八、魔導士
ダイルの死去は当分の間、世間には伏せられる。
グレッド侯爵は先代も、先々代もその前も、葬儀を行われていない。家族のみで密葬された。この家の当主の死は、他国から帝国の守備の緩みと解釈されかねない。国防の観点から、すべての当主が同じようにされてきた。
——あれほどの人だというのに、家族のみでお送りするのか……
セスはやるせない思いで、窓の前で膝をつき、両手の指を組んだ。
ちょうど今頃、城の裏手の墓地で、家族の手でダイルが弔われているだろう。窓からその様子が見えるわけではないが、せめてと思い、セスも天に向かって祈りを捧げていた。
かの苛烈なベネレスト帝に真っ向から楯突いた、唯一の貴族としても有名なダイルだが、領内でも領外でも、フェデルマの民で彼を悪く言う人はまずいない。最前線で国を守る領主であるからだけではなく、帝国騎士団で活躍していた頃から、その強さと、それと相反するような温かい人柄が知られていた。
セスは魔法修練所を卒業した直後から城に住まわせてもらい、ガレフたち兄弟とも、身分を超えた付き合いをさせてもらってきた。だからといって、家族や親族のようだなんて自惚れていない。そこはわきまえている。
孤児のセスにとって親代わりだったのは、孤児院の院長や世話係である。ダイルは魔導士として雇ってくれた主人であり、同時にそれ以上の存在だった。恩人、手本、最も敬愛に値する人——なんと表現したらいいのか、言葉はうまく選べない。
グレッド領の孤児院は、帝都のそれよりも恵まれていると思う。食べるものや着るものはもちろん、眠る布団や教育においても、しっかりと面倒を見られていた。子どもが自分でできることは自分でしたし、年下の子の世話もしたが、子どもの多い平民の家庭だったならば当然の範疇で、労働として強いられたことはない。清潔で健やかに暮らすことができた。
何の罪もない子どもたちが、自分の育つ環境に、劣等感を抱くようなことがあってはならない——それがダイルの方針だった。
すべての孤児が読み書きはできたし、計算もできる。そんなのは当たり前だと思っていたが、成人して他の領へ行く機会ができると、孤児院出身者の識字率の低さに驚くことがあった。彼らは選べる仕事も限られてしまい、改めて勉強するにしても、大変な苦労をしていた。
ダイルは、孤児が大人まで育つだけでなく、卒院してからの生活のことも考えてくれていたのだ。どれほど手厚く保護されていたのかと、その時になって知った。大きな意味では、孤児たち全員の父親のような人といえるのだろう。
セスは生みの親のことをあまり覚えていない。冷たいようだが、記憶の薄いその親たちのことを想う時より、今のほうが辛く感じる。
この深い喪失感は、矢傷よりもはるかに苦しい。
立ち上がったセスは重い足取りで移動し、そうっと寝台に腰掛けた。ふとした動きが、意外と傷に響く。
背中に矢傷を負った身体は、起きている時はこうして気をつけていられるから、それほど痛まなくなった。問題は寝ている時だ。無造作に寝返りをうってしまうと、痛みで飛び起きる。あの日からまとまった睡眠は取れていなかった。
扉が外からノックされ、返事をすると医師が入ってきた。定期的に傷の具合を診るためだ。
「うん、化膿もしていないし、順調だ」
「ありがとうございます。ああもう、そろそろ思う存分寝たいなあ……」
「危うく死ぬところだったんだぞ。助かっただけで幸運なんだ。もう少しの我慢だよ」
矢の先端は、ぎりぎりのところで止まった。もう少し身体に深く食い込んでいたら、致命的になるところだった。そのわずかな差で命拾いし、もうしばらく痛みに耐えれば、元通りの生活に戻れそうだった。
「守護魔法が得意だとはいえ、矢を弾けるのなんて一回くらいだろう?」
「まあ、直撃じゃそんなもんですね。自分自身であろうと、人は物のようにはいかないから——」
水魔法に適性があるセスだが、使えるのは中等魔法までだ。得意としているのはもうひとつの適性、守護魔法である。
守護魔法は、基本的には物にかけて、それが本来持つ強度を引き上げる魔法である。重ねがけはできないため、セスの普段の仕事のひとつは、城壁や城にかけた魔法が風雨などで自然劣化して解けてしまう前に、少しずつかけ直して回ることである。
物に守護を与えるのは下等魔法でもできるが、彼はより効果の強い中等魔法で行っている。
セスはその上の高等魔法まで使えるのだが、実はこれは下等魔法よりもずっと効果が弱く、劣化も早い。ただし、物ではなく生あるものにかけられる。
前日のうちに自分にかけていたこの守護の効果が幾分残っていたため、今回命を拾うことができたのだった。
消毒薬を塗られると、セスは痛みに思わず身体を引いてしまったが、医師は手を止めることなく新しい包帯を取り出し、するすると巻いていく。
「かけ直した直後なら、無傷で助かったろうにな」
「そんな余裕なかったんですよ」
「そうだろうな……戦場なんだから……」
服を着ながら、ちょっと違う、とセスは思ったが、口には出さなかった。
エドリッツ家の騎士たちと櫓の上まで上がったあの時、周りに敵兵はいなかった。
そこに至るまでは、セスも水魔法で戦闘に参加していたから、確かに守護をかけ直す余裕はなかった。高等魔法は魔力の消耗が大きい。戦場で魔力を使い尽くして、隊のお荷物になることも避けねばならなかった。
だからこそあの時一人だけに、かけ直しをしようとしていたのだ……ヴィオナに。
戦場で人を守護するには、この魔法は頼りない。それでも、ないよりはましだと思っているので、セスはいつも対象者に知られないように魔法をかけている。かけた相手がこの魔法を当てにして無茶をするようになってしまったら、余計に危険なことになるからだ。
魔力を感じ取れる魔導士は別だが、魔力を持たない相手ならば、その瞬間を目で確認されない限り、自分の身体に魔法をかけられても勘付くことはできないだろう。実際にヴィオナも、自分に高等の守護魔法がかけられていたことには、気づけていなかったはずだ。
下へ加勢に行く前に——そう思って、みんなが斧を振りかざすエドリッツの騎士に注目しているうちに、旗竿から離れたヴィオナにそっと近付いた。
その時そのずっと向こうに、矢尻をこちらに向けて弓を引く男が見えた。地上からヴィオナが狙われていたのだ。
事前にヴィオナにかけていた守護魔法が、雨と戦いの中でどれほど劣化していたかはわからない。何を考える間もなく、セスの身体はヴィオナを庇っていた。
矢を受けたところが、自分でもまずいと思った。死ぬ前に制御能力を失って魔力が暴走したら、雨の降る中で水魔法を無作為に迸らせてしまうかもしれない。最悪の場合、ヴィオナたちを殺傷してしまう。
助かるのか死ぬのか、自分でも判断がつかない痛みの中、セスは必死に魔力を抑え続けたのだった。
「じゃあ、また消毒に来るよ。痛むのはわかるが、少しずつでも眠るようにな」
「ありがとうございました」
医師が出ていくと、セスは寝台にうつ伏せに倒れ込んだ。言われたように、小刻みにでも眠ろうと思った。できるだけ早い回復をはかるのも、仕事の内だろう。
今回の戦闘の拠点にしていた古城では、怪我のない者が戦の後処理をしていた時、セスは一人で小さな部屋に隔離してもらい、簡易的な寝台で寝ていた。
自分で疑っていた魔力の暴走は起こさなかったが、高熱も出していたので、大広間で治療されていた負傷者たちのことは聞きそびれた。彼らはみんな助かったのだろうか。イゼルへの帰り道、負傷者を運ぶ馬車はたくさん用意されていたようだったが、ちゃんと聞けば良かった。
そんなことを思い出していたセスは、次第に考えがまとまらなくなり、とろとろとまどろみ始めた。
「——ッ!」
無意識に体勢を変えようと上半身をひねってしまうと傷が痛み、反射で背中を庇おうとする動きでまた痛んで、息が詰まった。半時も眠っていないうちに、いつもこうして起きてしまう。
「……はー……疲れるな……」
痛みがおさまると、出血していないか一応確認した。大丈夫そうなので、また寝台に倒れ込んだ。
眠ることにも神経をすり減らす思いだが、こうして起こされるたびにつくづく感じていた。
こうなるのが、ヴィオナでなくて良かったと。
——トントンと、扉が鳴る。
もう一度医師が来るような時間ではない。誰だろうと思いながら、のろのろと起き上がって返事をすると、薄く開いた扉から顔を出したのは、たった今心に浮かんでいたヴィオナ本人だった。
「——えっ……ヴィオナ様……?」
「傷はどう? 入ってもいいかしら」
「いい……ですけど」
まだぼんやりとしているセスは、とにかく寝台から立ち上がろうとした。それを見たヴィオナが止めた。
「いいのよ、動かないで。ごめんなさい、もしかして眠っていたのかしら」
「いや、起きたところだったんで………ノックで起こされたわけじゃないですよ」
「そう……?」
ヴィオナは扉を全開にしたまま、セスの部屋へ入った。貴族の女性は自分の屋敷内であろうとも、男性の部屋に入る時に扉は閉めない。
「まだ痛む? いえ……痛むわよね」
「大丈夫ですって。多分もう少しで良くなります」
微笑もうとしたヴィオナが、なんだか上手くいかなかったようで、床に視線を落とした。
古城からイゼルへの帰還の馬車では、セスは四六時中痛みと眠気に襲われ、自分の魔力にも注意を払っていたせいで、同乗していたヴィオナともあまり会話をできなかった。あの時の彼女も、ずっとこんな顔をしていた。快活で前向きで、少々自信家であるくらいの彼女のこんなにおとなしい姿は、この城に住まわせてもらってから見たことがなかった。
「あのー……そんなに心配しないでください。本当は、俺はこんな怪我をしちゃいけないんですから。ちゃんと自分も避け切りなさい、危ないじゃないかって、怒っていいですよ」
魔導士は無意識下で魔力を制御できるよう、修練所で厳しい訓練を受けている。それができなくなるほど、体力や精神を消耗してはいけない。つまり魔導士は、大怪我をしてはならない。そのために、接近戦をする武器の手習いも禁止になっているくらいなのだ。
ヴィオナにかけていた守護魔法が、もし矢を弾けるほど残っていたならば、むしろセスは余計なことをしてしまった。彼自身が、より大きな危険をもたらすかもしれなかったのだから。
「……そうよ。ちゃんと避けなければだめじゃない。セスは魔力も高いほうでしょう」
「はい。すみません。次あんなことになったら、その場で守護魔法を乱発して、自分から魔力切れになります。そうすれば、暴走もできませんからね」
いつも通りのセスの物言いに、ヴィオナはやっと安らいだ顔になった。
「自分から魔力切れって……それも違うでしょう。死ぬかもしれない怪我なんてしてはだめ。……本当に」
「はい、わかりましたって」
「——本当に、もう……二度と、私を庇って怪我なんてしないで」
いつの間にかまた、ヴィオナの表情が曇っているのを見て、セスは困ったように笑った。
「……ヴィオナ様。俺はグレッド家の従者ですよ。目の前で主の危険を察知しておいて、無視できるわけないじゃないですか」
「……」
「でも……そんなに気に病まれるのも悪いので、やっぱり次は、ちゃんと俺も避けます。約束しますよ」
「……ええ。主への約束は守ってちょうだい」
セスから顔を背け、コツコツと靴音を立てて、ヴィオナは窓辺に寄った。秋の日差しの風景は温かく、どことなく寂しく見えた。
セスの目に映るヴィオナもまた、そうだった。
「お父様のことは……最低でも冬になるまでは伏せることになったわ。ザディーノに体力は残っていないでしょうけれど、セームダルは一応警戒しないとね」
「そうですか……。確かに冬の遠征は、どの国だってしたくないはずですからね」
ザディーノに比べたら雪が降りやすい気候のセームダルだが、そのぶん冬に遠征する際の騎士団の体力面の管理や、物資の補給の難しさは、よく知っているはずだ。
セームダルはまだ、新王のもと家臣たちが団結したとは言い難い状況のようだが、ガレフは気を抜くつもりはないのだ。
「……合同葬は、いつですか」
「ニ日後よ。出られそう?」
「出ますよ、もちろん。また傷が開いてたとしても」
戦死者は現地で火葬して弔うものだが、いつの戦でも、イゼルで改めて合同の葬儀が行われる。騎士でも魔導士でもだ。
セスと同じように従軍していた風の魔導士が、一人亡くなったと聞かされている。他にもセスには、騎士の友人だってたくさんいる。今回の葬儀で見送りを受ける者の中には、成人するより前から親しくしていた友もいるのだ。
そしてそこには、団長ヒュリスも含まれている。
「ちょっと。傷が開いたら出席は認めないわ」
「いやいや、例えですって。じゃあ、よく寝て、早く治します」
振り返ったヴィオナは少し笑っていた。
ダイル危篤の知らせを受けた時のヴィオナは、セスに謝って馬車を降り、すぐにイゼルへ馬を駆った。あれから二人はまともに顔を合わせておらず、今日が少し久しぶりの会話になった。
少なくともセスは、元気を装える程度には回復している。それを感じ取って、ヴィオナは少し安堵してくれたようだった。
「静養の邪魔をしてごめんなさいね。細かいことが決まったら、また来るわ」
ヴィオナが部屋を出ていったあと、セスは自分の背中に手をやった。まだズキズキと痛んだ。
「あんなに心配されるんじゃ……早く治さなきゃな」
ヴィオナはダイルの死を受け入れるのも大変だろうに、自分まで負担になっては、従者失格だ。
セスは、ヴィオナが立っていたところを眺めた。
『私を庇って怪我なんてしないで』
主の命令であっても……きっとそれは聞けない。
決して軽はずみに命を投げ出したりはしない。でも身体を盾にしなければグレッドの人間を救えない、そんな場面に出くわしたなら、セスは何度でも同じことをするだろう。
それが、ヴィオナであれば——なおさらに。




