六、皇家の父と子
ロベーレで暮らしていたリューベルトを、殿下と呼んだ人はいなかった。侍従も近衛もいなかった。
リューベルトは七歳まで、自分を皇帝の直系と知らずに育っていた。父が皇家に何らかの縁があるらしいという認識はあったが、現皇帝の息子だなんて、夢にも思っていなかった。父は一度も自分の身分について触れたことはなかった。
あの頃は本当にのんびりとした暮らしだった。ロベーレにいる貴族は、母の出身家であるウェイン子爵家だけで、あとは平民だ。身分の差というものを日常で感じることの少ない場所だった。
リューベルトもリミカも、使用人の子や一般の民の子と遊んでいた。大人たちの誰にも止められたことはなく、にこにこと見守られていた。
六年前のある日、見たこともない高貴な身なりの男たちが、父を訪ねてきた。帝都城からの使者だった。
リューベルトは応接間に入れてもらえなかったから、どんな会話があったのかは知らない。彼らは一刻と経たないうちに、宮殿から追い出された。何かを懇願する彼らに、父は怒鳴っていた。あんなに激しく感情的になった父親を見たのは、あの時が初めてだった。
リューベルトはわけがわからず恐ろしくなって、もっと怖がっていたリミカを連れて宮殿から出た。
薄暗くなって母が呼びに来るまで、帰れなかった。
彼らと何があったのか、両親は話してくれなかった。聞いてはいけないことなのかと、漠然と感じたリューベルトは質問できなかった。
城の使者は何度もやってきた。
最初の時ほど感情を剥き出しにはしなかったが、父はやはり追い返した。
「私には関係のないことだ」
「今さらやめてくれ」
「勝手が過ぎる話ではないか」
「私は——廃嫡された身だぞ」
父の声で、そんな言葉が聞こえた。「ハイチャク」という単語の意味が、当時のリューベルトにはわかるはずもなかった。
父と母は、話し合いを重ねていたようだった。きっと心底悩んだのち——両親は、帝都へ移住することを決めた。
「ていとってどこ? 父様、なんで行かなくちゃいけないの?」
「この国の皇子様たちが、亡くなってしまったのだそうだ。父様以外、皇家に人がいなくなってしまったんだよ」
二度とあの城には戻らないと、大昔に決めていたんだがな……ふっと目を閉じた父がそう呟いた。
世継ぎがいなければ、皇家が滅ぶ。覇権争いが起こり、この大きな国に大変な混乱が生まれる。父と母は、それを傍観することはできなかったのだろう。
「父様も皇帝の子どもなんだよ。だから……皇太子になる。リューベルト……お前は皇子だ」
父はすまなそうに、リューベルトの小さな両肩に手を添えた。
家族揃って帝都に移住し、世界が一変した。
ロベーレでも教育は受け始めていたのだが、この大国の皇子として身につけるべきものは別物であった。所作や言葉遣いも、一から教え込まれるようになった。
一方父は、人が変わったように、堂々たる立ち居振る舞いを見せていた。
本当に父は、この城で暮らしていたことがあるのだ。すぐにそう信じられたのは、会った途端に親しく話す者が多くいたからだ。少し年長に見えるその使用人たちは、どうやら昔から城に勤めていた者のようだった。
彼らはレスカやリューベルト、リミカにも、早く帝都の生活に慣れるように、細やかに気を遣ってくれた。
どうしても慣れなかったのは、祖父の存在だ。
父の父親……と想像していた人物像と、かけ離れていた。それまで味わったことのない、本当に肩が重く感じるほどの威圧感は、同じ空間にいるだけで緊張を強いられた。子ども心には、もはや魔獣と同じくらいに怖かった。リミカなど、祖父が見えると泣きそうな顔をして、駆け出して逃げてしまった。リューベルトだってそうしたいくらいだった。
何も知らなかった皇家のことを学ぶうちに、少し不可解なことに気がついた。
戦の最中に亡くなったという前皇太子と皇子は、父よりも年が若かった。てっきり兄皇子たちだと思っていたが、二人ともディーゼンの弟だったのだ。
父は皇帝の第一子でありながら、皇太子にならず、身分を捨てた者のようにロベーレで暮らしていた。そして皇帝も皇后も、弟皇子たちも、一度も会いに来たことはなかった。
それは一体どういうことだったのか——
「……それで、ディーゼン様はベネレスト様の実子ではあられないのではないか——とお考えになったのですか」
ダイルの言葉に、瞳を翳らせたリューベルトは頷いた。
これまでの皇家では、嫡子がすなわち皇太子とされてきた。ディーゼンだけが例外だった。
この例外は、なぜ起きていたのか。疑問を抱きながら、皇家の一員として過ごしてきた。
「それに父は、祖父のことを一度も父上と呼ばなかった。陛下と言っていた。同じ城の同じ区画に暮らしているというのに、顔を合わせることもなかったんだ」
「……やれやれ、教育係は何をしていたのか……。殿下が不安をお持ちだというのに……誰もお答えしなかったのですか」
「い、いや……私が誰にも、一度も聞かなかったんだ。父に……直接聞けば良かったことなのだが……」
ついぼそぼそと声が小さくなった。これでは講師に、皇子としてなっていない、と怒られるところだ。
ダイルは優しく笑った。イゼルに来て初めて会った時と同じ、人を包み込むような眼差しだ。
「ディーゼン様は紛う方なき、ベネレスト様のご嫡男でございますよ。お生まれになった当時、私もまだ未成年でしたが、父と一緒にお披露目の儀にも出席させていただきました」
「そ、そうなのか……?」
「間違いございません。それに殿下は、ベネレスト様にこれほど似ておいでではありませんか」
「それは、そうなのだが……」
リューベルトは自分の頬に触れた。
確かにこの顔は、ベネレストとの血の繋がりを感じる。でも直系の証明にまではならないと思っていた。
「私が存じ上げている限りでよろしれば、お話しいたしましょう。お二人も……喧嘩別れをなさっていたのですよ。六年前、城に戻られたディーゼン様が、ベネレスト様に他人行儀でおられたのならば、それが原因かと思われます」
「父と祖父も……喧嘩?」
「はい。ディーゼン様が未成年でいらした頃、私は帝国騎士団におりましたから、あのお二人の反りが合わない場面は、幾度かお見かけしました」
ディーゼンの温厚な性質は、生来のものだった。剣や馬術の腕も充分に高かったが、勉学のほうが好んでいたようだった。家臣や講師やその息子などとも、気軽に意見交換や雑談をするような、これまではいなかった親しみやすい皇子だった。
当時皇太子だったベネレストは、長男のそんな気質が気に入らなかった。皇家の人間は孤高であるべきで、無駄な口を利くものではない。おまけに、敵国や反乱者ともまずは話し合ったほうが良いなどと、生ぬるい意見の持ち主でもあったからだ。
二人は考えも性格も違いすぎた。親子だが——国を背負う運命の親子であればこそ、決して相容れなかった。
成人したディーゼンに、初陣を飾る機会が来た。
ところが彼は、まだ話せる余地はある相手だと、出陣を拒否してしまった。
臣下や騎士は唖然としたが、ベネレストは激怒した。
最後となったこの親子喧嘩は、ダイルも目撃していた。
「出陣を拒み、騎士団の士気を下げるとは……それでもグランエイド家の男か!」
「そちらこそ、いい加減にしてください。私はあなたや陛下の考えには賛同できないと、何度も言ったはずですよ」
「父上は大目に見てきたが、貴様のような腰抜けなぞ、次の皇太子にはできぬ!」
「結構です。あなたたちと同じ人間にならなければ継げない帝位など、こちらから願い下げだ。どちらの弟にでも譲りますよ」
年の離れた二人の弟皇子たちは、父親に気性が似ていた。幼いながら、父親に同調しない兄に反発さえしていた。母も野心的な女性であったので、ディーゼンだけが皇家の中で異端な存在だった。
父親に認められず、家族からも浮いていたディーゼンにしてみれば、息苦しい生活に終止符を打つ良い機会だったのかもしれない。
母も弟たちも、祖父のガリアデル帝も、反省の色もなく城を出たディーゼンを見限ったようだった。彼は、グランエイド家はもとより、貴族家としても極めて異例となる、廃嫡された男子となった。
「ロベーレで、民とご一緒になって、農作業や魔獣退治をなさっております」
皇家は追わなかったが、心配になった家臣がディーゼンの様子を見に行き、そう報告した。
「はっ! あの臆病者に相応しいことよ」
ベネレストはそう吐き捨てた。
その後も皇家はディーゼンを放置し、二男が正式に次期皇太子とされた。
ディーゼンはロベーレで自適に暮らし、帝都に顔を出すことはなかった。一切の交流を絶っていた。
数年が経ち、ロベーレの管理を任されている子爵家の娘レスカと、互いに惹かれ合って結婚した時も、皇家に許可を求めることなく、ただ貴族としての形式上の届け出を出してきたのみだった。
ディーゼンは帝位継承の権利を廃されてはいたが、グランエイド家に名は残っていた。
城では、さすがに身分の違いと、皇家の血が帝都以外で引き継がれる可能性を憂慮する声が上がったが、ベネレストはひと言「放っておけ」という言葉で黙らせた。父帝ガリアデルにも彼が報告し、引き続き干渉しない方針に決めたようだった。
「それから、私とリミカが生まれたのだな」
「そうですね。そのご報告は、ウェイン子爵家……殿下のご祖父様から、皇家へ届いていたようです。その後のディーゼン様のお暮らしについては、殿下がよくご存知でしょう」
リューベルトは頷いた。
ウェインを名乗ることはなかったというのに、子爵家の一員だとリューベルトが信じていたほど、父はロベーレに馴染んでいた。
「城の中央は、私やリミカのことを、生まれた時から把握していたのだな。私は、自分の系譜を知らなかったというのに」
少し拗ねたような目つきで、リューベルトは鼻にしわを寄せた。なんだか、上から眺められているとも知らずに泳ぐ、睡蓮鉢の中の魚のような気分だ。
ダイルは眉尻を下げて笑った。
「ベネレスト様もディーゼン様も、お互いに二度と道を交えないおつもりだったのでしょう。ですから、便りも交わされず、会いに行かれることもなく、お血筋のことをお教えもしなかったのだと思いますよ」
しかし六年前になって、皇太子と皇子が二人とも戦死する不幸が起きてしまった。彼らは結婚もしておらず、子もいなかった。
悲嘆にくれる間もなかったことだろう。家臣たちはこの国の危機を回避するため、ディーゼンを連れ戻すしかないと皇帝に進言した。こればかりは、さしものベネレストも、皇帝として聞き入れる以外なかった。
ディーゼンも同様だ。城から来た使者の願いを何度もはねつけたが、最終的には受け入れた。やはりディーゼンも皇家に生まれた者として、自身の事情だけを突き通すことはできなかったのだ。
かくして、フェデルマのために、親子は再び運命を重ねることになった。
「だがやはり……どうもわからない。喧嘩別れをしたというのは、二十年以上前の話だろう? 再会するまで十五年くらい経っていたはずなのに、喧嘩が続いているものだろうか」
ディーゼンとベネレストは、久し振りに顔を合わせてぎこちない、という程度の雰囲気ではなかった。二人の間にあった空気はもっと、ピリリとしていた。
考え方の違いは別れた時と同じであったはずなのに、話し合っていた様子も見られなかった。
ダイルは変わらず笑っている。
「殿下にはまだ、おわかりになれないかもしれませんね。大人というものは存外意地っ張りで、簡単には引けないものなのですよ」
「……意地っ張り……」
うーん、とリューベルトは唸った。
意地を張る気持ちくらいはわかる。けれど父と祖父の対立は、今までのリューベルトの人生よりも長い期間に及んでいる。そんな気持ちを想像するのは、確かにまだ無理そうだ。
もし子どもたちが意地の張り合いなどしていたら、大人はきっと叱るだろうに、と思ってしまう。
「——ああ、ご覧ください。星が出て参りました。秋の日は短いものですね」
ダイルが仰いだ空は透き通って青黒く、満天の星が瞬き始めていた。茜色は西の果てに消えかけていた。
灯りのないバルコニーは、すっかり暗かった。
「本当だ。そういえば、ずいぶん空気が冷えてきたな。あっ、ダイル殿は身体に障るのではないか」
日々体調に波があり、今は良いようだが、ダイルの身体が病んでいることには変わりはなかった。
「長く立ち話をさせてすまなかった。……でも、ダイル殿に話を聞かせてもらって、本当に良かった」
「私も昔を思い出して、楽しゅうございました」
ナリーがしているのを思い出して、リューベルトはダイルが歩きやすいよう、見様見真似で肩と腕を差し出した。ダイルが遠慮しないで掴んでくれたことをうれしく感じた。
——明くる日、ダイルの容体が急変した。




