九、伯爵家の兄妹
ティノーラの元へ、兄のノルドレンから手紙が届いた。冬も近くなってきたというのに、この帝都にやってくるという。
手紙をリーガとレマにも見せると、二人も少々首をひねった。
「確かに冬に備えた物資調達の時期ですが、ノルドレン様自らがなさるおつもりなのでしょうか」
「例年なら違いますけれど、お嬢様にお会いなるために、そうなさるのではありませんか?」
「そうかしら……ね」
手紙にはリューベルトのことも何もなく、文章自体がいつもより短い。兄が帝都に来る理由なども特に書かれていない。リーガが言うように、冬支度のためだろうか。
初夏の頃にエリガで別れて以来、兄とは手紙のみのやり取りだった。急に兄が帝都に来ることに、ティノーラは少し心がざわつく感触がしていた。
それというのも、ザディーノとの戦が終わってから、それについて詳しいことを教えられていないのだ。
フェデルマが勝利したのは知っている。そのくらいの情報は得られたし、帝国騎士団第三隊の凱旋行進だって見に行ったのだから。その数日後には、城で戦死者の追悼式典も催されたようだった。
凱旋には精一杯の拍手を送った。でもティノーラは、グレッド家のことが知りたかった。ダイルは無理でも、名代としてガレフが一度くらいは帝都に来るのではないかと思っていたのに、キュベリー邸の近くにあるグレッド邸にその様子は見られない。
——シンザは、来ないのかしら……
終わったらまた来ると言ったのに。貴族の習慣のように口から出ただけの言葉だったのか。挨拶程度のものを、真に受けていた自分が変なのか。……まさか、ひどい怪我でも負ったのでは——
何度もこんなことを考えては、辛い可能性に行き着いて考えることをやめる。帝都になんて住んでいなければ、エリガにいたならば、こちらから訪ねられるのに。こんなもどかしさを味わうのは初めてだ。
でもノルドレンなら、詳しいことを知っているだろう。きっと色々と知りたいことを聞かせてくれる。母やリエフ領のことだってもちろん聞きたい。何より久しぶりに兄に会えるのは楽しみだ。
「雪の季節が近付く前に、早く来てほしいわ」
「ええ、そうですね。できるだ長くご滞在くださるといいですね」
レマもリーガもメイドたちも、ティノーラがわざわざ指示するまでもなく、ノルドレンを迎える準備を万端整えてくれた。
荷運び用の馬車を連れ、リエフ家嫡男ノルドレンは帝都に到着した。彼が前回この都に上がったのは、一年以上も前のことになる。去年の夏、ヴィオナに勧められたティノーラが、模擬戦大会に出場するのに付き添った時だ。
実は彼自身もガレフから出場を勧められたのだが、断ってしまったのだった。シンザと訓練場で互いの技を磨き合うのはいいが、人前で対戦する必要はないと思った。ノルドレンは注目を浴びるようなことが、どうも苦手である。誇らしげに胸を張って皇后から称号を受け取る妹に、感心さえしてしまったほどだ。
今年は両陛下と皇太子のご逝去という不幸があったため、大会は中止された。リミカはまだ女帝としての公務を行っていないようだし、今後も大会は開催されないかもしれない。
もっとも、ノルドレンは今後も出るつもりはないし、妹もガレフたちももう参加つもりはなさそうだったが。
「お帰りなさいませ」
ノルドレンが従者たちと馬車を降りると、妹に付けた執事のリーガが玄関の外で待っていた。
「リーガ、久しぶりだな。息災なようで何よりだ」
「ありがとう存じます。お嬢様もお元気でいらっしゃいますよ。ただ今は、ご友人が一緒でおられますので、ここまでお迎えにはいらしてませんが」
「ご友人? まさかエレリア様か」
ノルドレンは声をひそめた。
それなら、彼はまだ屋敷に入るべきではない。エレリアには監視が付いているはずだ。顔を合わせないほうが良い。彼女と友好関係なのはティノーラ個人であって、リエフ家は感知していないという形を保っておきたいのだ。
足を止めたノルドレンの考えを読んだように、リーガが柔らかい表情で否定した。
「いいえ。今お越しなのは、ターシャ・イェルム様お一人です」
「ああ、イェルム家のご令嬢……。それならば、構わないな」
ノルドレンは歩を進めた。
ティノーラからの手紙には、ターシャの名前もよく出てくる。彼女はこちらの様々な事情は知らず、本当にただ友人として、毎日のように一緒に過ごしているらしい。確か一番最近の手紙だと、ターシャ一人で乗馬ができるようになったとのことだった。まだまだゆっくりと馬を歩かせるだけだが、とても喜んでいたと、妹自身もうれしそうに書いてあった。
だがターシャに関して一番印象に残るのは、やはり養子縁組の件だ。ティノーラがそれについて書いてきたのは一度だけだが、それきり触れないということは、事態は何も変わっていないのだろう。
ノルドレンが使用人たちからの挨拶を受けていると、ティノーラも奥からやってきた。元気そうな笑顔で、お帰りなさい、と明るい声を上げた。
その後ろからおずおずと、華奢な少女が姿を見せた。
「お兄様、紹介するわ。こちらがターシャよ」
「お、お初にお目にかかります……。ターシャ・イェルムと、申します……」
ターシャは緊張した様子で、淑女の礼をした。いかにも板についておらず、ぎこちなさが見られるが、きちんとした作法だった。
「こちらこそ初めまして。ティノーラの兄の、ノルドレンと申します。お会いできて光栄です。いつも妹と仲良くしてくださって、ありがとうございます」
「い、いいえ……それは、私のほうで……」
私こそお世話になってばかりなのです、とターシャは深々と頭を下げた。ティノーラが、やめてよと言って笑った。
「私の兄なんだから、そんなに畏まることないわ」
「でも本当に、私はお世話になっていますから……」
「お世話をしてなんかいないわよ? これはただの楽しいお茶会で、乗馬は私が好きだから誘っているの」
でも、とまだ言いかけたターシャより先に、ティノーラはさらに兄へ友人を紹介した。
「あのねお兄様、ターシャはとても頭がいいのよ。私は習ったことのないような、難しい経営学まで修めてしまっているの。お店どころか、領地経営だってできちゃうかもしれないわ」
「や、やめてくださいっ、ティノーラ……そんな、大袈裟なこと……!」
ターシャは恥ずかしそうに頬を赤くして、ティノーラの袖を掴んだ。ティノーラのほうは、本当だもの、と相変わらず笑顔だ。
そんな少女たちのやりとりは実に微笑ましく、兄としては安堵した。妹はエレリアのこともとても好きなようだが、ターシャとの間に生まれた友情も得難いものになったようだ。妹にとって帝都に住むことは、良い結果も生んでいたのだ。
エリガで見送った時のティノーラは、心細さを見せまいとして笑顔さえ固かったから、母のユリアンネはしきりに心配していた。でもこれを報告すれば、母も安心できるだろう。
ティノーラは兄に、このあとの予定を尋ねた。
「ああ、私はまたすぐに出かけるんだ。夜までには戻る。ターシャ様は、どうぞごゆっくりなさってください」
「あ……ありがとう存じます……ノルドレン様」
ノルドレンには、済ませるべき用事がいくつかある。今日はそのうちの最も重要な一件のために、城へ上がることにしていた。
用件を済ませて館へ帰る頃には、辺りはずいぶん暗くなっていた。もう夜は長く、思わず襟元を押さえてしまうほど、空気の冷ややかな季節だ。
ターシャをイェルム家まで送り、冷えた身体を紅茶で温めていたティノーラは、戻ってきたノルドレンにもう一度、お帰りなさいと言った。
「本当に久しぶりね、お兄様。お母様は元気? 無理をしていない?」
「大丈夫。元気にしているよ。無理をさせないよう、なるべく私が仕事を手伝っている。ティノーラも元気なようだな。安心したよ」
「ええ。想像していたより楽しく過ごせているの」
レマがすぐにノルドレンにも紅茶を淹れた。それから席を外そうとしたが、彼女にもリーガにも、ここに残ってもらった。ティノーラの生活を任せている彼らにも、情報は共有しておきたい。手紙には詳しいことを書かなかったから、ノルドレンが帝都へ来た理由を、ティノーラたちはあれこれ考えていたかもしれない。
「気になっているだろうから、まず今回の私の用事を話しておくよ。冬の物資の買い出しと、心配している母上の代わりにお前の顔を見に来た……以外にも、目的がある。ひとつは、我が領の乳製品の売り込みだ」
「売り込み? でも、まだ売りに出せるような量は作れていないでしょう?」
「リューベルト殿下にご提案いただいたんだ。帝都で売る気があるのなら、先に誰か名の通った者に、お墨付きを貰っておくのも手ではないかと」
ノルドレンはこの提案をエリガに持ち帰り、ユリアンネと話し合った。
あらかじめ評判が流れてくれれば、いざ売ろうとした時に販売の目安が立てやすく、流通先を見つけるのも簡単になるかもしれない。それは父が遺した計画と合致するところがあった。
父は、特異なリエフ領の地形のうち、人が住まない標高の高い土地に酪農場を造った。限りある土地のため、乳製品の大量生産はできないと最初からわかっていた。だからこそ、他と違う品質のものを作って差を生もうとしていた。
高原で育つ特性からか、牛も羊も、フェデルマのどことも質の異なる乳を出した。それによって、あの独特なチーズも作り出すことができた。
試食してもらいお墨付きを得ることができれば、生産量の少なさはむしろ希少さという価値にもなる。
「それでティノーラ、どこかお店を知らないか?」
チーズを大層気に入ってくれたリューベルトは、城の料理人でも、名の通った店でも、きっと通じると言ってくれた。自分が元の地位であったならば、皇家御用達の称号を与えたのに、と残念そうに肩をすくめていた。
「うーん……バターやチーズだから、レストランだけじゃなくて、パン屋や菓子店でもいいのかしら? エレリアに聞いてみるわね」
ティノーラは未だに帝都のお店に詳しくない。ターシャに自由にできるお金がないという事情もあって、三人で買い物にも行かないのだ。
エレリアは元侯爵家で帝都育ちなのだから、彼女の贔屓の店ならばきっと一流だ。
「助かるよ。これがいい方向に向かえば、リエフ領は少し豊かになれるかもしれない」
「大事な役目だから、遣いではなくて次期伯爵のお兄様が来たのね」
考えもしなかった明るい話題に、ティノーラがうれしそうに頬杖をついてそう言ったが、ノルドレンの目元からは笑みが失われた。
「ああ……これはリエフ家の用事だ。実は、バーリン家のご用事も託していただいている」
「バーリン侯爵家のご用事……? 今日、お城へ行っていたのよね? 何かの報告?」
ノルドレンは、少しの間をおいた。
「ネウルスに……不穏な動きがあるんだ」
「……っ、そんな……また戦なの?」
ティノーラが顔を歪めた。
ネウルスは雪に慣れている国だ。真冬を避ければ、今から冬の始まりくらいまでならば、戦を仕掛けてくることは充分に考えられる相手だった。
「戦場になるのは、バーリン侯爵領?」
「そうだ。侯爵様は今領地を離れるわけにはいかないから、帝都への報告書を私がお預かりしたんだ」
ネウルスと国境を接しているのは、晩年のベネレスト帝が最後に併合した土地であるバーリン侯爵領と、リエフ伯爵領であるが、争いが起きるのはいつもバーリン領である。峡谷が互いの妨げになるリエフ領は、一度もネウルスに直接攻撃をされたことはない。
リエフ家はいつも通り、バーリン家の後方支援をすることになる。その一環で今回ノルドレンが、代理で報告書を持ってきたのだ。
「ザディーノとの戦が終わったばかりなのに……」
「だからだろう。フェデルマが連戦ならば、勝機があると考えたのかもしれない」
「大規模になるの? お兄様も……行くの?」
「帰り次第、私も支援に出るつもりだ。でもザディーノの総攻撃と比べたら、小規模に終わると思うよ。それほど深刻にならなくていい。バーリン領とネウルスの冬は早いし、真冬は雪深いから、今さら焦って準備をして攻めてきても、時間が足りないだろう」
ネウルスは、ザディーノとフェデルマで起きた決戦を知ってから侵攻を考え、準備を始めたようだった。短期でも集中的な攻撃によって突破を狙っているのだろうが、バーリン侯爵もそんなに甘い方ではない。迎え討つ態勢はすでに大方整っている。
ティノーラはまつ毛を少し落として、カップの紅茶の表面を見つめた。
「シンザといい、お兄様といい……せっかく久しぶりに会えてうれしいのに、持ってくる報せは、戦のことばかりなのね」
「フェデルマはそういう国……いや、ここは、そういう大陸だよ」
「うん、知っているけれど……ね」
ティノーラは国境から離れた生活になった。帝都で目にする人々は、戦とは無縁という顔をして歩いている。そんな中で暮らしていると、平和なつもりになってしまうのかもしれない。
「報せはまだある。……グレッド家のことだが——」
ティノーラがはっと息を呑んで、大きな目でノルドレンの顔を見つめた。よほど気になっていたのだろう。
「シンザや、ガレフ様やヴィオナ様は、お元気だ。かすり傷ひとつないとは言わないが、目立ったお怪我はされていない。でも重要な方が戦死された。……ヒュリス団長だ」
「……ヒュリス団長が……亡くなった……?」
まだ少女で伯爵令嬢のティノーラは、ヒュリスと木剣でも打ち合ったことはない。でもノルドレンは時々手合わせをしてもらい、それを見学していたから、リエフ兄妹としては親しい人といって良い間柄だった。
ティノーラはまた視線を落とした。ノルドレンもこのことを聞かされた時には、頭の先から身体が冷たくなるような感覚に襲われたものだった。
あれほどの実力者である騎士団長ヒュリスの死は、戦闘の激しさと残酷さを思い知らされる。
「たくさん犠牲者が出ていたよ。中には私たちの知り合いの騎士も……。セスも大怪我をしたし……」
「セスが大怪我を……?」
シンザとここへ来た時のセスは、いつものように笑っていたのに……そう言ったティノーラは、寒そうに自分の肩を抱いた。
でも妹に聞かせなければならない悪い報せは、まだあった。
「ザディーノ戦とは別だが——ダイル様も、お亡くなりになったんだ」
ティノーラは再び息を呑んでノルドレンを見つめた。
ダイルが去年から病を発症していたことは、グレッド領の防衛上、世間には秘密にされてきたが、懇意にしてもらっていたリエフ家は知っていた。どんどん痩せていったことも、近頃は思うように動けなくなってきたことも。
「そう……だったの……」
ガレフたちと同じように、ノルドレンもティノーラも、その日がそう遠くないことは覚悟していた。それでもダイルの死は、こんなにも辛く悲しい。実の父を亡くした時以来の苦しさだった。
「エリガを出る前に伺った……あのご挨拶が、最後になってしまったのね……」
「セームダルやザディーノに漏らさないよう、まだ国内にも伏せておられるのだそうだ。だから念のために、お前への手紙にも書かなかった」
「……うん」
「ご家族のみでの密葬は終えられてる。母上と私は、あとから祈りを捧げさせてもらったが、お前は十五になってからになるな」
「うん……。ヴィオナ様たちに、私が何をできるわけでもないけれど……帰りたくなってしまうわ……」
ティノーラはその場で指を組み、ダイルやヒュリスの冥福を祈った。伏せられていたこととはいえ、今まで知らされずにいたことも悲しいのだろう。目を開いてからも彼女は黙り込んでいた。
「……冬あたりに、世間が知るところになった時、もしエレリア様が殿下のことをご心配なさっていたら、もちろんガレフ様のもと変わらずイゼルにおいでだから、ご安心くださいと伝えてくれ」
「わかってる。ガレフ様たちは……殿下をお守りし続けるに決まってるわ……」
またティノーラは黙り込んでしまった。ノルドレンには、妹は悲しんでいるだけではなく、何か思い詰めているようにも見えた。
しばらくしてからやっと、ティノーラは顔を上げないまま口を開いた。
「お兄様……私はなんて身勝手なのかしら。戦いが終わったって、そんなに大変なことになっているなら、帝都へなんて来られるはずがないのに……。どうして無事な姿を見せに来る約束を守ってくれないのって、少し腹も立てていたの」
「約束……? シンザのことか?」
「私は、自分のことばかり……情けない……」
落ち込むティノーラを前にして、ノルドレンはついつい微笑ましく思ってしまった。
これだけの話を聞かされたばかりのティノーラには悪いが、何日も前にイゼルで知らされていたノルドレンは、もう心の整理をつけていた。次に迫っている北方戦に向けて、気持ちを切り替える必要もあったのだ。
なかなか心身とも休まらない日々だったが、久しぶりに会った妹の素直さに、心がやわらかく温まった気がした。
「ティノーラ……そんなことを悩む必要はない。会いたいと思うことは、情けなくなどないよ。エリガヘ帰ったら、今のお前の気持ちを、シンザに伝えておいてやろう」
「えっ? ま、待って、そんなの伝えないで!」
顔を上げたティノーラは、鼻も頬も赤らめていた。自分の発言がほとんど「シンザに会いたい」と言っているようだったことに、今になって気づいたようだ。
「勝手なことを言ってると思われるだけじゃない」
「いいや、きっとシンザには一番うれしい言葉だよ」
「何っ……、何を言ってるの? やめてって言ってるでしょ!」
ティノーラは兄のお節介にむきになっていたが、伝えた時のシンザの反応を想像したノルドレンは、緩む口元を隠せなかった。
妹はますます、顔全体を赤くしていた。




