三、新たな歩み
久しぶりにすっきりとさせた髪を、イルゴは無意識のうちに手で確かめていた。今日は秋らしい空気が街を包んでいて、心なしか首筋が寒く感じたのだ。
ドルトイのように、家族の領地へ帰る決意はまだできていない。ジグのように、リューベルトから託された使命もイルゴにはなく、何をすべきかすっかり見失っていることに変わりはない。
今しばらくの間は帝都で悩んでいよう、それだけを決めた。
リューベルトへの挨拶はやはり欠かせないので、イルゴは今日も城へ上がろうと館を出てきた。
彼は、ドルトイやジグと同じく伯爵家の出身だ。館は下級貴族の街区にある。いつも一番近い花屋で献花を購入していたのだが、少し気分を変える気持ちで、遠い花屋まで足を延ばしてみた。
その花屋の近くには、視界が開ける場所がある。木の柵に囲まれた広い土の広場は、馬術の訓練場だ。イルゴは懐かしくなって目を細めた。城に出仕する前まで、帝都に滞在していた時にはよく来たものだ。
「ターシャ、いつもより速度を上げるわよ」
近くから少女の声が聞こえた。ちょうどこちら方面へ歩いてきた馬に、まだ未成年らしい少女が二人乗りをしていた。前に横向きで座っている金髪の少女は知らないが、後ろから手綱を掴んでいる赤っぽい髪の少女には、なんとなく見覚えがあった。
「は……速いです、ティノーラ!」
それほど速くは見えないが、金髪の少女が鞍の取っ手をきつく握りしめて、思わず身を屈めた。それを後ろの騎士服の少女が声をかけて元のように直させる。正しい姿勢は大事なことだ。
親子ならよくやるが、同じ年頃の少女の二人乗りとは珍しい。前の少女が乗馬に慣れていない様子であったのも、この国では不思議に思えるくらいだ。
そんなふうに感じながら、通り過ぎた馬を何気なく見送っていた。
「イルゴさん……!」
よく知った声がして、イルゴのすぐ近くの木柵に馬が寄ってきた。
「エ、エレリア様……!?」
「お久しぶりでございます、イルゴさん」
馬から降りたエレリアは、右足を引いて軽く腰を下げる礼をした。城でイルゴと顔を合わせる時はほとんどドレス姿だったが、今日は乗馬用の服を着用し、髪もひとつに編んでいて、ずいぶんと雰囲気が違う。活動的な印象だった。
「あっ……イルゴ様とお呼びするべきでしたわ。わたくし、つい以前のままに……失礼をいたしました」
今のエレリアはもう、リューベルトの婚約者ではなく、侯爵家の娘ですらない。伯爵家の中でも一番格下の家の人間といっていいだろう。いつ難癖をつけられて取り潰しに遭うともしれない、危うい伯爵家なのだから。
「い、いいえ。どうぞ、以前のままに……。驚きました。帝都にいらっしゃったのですね」
すっかり世間から離れていたが、キュベリー家が受けたに処分ついては、イルゴの耳にも届いていた。エレリアはアダンとともに、領地で幽閉状態にされているものと思っていた。
「はい。わたくしも貴族家の未成年に変わりありませんから。ウィルドたちもあちらにおりますわ」
エレリアが示した方角には、二年前からリューベルトが、彼女と一緒によく城へ招待した少年たちが、乗馬の訓練をしていた。
何ということだと、イルゴは心を痛めた。領地にいるほうがまだ気が楽だったろうに。父親の宰相解任、侯爵から伯爵への降格、エレリアの皇太子妃候補からの転落。周囲からどういう目で見られていることか。エレリアたち姉弟が、帝都で暮らしやすいはずがない。
「……ここへは、よくいらしていたのですか」
「まだここ十日ほどのことですわ。それまでは、やはり……あまり屋敷から外出はしていなかったのですけれど、わたくしのことを誘い出してくれるお友達ができましたの」
そう言ってエレリアは微笑むと、先ほどの二人乗りの少女たちのほうへ視線を向けた。彼女たちは、エレリアの新しい友人だったのか。穏やかなエレリアの表情からは、彼女たちから安らぎをもらえていることが窺えた。
最後に見かけた国葬の時には、罪人扱いのアダンと彼女に声をかけることも許されなかった。また、イルゴ自身も他人を気遣える精神状態ではなかったので、あれからエレリアがどうしているかなんて、今まで一度も考えてこなかった。
リューベルトが大切に想っていた少女は、新たな友人に支えられて、止めていた歩みをもう一度進めつつあったのだ。
ドルトイも、エレリアもそうだったのか。イルゴのように現実から逃げて、目も耳も塞いで立ち止まっているばかりではなかったのだ。
「そうでしたか……。お元気そうで——」
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
突然、見たことのない男が、まるで脅すような声音でイルゴの言葉を断ち切った。
エレリアの反応は薄かったが、イルゴは驚いてしまった。人の会話に割って入るとは、なんと不躾な大人がいたものか。思わず眉をひそめながら、柵のこちら側にいるその男を見た。
「イルゴ様、申し訳ありません。この方は、わたくしの行動を確認するお役目の方なのです」
「確認……?」
それは、監視に他ならない。十三歳の少女に対して、ここまでしているのか。
エレリアは少し表情をきつくして、男を見上げていた。
「このお方は、イルゴ・フレイバル様です。リューベルト殿下の侍従を務めておられたお方です。ご存知ないのですか」
「ほう? 殿下の侍従ですか」
「エレリア様とは、たった今偶然お会いいたしました。私が何か、エレリア様に吹聴するとでもお疑いなのでしょうか」
おそらく疑っているのは逆のことだろうとわかっていたが、イルゴは少しでもエレリアを庇いたかった。
「いいえ。エレリア嬢がおっしゃったように、私は確認しているにすぎませんよ。世間話をなさったからといって、あなたに何か罪があるとは申しません」
こうやって相手を脅して、キュベリー家が他の貴族家と繋がりを持てなくしているのだろうか。
エレリアは父親もそばにいない状態で、ずっとこのように自由を奪われているのか。
「申し訳ございませんでした、イルゴ様。声をお掛けするべきではありませんでしたわ」
イルゴに不快な思いをさせたと感じたのか、エレリアが必要のない謝罪をした。
「わたくしは、これで失礼いたします」
「エレリア様——」
彼女は一礼するとさっと馬を引いて、まるで逃げるように友人たちのあとを追った。イルゴはもう少し話を続けたかったが、暇を与えられなかった。
同時に監視も、横目でイルゴをにらみながら離れていった。よく見れば向こう側にも、もう一人それらしき男がいて、こちらを観察している。
イルゴは大人で、貴族の一員である。あからさまに警戒感を見せつけられている。
エレリアをリューベルトの墓に案内してあげたいと思ったのだが、これではとても無理だ。城の敷地へ入る許可も出ないだろう。
さすがの監視も、乗馬訓練にぴたりと寄り添いはしないらしい。エレリアは友人たちと話し始め、ほっとした表情を見せていた。
お勉強のお時間です、と呼びにきた講師に、リミカは嫌そうに眉間にしわを作り下唇を突き出した。まだ仔犬と遊んでいたい彼女は、ジグの陰に入り込んだ。
「またあとにしてくださいませ。お勉強はとても大事なお仕事なのですよ」
お勉強といっても、礼儀作法や、貴族の娘が受ける基本的な教育の初歩の段階だ。
ジグが近衛となった頃のリューベルトと、今のリミカは同じ年頃である。しかし将来皇帝となる皇子と、いつか嫁ぐ皇女とでは、学ぶべきものに大きな差があったため、現在のリミカの教育段階は、あの頃のリューベルトにまったく追いついていない。しかしその差を、早く埋めようとしているようにも見えない。
リミカは渋々侍女に犬を預け、呼びにきた講師に連れられて城へ入っていく。ジグも続いた。
リミカが部屋に入るのを見届けると、ジグは時刻を確認し、その場を離れた。廊下では護衛騎士が警備に当たっているため、ジグはしばらく休憩となる。
昨日ドルトイと会ったせいだろうか。ディーゼン陛下のことが強く思い出され、墓に祈りに行こうと決めていた。
ディーゼンやリューベルトの月命日でもないので、他に人はいないだろうと思っていたが、一人先客がいた。
「……イルゴ殿」
膝をついて祈っていたのは、イルゴだった。ドルトイは、彼が髪を切るとか言っていたが、見たところ四ヶ月前と変わっていない。
「ああ、久しぶりだな。ジグ」
「復帰……されたのですか」
「いいや……、まだ決めかねているところだ。情けない話だがね」
年上のイルゴにジグは敬語で話すが、気心は知れた仲だ。
リューベルトに仕えることを誇りにしていた者同士であり、主を喪ったことで自分を赦せずにいる者同士でもある。だから今まで、無意識にお互いを避けていたのかもしれない。
ジグも、ディーゼンとレスカの墓、それからリューベルトの墓に、それぞれ祈りを捧げた。済ませていたイルゴは、静かに待っていた。
「姫様は元気でおられるか」
「はい。でも、寂しがっておいでです」
犬を飼ったくらいで、リミカが失ったものが埋まろうはずもない。昨日のドルトイとの別れ際も、ひどく泣いてしまった。
「イルゴ殿……私などが口を出すことではないのかもしれませんが……復帰なさっては、いかがですか」
これまでジグは、イルゴに会っても話すことが見つからないだろうと思っていた。でも今は、自然と言葉が出た。癒えることのない傷を抱えながらも、新しい道を探して立ち上がったドルトイに会ったことで、ジグの中でも何かが変化していたのかもしれない。
「姫様の侍従にはイルゴ殿が相応しいと、私も思います」
「……姫様の、侍従……?」
「はい。まだ決まっていないのです」
リミカは皇帝だ。日常の身の回りの世話なら、今までの侍女で良い。しかしこれからは皇帝として、公務をこなさなければならない場面もたくさん出てくる。姫の世話係の侍女ではなく「皇帝の侍従」が必要だ。
ドルトイが復職してくれれば、それが最適とされていたが、彼は昨日それを断り、退職の申請を出した。
「ドルトイ様は姫様と馴染みもある、イルゴ殿が良いだろうと申し添えられたそうです。きっとお話が行くでしょう。どうかお引き受けください」
「……そうか。私も、姫様を守るお役に……立てるかもしれないのか--」
リューベルトの役に立てるだろうか。それを新しい使命だと思っても良いだろうか。
イルゴは主の墓標を見つめた。問いかけても、答えがもらえることはない。それは自分の中にしかないのだ。
「——ありがとう、ジグ。話を……聞いてみるよ。ドルトイには及ばないが、私に手伝えることがあるのかどうか」
イルゴの父や兄も、そちらを選ぶことを喜んでくれるだろう。領地に戻るよう言ってくれたのは、道を見失っている彼を見かねてのことだ。
イルゴは隣の大きな墓に目を移した。
「陛下のお導きかもしれないな。大切なご子息の殿下に、毎日弱音を聞いていただきに来る情けない私に、ドルトイを遣わせてくださったような気がする」
そうかもしれないと、ジグにも感じられた。ディーゼン陛下は、従者のことも思いやるお方だったから。
皇家に仕えていた者たちの中で、ドルトイはまとめ役のような存在だった。皇帝陛下の第一の侍従という立場もさることながら、彼の手腕と人柄が自然とそういう輪を作っていた。
そのドルトイの、何気ない昨日の言葉……ジグにはそれが、引っかかり以上のものになっていた。
ジグは周辺に人がいないか気配を探ってみた。誰もいない。
「イルゴ殿……私は今から、少々奇妙なことを口走るかもしれません」
「奇妙なこと?」
「リューベルト殿下のお言葉を、覚えておいででしょう。両陛下は……毒殺だったと」
「ああ……信じ込んでしまっておられたな」
そのためリューベルトは、アダンに調査を頼んでいたとのことだった。実際にアダンは料理長に話を聞き、皇后の茶葉もすべて調べようとしていた。
「もし……もしも、殿下の思い込みではなかったら、と考えてしまったのです」
「何を……言っているんだ」
リューベルトが帝都を出た日、彼を安心させ、回復を促す材料にしようと、ルイガン侯爵はアダンがしまい込んだ茶葉をすべて、公開で毒物検査させた。もちろん何も出なかった。
当日の御膳の毒見体制にも問題はなかったことは、アダンも確認していたようだし、もう一度料理長以外からも証言を取った。
誰もが納得した。リューベルトは塔の上で両親の死を目の当たりにし、炎にも襲われ、極限状態の中で幻を見出して信じてしまったのだと。
「しかし、検査したあれらの茶葉は、当日皇后陛下がお淹れになったものではありません。殿下のお言葉が間違っている、決定的な証拠とまでは言えません」
それに、火災事故の日からあれだけ日にちが空いていれば、厨房にあった茶葉だって、人知れず差し替えることは不可能ではなかったと思われる。
「確かにそれは……そう考えることもできる……。だが、どうしたんだ、ジグ。なぜ急にそんなことを?」
「昨日、ドルトイ様がおっしゃったのです。事故の瞬間、自分は茶葉の瓶を持っていたのだ、と。そして服が茶葉まみれになっていた……とも」
「……それは……両陛下が実際にお飲みになった茶葉ということか……!」
ジグがなぜこんなことを言い出したのか、こんなことを考え始めたのか、そのきっかけが、イルゴにも理解できた。
ドルトイの服が残っていれば、皇后の茶葉も焦げ付くなりして残っている可能性がある。当日飲んでいたお茶に本当に毒が入っていなかったのか、調べることができるかもしれない。そうしたら、リューベルトの言葉の真偽を知ることができる。
「今さらなのかもしれません。殿下はもう、おられないのですから。……しかし」
「ああ。真実を知るすべが残っていたのなら、我々は調べなくてはならない」
ジグもイルゴも、リューベルトの墓標を見つめた。
……もし、毒が検出されたら。
もし思い込んでいたのが自分たちのほうであったなら、あの時、主はどう思っていたのだろう——
知らぬうちに、追い詰めることをしてしまっていたことになる。深く失望させていたことになる。
イルゴとジグは、事実を知る機会を捨ててはならない。
そして皇帝ディーゼンと皇后レスカの死因が、毒殺だったとしたら——
帝国の土台が揺らぐほどの事態である。弑逆者がまだどこかにいるのだから。
二人だけの手に負えるものではない。
ジグもイルゴも、拳を握りしめていた。
「ドルトイには私が会ってこよう。ジグは姫様の近衛だ。今の私なら、動いても目立たない」
とにかくドルトイが帝都を離れる前に確かめなくては。
ジグは頷いた。ディーゼン陛下を裏切った者が近くにいる可能性があるのなら、リミカを置いて街区に下りることなどできない。
リューベルトに託された妹皇女だけは、絶対にお守りしなくてはならないのだ。




