルゴの前の、りんごの載ったトレイをしばし見つめていた。

 

「わたくしも、殿下にお目通り願えませんか」

「ですが……お聞き及びかと存じますが、殿下は今どなた様がいらしても、お会いにならないのです」

「でも、お取り次ぎになるのはイルゴさんですよね」

「左様ですが……扉からお声掛けしているだけでして」

 

 エレリアはすっとトレイを手にした。

 

「では、リミカ様がいらしたと偽ってください」

「……! そ、それは――」

「大丈夫です。イルゴさんにご迷惑はおかけしませんわ。わたくしが殿下に叱られて参りますから、すぐに扉も閉めてしまってください」

 

 そう言ってエレリアは、にこっと笑った。

 未成年とはいえ、閉じた部屋に男女二人きりになるのは、貴族の子女ならば決してしないことだ。でも婚約内定はすでに広く知られていることなので、問題にはならないだろう。そう考えたイルゴは、エレリアのお願いに手を貸すことになった。

 

 

 


 

 扉がノックされても返事はしない。イルゴが少しだけ扉を開けて、こちらを窺う。リミカの来訪を告げられ、リューベルトはいつも通り拒まなかった。

 パタンと、静かに扉が閉じた。

 

「……リミカ、またイルゴに何か――」

「お加減はいかがですか、殿下」

 

 ゆっくりと身体を起こし、いるはずの妹の顔を見るより先に聞こえた声に、リューベルトは心の底からびっくりした。

 

「エレリア!? えっ、なぜここに……まさかイルゴ、嘘をついたのか……!?」

「イルゴさんは、殿下にお会いしたいというわたくしを哀れに思われて、お願いを断れなかっただけですから。お叱りはどうぞ、今この場で、わたくしだけにお願いいたします」

「……」

 

 そう言われて叱れるリューベルトではないし、彼女に向かって出ていけと強く言うこともできない。

 エレリアはトレイを置くと、部屋の主の勧めを待たずに、寝台横の椅子に腰掛けた。簡単に追い払われるつもりはない、という意思表示だろう。

 目を合わせられないでいるリューベルトを、彼女は不躾なほどじっと見つめてきた。

 

「お痩せになりましたね、殿下……」

「……あまり私に近寄らないほうがいい。服を替えてもいないから……」

「そんなこと気にしません。でもそうおっしゃるのでしたら、お身体を清潔になさいませ。せめて傷口はきれいに保つべきですわ」

「……ああ……」

 

 リューベルトは、ちらっとエレリアを盗み見た。

 この前彼女を見た時は、頬には涙の跡があり、怯えていた。凛とした美しさを持ち、いつも清淑な佇まいのエレリアのあの姿は、リューベルトの目に焼き付いて離れなくなっていた。

 そして今そこにいる彼女の表情にあるのは……怯えではなく心痛だ。

 また、彼女に苦しみを与えている。

 

「……わかった……わかったから……」

 

 そんな顔をしないでくれ、とい言いかけ、しかし急に二人きりになってしまった気恥ずかしさで、声が出ていなかった。

 

「殿下は……二年前、わたくしの母が亡くなった時、わたくしや弟たちを励ましてくださいました。あの頃はきちんとお伝えできませんでしたが、本当に心を救われたのです。そのお返しを、少しでもできればと思って参りました」

 

 覚えておられますか、とエレリアは遠慮がちに聞いたが、リューベルトはわざわざ思い出すまでもなく、はっきりと覚えていた。

 

 キュベリー侯爵夫人の葬儀に参列した時、初めてエレリアに会った。十一歳になったばかりだった彼女は、侯爵家の令嬢として、または弟たちの手本となるためか、ひと粒の涙を見せることもなく、毅然とした態度で葬儀を終えた。そんな彼女は、リューベルトに強い印象を残すことになった。

 涙を流していた二人の弟君たちを元気づけたいという気持ちもあり、三人を城に招いた。

 エレリアの存在そのものが、まるで輝いて見えるようになったのは、それからすぐのことだった。

 その後も何度も、庭園の花見や、お茶会や紅葉狩り、乗馬訓練にも誘った。

 

 婚約を望んだのはリューベルトだ。彼女に他の話が舞い込む前に、誰よりも先に気持ちを伝えたかった。

 最近は貴族の間にも、親同士が結婚を決めるのではなく、本人たちの気持ちを考慮してやろうという傾向が出てきた。さすがに皇太子には難しいことだったが、エレリアは現在宰相でもあるキュベリー侯爵の娘である。エレリア自身も承諾してくれたので、特に問題もなく、ひと月ほど前に婚約内定となった。

 実際に婚約式を行うのは、お互いに十五歳になって成人してからの予定だった。

 ――でも、もう一人の宰相ロニー・ルイガン侯爵は、成人を待てないと言った。


 今日のエレリアがいつもよりもさらに大人びているのは、それが関係しているのだろうか。全体的には茶色で、幾筋か金色の房が混ざっている特徴的な髪を、まるで成人のように結い上げているのだ。

 

「……私たちの……婚約……だが」

「はい」

「……やめたほうが良いかもしれない」

 

 それは部屋に籠りながら、リューベルトがずっと考えていたことのひとつだった。

 今ならまだ、正式な発表はしていない内定の段階だ。ロニーに急かされて婚約式を執り行ってから取り消すよりは、彼女の名誉は傷付かない。

 

「取り止めについて……建前上の理由や、周囲に知らせる頃合いについては、そちらの都合が良いようにしてくれて構わない。キュベリーに任せるから――」 

「なぜ、取り止めなのですか」

「……それは……あまり、言いたくない」

「一方的過ぎます。父だって受け入れませんわ」

 

 エレリアの声は静かだった。

 リューベルトは相変わらず彼女を見られない。

 

「殿下……今、やめたほうが良いかもしれない、とおっしゃいましたね。それは、わたくしのことが疎ましくなったわけではないと、受け取ってよろしいですか」

「疎ましくなどならない!」

 

 思わず声が大きくなった。

 そんな気持ちになるわけない。

 いいや……本当は、そうだと、婚約を辞めたいんだと言えば終わるのに、リューベルトにはどうしても言えなかった。なんて意気地がなくて、中途半端で自分勝手で、愚かなのだろう。こんな言い方では、キュベリー家が受け入れなくて当然だ。

 

「それならば……わたくしは、嫌です」

 

 俯いたエレリアの声は、涙声だった。

 

「嫌です……! たとえ父が受け入れたって、嫌です! あなた様のあの時の優しさが、わたくしは……本当にうれしくて……次期皇后候補なんて本当は恐れ多かったけれど……殿下をお支えできるならと……」

「エレリア――」

「どうして理由を教えてくださらないのですか? 信じていただけないのですか?」

「ち、ちがう……」

 

 リューベルトはどう言えば良いのわからず、何の決心もできず、途方に暮れた。






 エレリアはついさっきまで、リューベルトは両親の非業の死をとても受け入れ難く、帝位に就くことに戦き、自分の殻に閉じ込もっているのかと思っていた。イルゴもアダンもロニーも、きっとそうだ。

 でも先ほどリミカの遊び相手をしてから、エレリアには違うような気がし始めていた。リューベルトは何かを一人で抱え込んで悩んでいる……そんな気がしたのだ。

 とても懐いてくれているリミカが、秘密ね、と小さな声で話してくれたことは、エレリアには不可思議に感じられたから。

 

『お兄様がね、一日に何回も会いに来てって言うの。私のことが心配だからって』

 

『皇家の区画から出てはだめだよって言われたわ。私はお兄様のお見舞いに行く時にしか出ていないのに。わざわざそんなことを言うなんて、変でしょ?』

 

『絶対に、いつも誰かと一緒にいるんだよって』

 

『お兄様に作られたお食事と同じ物を、私は食べてはいけないんだって』

 

 リミカは、それらを守っていた。兄のことが大好きだから、きっと二人だけの秘密のお願いを守ること自体を楽しんでいたのだろう。

 でも他人が聞くと、楽しそうな秘密ではない。

 

 エレリアは顔を上げた。涙は懸命に堪えていた。涙など流したって、リューベルトの支えにはならない。

 

「殿下のお心を苦しめているものを……教えてくださいませんか」

 





 決意のある彼女の眼差しは、鋭さとは裏腹に、リューベルトを温かく包んだ。

 圧倒的な力で彼を押し潰していた、冷たい氷のような苦痛が、溶けていくような感触がした。

 どうか、どんな苦しみも一緒に。エレリアはそう言ってくれているのだ。

 

 ――ああ、彼女を信じられないようでは、私はもう終わりなのだろうな……

 

 リューベルトは傷だらけの手で、掛布をくしゃりと握った。少し震えているところは、エレリアから見えてしまっているだろうか。

 

「エレリア……私はあの時……海の塔に渡ったんだ」

「はい。お渡りのところを下から見ていた者も……落下された時は、父もすぐ下にいたそうです」

 

 リューベルトの閉じたまぶたには、塔の上で自分だけが目の当たりにした光景が、再び浮かんでいた。

 

「父上と母上の死因は、火災ではない。……誰かに毒を盛られていたんだ」

 

 

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