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炎国の騎士と北の夜明け  作者: 紘麻 涼海
第四章 それぞれの道
32/107

ニ、近衛騎士

 主だったお方は、こう告げられた。

 

「ジグ、そなたは城に残ってくれ」

 

 聞かされた時、言葉を失った。

 これは——「罰」だ。そう思った。

 

 

 


 

 ジグの主であったリューベルトとその家族が、帝都城へ移住してきたのは六年前。それまで暮らしていたロベーレでは、宮殿や周辺を守る護衛はいたものの、当時の皇帝ベネレストの実子であるディーゼンにさえも、近衛は付いていなかったのだという。

 ロベーレはのどかで、皇家直属の使用人と農民しかいないような土地だったから、それで良かったのだろう。しかし、帝都ではそうはいかない。すぐに近衛騎士が選出された。

 皇子リューベルトに付いたのは、熟練の騎士だった。

 

 ディーゼンはよく国内視察に家族を、とりわけリューベルトを伴った。次期皇太子でありながらリューベルトは、広大な帝国のうち、ロベーレとその周辺しか知らなかったのだ。

 ジグは帝国騎士団の一員として、その視察団の護衛の任に就くこともあった。 

 

 護衛と近衛は、似ているようで異なる。

 賊や魔獣と遭遇した際、主を守るために間に立ちはだかるまでは同じだ。

 相手を壊滅ないし全滅させるために戦うのが護衛。

 戦闘に加わるよりも、主の身の安全確保を最優先にして動くのが近衛。

 もし護衛が討ちもらした敵が、主に接近してしまえば近衛が戦う。その事態の対応に足る実力は備えているが、本来はあってはならないことである。

 ある時、それよりも悪い事態が起きた。

 

 一年ほど経った頃のこと。

 建国時からフェデルマの土地である南部に比べると、戦闘が長く続いた北部は、荒れ地が多い。つまり、魔獣が多い。

 ディーゼンの視察団は、危険な地域は避けて宿泊地への帰途に就いていたが、北から流れてきていた複数の魔獣に襲われた。通常通り護衛隊が戦い、ディーゼンたちの乗る馬車は先に行かせた。

 

 不運なことに、その馬車が横転する事故が起きた。前日の雨でできた大きな水溜まりに乗り入れたところで、別の熊の魔獣に馬が襲いかかられ暴れてしまい、車輪が滑ってしまったのだ。

 乗っていた馬車の突然の横転、染み入ってくる泥水によって恐慌をきたした八歳のリューベルトが、ディーゼンの制止さえ耳に入らず外へ飛び出してしまった。馬で並走していた二人の近衛騎士はこの時、横転事故に巻き込まれてすぐに動ける状態になかった。

 馬を襲った魔獣が、ひ弱そうな人間の子どもを襲わない道理はない。すぐにあとを追ったディーゼンは剣を抜いたが、横転の際リューベルトを庇って利き腕を骨折していた。左腕のみでも息子を襲う鋭爪を弾いたが、魔獣化した熊を倒すにはあまりにも不利だった。それでも父は息子の前で剣を構えた。

 ドッ、というごく短い音がし、魔獣の血走った目から光が消えた。傾いてきた魔獣の体から、ディーゼンは折れた腕も使って息子を抱え、咄嗟に避難した。

 魔獣は、ジグの放った矢で頭を射抜かれ即死していた。

 

「助けくれて、ありがとう……」

 

 ジグの元へ、皇子が泣きながらお礼を言いに来た。

 応急処置の済んだ皇太子まで、礼を述べに来てくれた。

 ジグにとっては魔獣討伐は当然の任務であり、彼らの礼を受け取るのは身に余ることだった。

 

「あの様な事態を招いてしまったこと、まことに申し訳ございませんでした……!」

 

 隊長でもないのに低頭して深謝するジグだったが、ディーゼンは帝都に帰ってから改めて感謝を伝え、騎士の階位を引き上げた。

 そんな名誉を賜っても、ジグは笑みひとつこぼさない。口数も少ないのだから、せめてお前はもう少し笑えと、家族や同僚からも言われる。

 

「そなたは話すのが苦手なのか?」

 

 城の警備をしているジグに、あれ以来リューベルトから話しかけるようになっていた。毎度反応が薄いジグに、純粋に疑問を持ったようだ。

 

「そのようなつもりでは、ないのですが」

「……そうか、わかった! そなたも言葉遣いを直している最中なのだろう」

「言葉遣い、ですか?」

「私も(ここ)に来てから、直すよう言われているんだ。もうこんなに経つのに、まだ話しにくいんだが……間違えると注意されるから、あまり講師の前では喋らないようにしているんだ」

 

 リューベルトは相槌も打たないジグに構わず、腰に手をついて首を傾け、話し続けた。

 

「でも喋らないと、それはそれで注意されるんだ。受け答えがなっておりません、って。だけど、皇子の言葉は重いんですよとか、誰かを贔屓しているようなことは言ってはだめですとか、話す内容はよーく考えないといけませんって言われてるんだよ? それだけでも本当に難しいのに、すらすら話すなんて無理だよ。父上はね、城に来た途端に、みんなの前では今の話し方に変わったんだ。きっと前からできてたのに、隠してたんだよね。ずるいなあ」

「……殿下」

「——あ」

 

 リューベルトはさっと姿勢を正し、顎を引いた。

 

「互いに励もうではないか。ジグ」

「……はい」

 

 なんともかわいらしい皇子様だと、メイドたちがはしゃぎながら話すのが、ジグの耳に入ったことがある。聞こえた時は無礼な者たちだと眉をひそめたが、この頃になって、なるほどと思えてしまった。

 今まで仕えていた皇家の方々は、近寄りがたい威風に満ちていた。リューベルトはベネレストと顔貌が似ているが、表情が豊かで、笑顔は人を惹き付ける。メイドたちから見れば、人間味があってほっとしてしまうのだろう。

 ディーゼンたちが来てから城内が少し明るくなったのは、誰の目にも明らかだった。

 

「ずいぶんと皇子が懐いておるようだな」

「……あっ、陛下!」

 

 皇帝ベネレストが現れた。侍従と、歴代最年少である宰相ロニー・ルイガンも後ろから歩いてくる。

 ベネレストが運んできた粛然とした空気は、リューベルトが柔らかくしていたこの場の空気をもあっという間に飲み込み、張りつめさせた。

 祖父を見るなり、リューベルトは全身を固くして、その場に直立している。

 ジグと、リューベルトの後ろに控えていたイルゴは、さっと頭を垂れてから、姿勢を正した。

 ベネレストが顎を動かすと、彼の侍従がリューベルトに一礼して用件を伝えた。

 

「殿下の近衛騎士が、傷の回復が思わしくないと、退役の申請をいたしました。いつまでも代理では心許なく、新しく正規の近衛をご選出くださいと申し出たそうです」

「傷が良くならないのか。大変じゃないか。私も見舞いに行っても——」

「必要ない」

 

 空間を重く揺らすベネレストの声に、リューベルトは少しびくっとして言葉を打ち切った。

 

「怪我をした騎士の見舞いなどに、皇子の時間を割いてはならぬ。もっとすべきことに時間を使え」

「はい……」

 

 ベネレストは身を縮める孫からジグへと、その鋭い視線を向けた。貴族家出身で階位も上位に上がったとはいえ、ベネレストにとってジグは、ただの若輩の騎士にすぎないはずだった。

 

「そなた、後任になれ」

 

 突然皇帝から直接命令を与えられたジグには、初めは何を任されたのか理解できなかった。

 

「皇子の近衛だ。すぐに訓練を受けろ。良いな」

「はっ——」

 

 頭を下げたジグが元の姿勢に戻るのを待たず、ベネレストは廊下を歩き始めた。

 皇帝の告げる決定は、絶対だ。拒むどころか、もっと良い人材がいるのではないかという提言も、受け付けられはしない。ジグはリューベルトの近衛になることが決まったのだ。

 

 初めて近衛として仕え始めた日、ディーゼンは良かったと言って笑い、そのあと肩をすくめた。

 

「私もそなたに頼もうと思っていたのだ。まさか陛下に先を越されるとは」

 

 前任者はあの時、皇家の大きな馬車の下敷きになっていた。歩けるほどには回復したが、騎士として自分が納得できる状態に戻るまでには、まだまだ時間がかかるのだという。ディーゼンはドルトイに見舞いに行かせたが、退役の意思は固かったそうだ。

 

「誤解しないでくれ。リューベルトがそなたに懐いているからではない。適していると判断したからだ。あの時、そなたはいち早く気がついて追ってきてくれた。視野が広い証拠だ。その上、私とリューベルトがすぐ近くにいたのに、弓を射ることができる胆力と技術。責任感もある。どれも素晴らしい」

 

 ディーゼンは添え木で固定している右腕をさすり、にこりと笑った。

 

「寡黙なのも良い。近衛騎士は、言わば常に寄り添う影に徹するべき存在だからな」

 

 畏れ多く場違いであると竦んでいたジグの心を、ディーゼンはいとも簡単に解きほぐしてしまった。

 

 


 

 

 あれから五年間、ジグはリューベルトの近衛を誠心誠意務めてきた。その間に、ベネレスト帝が逝去し、ディーゼン帝までもが非業の死を遂げてしまった。

 リューベルトの即位が迫っていたその日。ザディーノの船が港に迫り、キュベリー侯爵が失脚した激動の日。根拠のないことを信じ込んでしまい、城内で抜剣したリューベルトを、ジグは取り押さえた。

 ロベーレへ療養に向かうリューベルトは、ジグを帯同しない決定を告げた。

 ——これは「罰」なのだろう。

 

「たった一人の大切な家族を、私は連れて行くことができない。だから、そなたのことも連れて行かない」

 

 主は寂しそうな笑みを浮かべていた。

 

「今のこの城で一番、腕と忠誠心を信頼できるのが、ジグだからだ。妄想に取り憑かれた私を安心させるためでいいから……リミカを守ると誓ってほしい」 

 

 大切な妹皇女を託していただいた。これは信頼なのか。

 リューベルトは、臣下の提言にも耳を貸す人物だ。しかし、今は命令通りにすることが、彼の心の回復により役立つのかもしれない。

 

 しかし翌日、ジグは人生で一番の悔恨を味わう。

 リューベルトが魔獣に襲われて命を落としたのだ。

 近衛騎士がついていれば……自分が無理にでも帯同していれば。

 リューベルトが取った行動は、誰にも予測できなかったものであったため、護衛の騎士隊には大した処罰は下らなかった。しかし全員が責任の重さを自覚し、護衛騎士を退役して城を去っていった。

 

 ——その程度で足りるものか。

 ジグは怒りに打ち震えそうだった。リューベルトを常に視界に捉えておくのは当然ではないか。近衛ではないからといって、守るべきお方から目を離したことを、そんなに簡単に免罪されるのか。

 

 でも、彼らの罪を重くしてほしいと、ジグは本気で願ってはいなかった。

 本当に赦せないのは……誰でもない、自分自身なのだから。

 

 


 

 

「ジグ! 誰か来るわ!」

 

 飼い始めて三月ほどの仔犬と遊んでいた現在の主、女帝リミカが怯えた表情をしてジグの騎士服に掴まった。先に気づいていたジグは、さっとリミカを背に庇って軽く身構える。

 城を通らなければ来られない皇家の庭園にいるのだから、怪しい人間が入り込んでいる可能性は極めて低い。ジグが警戒したのは、近寄ってくるその人物を誰だか判別できなかったからだが、リミカが怯えたのは、見た目が怖かったからだと思う。

 その男の皮膚はところどころ変色したり、引きつっているように見えたから。

 

「ご無沙汰しております。ドルトイでございます」

 

 貴族らしい服装の男は丁寧な礼をし、かすれ気味の声でそう名乗った。

 

「……ドルトイ様……?」

 

 ジグは身構えを解いた。痛々しい火傷の痕が見た目を変えてしまっていたが、その男は紛れもなく、ディーゼンの侍従であったドルトイだった。

 

「ドルトイ様、復帰されたとは存じ上げませんでした」

「はは、君も同じことを言うのだな。復帰は……しないよ。兄の領地へ帰るつもりだ」

「……そうでしたか」

 

 ジグにはそれ以上言える言葉は見つからない。

 声も以前と違うせいか、まだ彼が父に仕えたドルトイだと、リミカには納得できていないらしい。侍女に促されても、ジグの背中に隠れて出てこない。

 ドルトイも無理にリミカに近付こうとはしなかった。

 

「退職の申請を受理されてきたところです。お世話になった方々へ挨拶回りをするに当たって、初めは姫様に……いえ、陛下にお目通りを願いたいと——」

「『陛下』はお父様っ!」

 

 ジグの後ろから、リミカが怒った声を上げた。

 リミカは、陛下と呼ばれることをひどく嫌がる。それはお父様のことだと言って怒るのだ。だからみんな以前のまま、姫様やリミカ様とお呼びしている。

 ——それは、皇帝の座に即位していると、彼女が自覚していないことをも意味している。

 

「——失礼いたしました。姫様に、ご挨拶申し上げたく参りました。六年間、輝かしい時間を過ごさせていただきましたこと、心より感謝いたしております」

「……」

 

 リミカは出てこない。ドルトイはそれをわかっていて、最後となる臣下の礼をした。

 

「ジグ、君にも世話になった。五年間、ありがとう」

「私のほうこそ、多くのことをご教授いただきました。感謝申し上げます、ドルトイ様」

「イルゴのことも、よろしく頼むよ」

「……イルゴ殿とは、今は……ほとんどお会いすることがございません」

 

 イルゴは自分の父親の屋敷に帰っている。毎日城に来ていること、皇家の墓所を訪れていることは、警備の騎士から聞いている。

 ジグと会うことがないのは、イルゴがリミカにさえ顔を見せないからだ。

 

「そうか。だが……あいつならきっと、そろそろ復帰するだろう。髪も切ると言っていたからな」

「……?」

 

 意味がわからなかったが、ドルトイがイルゴに会って話をしたらしいことは察しがついた。彼がこう言うなら、イルゴは戻ってくるかもしれない。

 ドルトイがリミカの侍女とも別れの挨拶をしていると、ジグの背中からリミカが半分だけ顔を出した。手はしっかりジグの服を掴んでいるが、じっとドルトイを観察している。

 彼は、リミカの大好きな父親と、一番長く時間を共有したであろう人物だ。リミカもドルトイと多くの時間を過ごした。八歳の彼女にとっては、人生のほとんどの時において関わりのあった人物だ。

 

「ドルトイ……」

 

 リミカはジグの服を離し、前に進み出た。ドルトイはうれしそうに微笑んで、地に膝をついた。

 

「姫様……お顔をお見せくださって、うれしゅうございます」

「ドルトイ、どこかへ行ってしまうの?」

「はい。領地へ帰ります」

「……みんな、いなくなっちゃう」

 

 リミカは、きゅっと口を結んだ。寂しさを堪えているようだ。家族と、家族に仕えていた人たちで、今近くにいるのはジグ一人だけだ。彼女の周りは、あまりにも急激に、激しく変わってしまった。

 リミカは自分より低い位置に来た、ドルトイの頬に手をやった。皮膚の色が濃く変わってしまっている、火傷のひどかったところだ。

 

「……痛そう」

「見苦しい色をしていますが、痛くはありませんよ。もうすべて治っていますから」

「うん、良かった。元気でいてね、ドルトイ」

「ありがとうございます……姫様」

 

 ドルトイの目に涙が浮かんだように見えた。

 立ち上がった彼の手を、リミカが握った。見送りを許されるところまで、一緒に行こうとしているのだ。

 

「……ドルトイ? 手のひらに、何かあるわ」

 

 リミカが繋いでいない左の手を使って、ドルトイの手のひらをなぞった。拇指球のあたりで、何か小さく固いものが当たる。

 

「それは……ガラス片です」

「ガラス? 痛くないの?」

 

 リミカは少し怖くなって左手を引っ込め、そばにいた侍女の制服を掴んだ。

 

「大丈夫ですよ。触られても痛みは感じませんから」

「ガラス片が入ってしまっているのですか」

 

 ドレスを掴まれた侍女が、リミカの背中を撫でてやりながら聞いた。

 

「ええ、火傷を負った時に。皮膚が……普通の状態ではなかったので、入ってしまったことに気づかなかったのです。癒着して、取り出せなくなってしまいました」

 

 特に不都合はないのでそのままにしている、とドルトイは肩を少し持ち上げた。

 それを聞いていたジグは、不思議に思った。前職は城の警備である彼は、実際に海の塔で見張りの業務をしたこともある。あの塔の地上階には、釜戸以外特に何もない。窓もないのだ。

 他の人間なら、それほど気にする内容ではなかったかもしれない。しかしジグはこの質問をした。

 

「何かガラスの物があったのですか」

「ああ。茶葉の瓶が」

 

 ドルトイは、ごく普通の表情で答えた。

 

「事故の時、ちょうど皇后陛下の茶葉が入った瓶を持っていたのでね。瞬間のことは思い出せないのだが、それが割れたようだ。実際、私の服は茶葉まみれだった」

「皇后陛下の……茶葉……」

 

 ジグの中で、何かがひどく引っかかった。

 

 あの日。あの方を喪う前日。見たことのない形相で抜き身の剣を握っていた主を、やむなく取り押さえた、あの直前……

 リューベルトは、本気で叫んでいた。

 

「私は見たんだ、あれは毒殺だった」と——

 

 

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