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炎国の騎士と北の夜明け  作者: 紘麻 涼海
第四章 それぞれの道
37/107

七、侯爵家の夫婦

 夕刻にはイゼル城に到着すると、早馬を出した。その彼が、そのままイゼルにいれば良いものを、息も絶え絶えに、ガレフとシンザの元へ戻ってきた。

 

「申し上げます! 旦那様が——ご危篤であられます!」

 

 ガレフたちは青ざめた。

 率いていたグレッド家騎士団を副団長に任せ、遥か後方から馬車で帰途についているヴィオナにも知らせるよう言い置き、シンザと二人だけで即刻イゼルへ向けて馬を走らせた。

 その時が来たのか……弱ってゆく父を見守り続け、ずっと覚悟はできていたはずなのに、ついに命が消えかけていることを知った息子たちは激しく動揺し、必死になって馬を飛ばした。

 

 


 

 

 本来なら騎士団とそろって堂々凱旋し、領民に歓声とともに迎えられるところだった。しかしガレフたちはイゼルの街を風のように突っ切り、まっすぐに城へ入っていった。

 取り乱した様子もないナリーが、息子たちを迎えた。 

 

「間に合って良かったわ。そのままでいいから上がりなさい。……ヴィオナはどうしたの」

 

 大きなガレフたちの後ろを覗いてもヴィオナがいないことに気づき、ナリーの表情が陰った。

 

「心配いらないよ、姉上は無事だ」

「ヴィオナを庇ったセスが矢傷を負ってね……。責任を感じて、セスを乗せた後続の馬車に同乗していたから、俺たちより遅れてる」

 

 城の階段を上がりながらガレフに手短に説明され、ナリーは息をついて表情を戻した。

 

「母上、それで……父上は——」

「一時期は意識がまったくなかったのだけれど、今は少し戻ってらっしゃるわ。でももう、境目がはっきりされていないようなの」

 

 ナリーはいつも通りの落ち着いた話しぶりだった。髪も服も乱すことなく、とてもきれいな身なりをしている。その母の有りようは、ガレフとシンザを冷静にさせた。

 グレッド家の人間なのだから、しっかりなさい——母は口には出さず、己の態度でそう諭していた。

 

 ダイルの部屋にいた医師は、ガレフたちが入ってくると深々と頭を下げて席を外した。彼にできることは、もう尽くしたのだろう。

 

「私も、外に出ている」

 

 付き添っていてくれたらしいリューベルトも、席を立った。シンザが引き止めかけたが、私は昨日たくさん話を聞かせてもらった、と言って首を振り、彼は出ていった。

 ガレフとシンザは、寝台の枕元に寄り添った。蒼白な顔色の父は目を閉じていて、眠っているのかどうなのかわからない。

 

「父上。ガレフとシンザ、ただ今戻りました」

 

 長男の声に、ダイルが反応を示す。

 

「……ガレフ……」

 

 ダイルのまぶたがゆっくりと開いた。ガレフはほっとして顔を緩ませ、少年のような顔になっていた。

 

「父上、良かった……」

「……シンザも……いるのか」

「ここにいるよ!」

「ごめん、父上。ヴィオナは少し遅れているけど、すぐに来るから」

「そうか……。ザディーノは、どうした……」

「大丈夫。勝ったよ。砦も潰した」

 

 シンザの返答に、ダイルは微笑んだ。

 

「よく、やった……。聞かせてくれないか……次代のグレッドの、戦いぶりを——」

 

 ガレフは一ヶ月間の戦いを、父に話して聞かせた。

 今回の好機を逃すまいと、本気でグレッド領を切り崩しに来ていたザディーノの攻撃は、凄まじかった。ダイルの判断で、最初から帝国騎士団に応援要請をしていなかったら、凌げていたかわからない。

 少しも引かずに押し返せたことで、ザディーノの騎士たちの士気は著しく下がった。上からの命令で戦闘続行となり砦を築いていたようだが、奇襲を仕掛ける隙が生まれ、フェデルマは勝利を収めることができたのだ。

 

「やっぱり、父上の見極めは正しかったよ。これでザディーノ王の権威は相当落ちたはずだ。当分はフェデルマに総攻撃なんてできないよ」

「そうだな……。本当に、よく、やった……これで、ガレフの名も……上がったな……。私がいなくても、大丈夫だ」

「そうだよ、父上。もう隠居して、母上とのんびり暮らしていいんだよ」

 

 小さなかすれ声を立てて、ダイルが笑った。

 

「ああ……ナリーには、苦労ばかり……かけてきたからな——」

 

 寝台から少し下がっていたナリーは、夫の言葉にすっと俯いた。身体が震えてしまったが、こちらに背を向けている息子たちには見られずに済んだ。

 扉越しに、荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえる。ほとんどノックと同時に扉が開けられた。

 

「お父様!」

「ヴィオナ……。なんです、あなたはもう——」

 

 さっと指で目元を拭ったナリーは、騒々しく入ってきた娘を窘めた。

 

「お父様っ、お父様は……?」

 

 激しく息を切らし、髪も振り乱しているヴィオナには、ナリーの言葉は耳に入らなかった。ガレフに促されて、ダイルの寝台に寄った。

 

「お父様、ヴィオナよ。ごめんね、遅れて……」

「ヴィオナ……無事なんだな……?」

「無事よ。大丈夫。心配させてごめんなさい……」

 

 ヴィオナは父の手を取った。ヴィオナの手は熱いが、父の手は、冷たい。

 

「はは……、ああ、情けないが……心配になってしまったよ。騎士の親として……だめだな、私は」

 

 ヴィオナは首を振って、両手で握りしめた父の骨ばった手に額を落とした。帝国騎士は心のみで泣かなくてはならないのに、まつ毛が濡れてしまう。

 

「いいえ、お父様は……立派な騎士で、素敵な父親よ。私はダイル・グレッドの娘であることが……一番の誇りなんだから」

「……うれしいことを、言ってくれる——」

 

 ダイルは指を動かし、娘に額を上げさせた。泣くまいと歪んでいるその顔を見て、目を細めている。

 

「……ヴィオナ……、幸せに、なりなさい」

「お父様……?」

「ガレフも、シンザも、幸せに……なりなさい——」

 

 ダイルのまぶたが閉じた。

 

「……っ! お父様っ!」

「待て、ヴィオナ! 眠ったんだ」

「……あ、……ああ、良かった……」

 

 薄く開いたダイルの唇からは、呼吸が確認できた。

 思わず力が抜け、かくんと寝台に肘をついたヴィオナは、もう一度父の手をしっかり握り直した。体温が保てない指を、温めてあげたかった。

 

「ヴィオナ、あなた本当にひどい姿よ。それに、三人とも戦場帰りで疲れているでしょう。一度休んで、着替えていらっしゃい」

「そんなの、大丈夫よ。お母様こそ……私たちにまで平気な振りをしないで。顔色が良くないわ」

「わたくしはいいのよ」

 

 ナリーはそばにある水の張られた洗面器から、絞りながら手拭いを取り出した。ヴィオナの反対側から静かにダイルに歩み寄ると、そっと額や頬を拭った。

 それはまるで二人だけの世界——心の奥で語り合っているかのように、子どもたちには見えた。

 

「——ヴィオナ、言われた通りに」

「……うん、……わかったわ」

 

 母を、父と二人だけにしてあげよう。兄と姉の気持ちは、シンザにも伝わった。

 

「戦の穢れを……清めてくるよ、母上」

「……ええ。三人とも、本当にお疲れ様」

 

 子らは階下へ下りて行き、主寝室にはダイルとナリーだけになって、しんと静かになった。こんなに静かなのに、夫の呼吸音は意識しないと聞き取れない。

 

「ふふふ、どうやら……子どもたちに気を遣われてしまったようですわね、旦那様」

 

 椅子に座ったナリーは、ダイルの手のひらの下に左手を差し入れ、上から右手を乗せた。ヴィオナがしようとしていたように、自分の体温で少しでもこの手を温めてあげたかった。

 夫の手は痩せて枯れ枝のようになってしまったが、大きさは変わらない。家族と国を守ってきた、頼りがいのある大きな手だった。およそ二十年間、ナリーはこの手に支えられてきた。

 

「わたくしは幸せです。旦那様——」

 

 

 


 

 ナリーは、シレアという侯爵家に生まれた。しかしシレア家は、もう存在しない。

 ガリアデル帝の御代、多発していた反乱の戦のさなか、父母と兄が馬車での移動中に襲撃を受けて死亡したことで、断絶してしまった。さして珍しいことではなかった。あの頃は他にもいくつもの貴族家が同じような目に遭い、消滅していた。隣領で起こった反乱に巻き込まれたシレア家も、そのひとつとなったのだ。

 ナリーが残されていたが、当時はまだ女性では爵位を継げなかった時代。

 しかしながら通常であれば、存続は可能なはずだった。ナリーにはまだ婚約者はなかったものの、成人から数年経過した充分に大人の女性で、すぐに家を継いでくれる婿を取れば、シレア家を繋ぐことができた。理由は様々だが、残された娘が結婚して夫に家督を相続させた例は過去にあり、国としてもそれくらいの猶予を与えるのは普通のことだった。

 

 しかしガリアデル帝は、無情にも即時取り潰しを言い渡した。その頃のガリアデルは、相次ぐ反乱に苛立っていた。それを抑えきれない領主たちにも怒りを募らせていた。シレア家は上級貴族の侯爵であったので、帝国の醜態を晒したとして、より彼の怒りを煽ってしまったのだ。

 没収された領地にはすぐに新しい領主が赴任してきたので、混乱は短く済んだ。シレア家が雇っていた領地管理人を引き続き雇ってくれたので、領民の生活は大きく変わることなく守られた。シレア家騎士団の者や領館の使用人たちも、ほとんどは新たな領主に再雇用してもらえた。それらは幸いだった。

 守られなかったのはナリーと、帝都のシレア家の屋敷に仕えていた住み込みの使用人たちだ。貴族の身分を失った以上、上級貴族の街区に住むことはできない。館を引き払わなくてはならなかった。

 ナリーは亡き父の伝手を使って、懸命に使用人たちの新しい働き口を探した。落ち度はないのに仕事を失う彼らには、それくらいしかしてあげられなかった。

 半数以上の人は見つけることができ、屋敷から送り出した頃、訪ねてきた人がいた。それがダイル・グレッドだった。

 

 シレア家とグレッド家は、侯爵家同士の付き合いはあった。でも性別も年齢も違うナリーとダイルは、顔を合わせたことがほとんどなかった。

 帝国騎士団第一隊隊長の彼は、ナリーの家族が亡くなる原因となった反乱を治めてくれた人物だった。謹んでお礼を述べると、彼は逆に謝罪した。自分の隊があと一日早く着いていれば、違っていたかもしれない、と。

 もちろん、ダイルに非はない。彼はできる限りのことをしてくれた。反乱の波紋が自領にも及んだことへ、ナリーの父は対応したつもりだったが、その勢いは彼の予測を上回ってしまった。そこが分かれ道だったのだ。

 シレア家の代わりに戦を終わらせてくれたことに、ナリーはもう一度心からの感謝を伝えた。わざわざ謝罪など言いに来てくれた彼の優しさと責任感に甘え、使用人の雇用を頼もうかと考えてしまった。

 がらんとした屋敷を見たダイルは、もうすぐにでも退去しなくてはならない、ナリー・シレアの置かれている状況を先に読み取ったようだった。

 

「差し出がましいことを申しますが……もしもお困りでしたら、今残っておられる方たちも含めて、グレッドの館にいらっしゃいませんか」

 

 自分は兄弟がいないので館に住まう人間も少なく、部屋はたくさん余っている、とダイルは言った。

 浅ましい心を読まれたような気がしたナリーは、恥ずかしくなって即座に断った。まして自分の世話までなんて、捨てたはずの令嬢の誇りも疼いていた。

 しかし彼は、シレア卿へせめてもの償いをさせてくださいと、ナリーが申し出を受け入れやすい言い方に変えた。

 本当は遠慮なんてできないほど追い詰められていたナリーは、彼の言葉に甘え、グレッド家に身を寄せることになった。

 ダイルは、親交の深いキュベリー家の嫡男アダンにも頼み、シレア家の使用人たちの行き先をすべて世話してくれた。

 困ったのが、他でもないナリーだ。彼女は平民になってしまったとはいえ、元は侯爵令嬢である。滅多なところには送り出せない。ナリー自身は覚悟を決め、多少遺された財産で小さな家を買って、自分で仕事を探すと言ったが、ダイルは無責任に放り出す真似はできないと引き止めた。

 何の利益もありはしないのに、これほど親身になってナリーのために心を砕くダイルに、彼女が恋をしてしまったのは、ごく自然のことだった。

 

「わたくしは……叶いますならば、グレッド家にお仕えしとうございます」

 

 もう客扱いは必要ありません、メイドの仕事を一刻も早く覚えます——ナリーは厚かましいと承知していたが、恥を忍んでそう願い出た。

 

「あ、あなたにメイドをさせるわけには……」

 

 戸惑ったダイルは、珍しく帝都にやって来た両親に相談した。ナリーとも話をした彼らは、彼女が口にできない気持ちをも汲み取った。

 

「あなたが妻にお迎えしたらどう?」

 

 控えめで知性的なナリーを気に入った母は、婚期を過ぎて独り身の息子に明るく提案した。

 男爵家ならばともかく、子爵家以上の貴族が平民の娘を娶ることは許されていない。しかしナリーは先日まで侯爵家の一員で、その悲運な没落には貴族たちから同情も集まっている。これだけ身元のはっきりした相手なのだから、グレッド家当主が直談判すれば許可は得られると踏んでいた。

 

「シレア卿はよいお方だった。あの方のご息女ならば、我が家としては申し分ないお相手だ。お前もやぶさかでないなら、すぐにでも城へ上がってやるぞ」

 

 父も賛成していた。

 ダイルも、自分よりも使用人のために必死になっていたナリーに、心惹かれていたのは事実だった。それを押し殺そうとしていたのは、彼女が平民であること以上に理由があった。

 帝国で最も戦いの危険に晒されているグレッド家である。そんな家の跡継ぎが、戦で何もかもを失ったナリーに求婚して良いものだろうか。両親に彼女の本心を教えられても、ダイルは躊躇った。

 

「私は、いずれ帝国の盾となる人間です。そのような私の妻に……なってくださいますか」

 

 ナリーは、自身が後ろ盾も何もない平民の身であることをひどく気にしたが、ダイルの両親だけに留まらず、侍従や使用人までも歓迎の意を示してくれたことで、強く決心した。

 生涯、己のすべてで、この方をお支えしようと。

 

 


 

 

「——平気な顔をしていましたけれど、旦那様がベネレスト陛下と袂を分かったと聞かされた時は、本当に驚いたのですよ。でも理由を伺って……旦那様らしいと思いました」

 

 幼いガレフとヴィオナ、それに赤子のシンザを連れて帝都を出ることにも、迷いはなかった。国境だって、どこでだって、ナリーはダイルのそばで妻として生きていく。

 小競り合い程度のものでも、戦が起こるたび、本当は抱えきれないほどの恐れを覚えていた。領主の留守を代理として守りながら、夫が無事に戻ってきてくれることを、この主寝室で一人きりで祈っていた。

 

「いつも、家族の元へ帰ってきてくださって、ありがとうございました」

 

 どれだけお礼を言っても、言い足りない。ナリーにとってダイルと過ごした半生は、すべての時が宝物だった。

 

「……ナリー……?」

 

 ダイルのまぶたが動き、透けるような金色の瞳が覗く。

 

「はい、ここにおります。旦那様」

 

 立ち上がったナリーは、夫から顔が見えるように身を乗り出した。しばらく焦点が定まらない様子だったが、ダイルの目がナリーを捉えた。ナリーはずっと微笑みをたたえていた。

 

「おそばにおります。子どもたちも、着替えたらすぐに戻りますわ」

 

 頷くように、夫のまぶたがゆっくり閉じて、ゆっくりと開いた。ナリーの顔を見つめている。

 

「……ナリー……」

 

 ほんの少し、唇が動く。何度かの呼吸のあと。

 

「——ありがとう……ナリー……」

 

 そっと——

 ダイルはゆっくりと、その目を閉じた。

 

 ナリーは待っていた。じっと、待っていた。もう一度夫の瞳が、自分が映してくれる時を。

 けれど……身動きひとつせず、待っていても。

 その時は来なかった。

 夫のまぶたは、もう、開かなかい。

 耳を澄ましても、呼吸の音も……聞こえない。

 

「旦那様……」

 

 ダイルの肩に、ナリーの目からこぼれた雫が落ちた。次から次へと溢れて、溢れて、止まらない。

 子どもたちが気を遣って、二人きりにしてくれて、良かった。

 

「それは、わたくしのほうこそ……です……。ありがとうございます……わたくしと、ともに生きて、過ごしてくださって……。たくさんの幸せを……本当にありがとうございます……」

 

 ガレフたちの勝利にイゼルが沸いたその日、ダイル・グレッドは天の国へ旅立った。

 

 

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