十、伯爵令嬢三人
ベネレスト帝時代のような世に巻き戻るとしたら、国境は危険が増すのではないかと思っていた。
ディーゼン帝逝去からおよそ四ヶ月が過ぎて、実際にはルイガンら旧派は、国土拡大の再開に向けた準備をしている様子はない。なぜ政策転換を宣言、実行しないのか、ティノーラにはわからない。でも表面上は、この国には静かな時間が流れている。
隣国から見れば、五年間も不動だった国が、今度は小さな女の子を皇帝に担ぎ上げたのだ。もはやフェデルマに牙はないとでも思われたのかもしれない。国を挙げて領土を奪いにかかる、格好の機会に見えても無理はなかった。
セームダルの新王は、まだ国内を掌握しきれていないと聞いた。即位直後の牽制をやめてからは防御に徹しており、今回は動いていない。突然訪れたこの好機を素早く掴む器もないようだ。
それとは逆にザディーノは、今こそ宿敵を攻略すべく、動き出したのだ。
まともに眠れなかったティノーラは、少しぼんやりとしていた。
「お嬢様。昨日のお手紙への返答は、いかがなさいますか」
窓から外を眺めているティノーラに、レマが問いかけた。手には、イーリオ・キュベリーから届いた手紙がある。
「ああ……そうね。明日に……しようかしら。明日お伺いしますと、返事を書くわ。その予定でいてね」
「承知しました」
いつもならすぐに、キュベリー家へ行く。でも今日は、監視の前で上手く振る舞える自信がなかった。
昼になっても、ティノーラは窓から通りを眺め続けていた。行き交う一人ひとりを、馬車の窓から覗く人影まで、ずっと休まずに目で追っていたが、見たかった姿は現れなかった。
——やっぱり、ここを通ってくれなかったのね、シンザ……
そんな予感はしていた。
確かに外へ向かうのにこの通りを選ぶと、かなり遠回りになる。でもシンザは、遠回りを億劫に思ってのことではないだろう。前を通っても顔を合わせることもできないから、昨日の別れを最後にしたのだ。
こうなるとわかっていたのに、ティノーラは彼の姿を探してしまった。
——何よ、もう。女心がわからないんだから……
それなのに、剣を持って対峙する相手のことは、目線ひとつからでも心理を読み取って、裏をかけるというのだから、不思議な男である。
ティノーラは東の天を仰いで頬杖をついた。
もうセスと一緒に街道を走っているのだろう。ティノーラがここでふさぎ込んでいても何にもならない。
キュベリー家へ行くことはやめておくが、自分も何かしなければいけないという思いには駆り立てられる。
「……訓練場へ、行こうかしら」
思いついたのは、昨夜シンザと話したターシャ・イェルムのことだった。
場内に入る前に、ガゼボに細い人影を見つけた。うつむき加減の華奢な背中。リューベルトのような輝きを放たない、金色の髪。
「ごきげんよう。またお目にかかれてうれしいです。ターシャ様」
「……ティノーラ様……ご、ごきげんよう……」
「本当に本がお好きなのですね」
ターシャの膝には分厚い本が乗っていた。ちらりと見えた紙面に、ティノーラは面食らった。本は本でも、物語の類ではなく、学問の本のようだったのだ。
「ここで、お勉強なさっていたのですか」
驚くと同時に、それは悪いことをしてしまったとも思った。読書を中断させるのも迷惑かとは思ったが、勉強の邪魔はもっと悪い気がした。
ターシャは恥ずかしそうに本を閉じると、両手で抱えて立ち上がった。
「いいえ……勉強と言えるほどのことではないのです。おっしゃる通り、私は本がとても好きで……でも、読む本がなくなってしまって……」
「そ、それで、その本を……?」
ほんの少ししか見えなかったが、難しそうな本だった。教育用というより、本格的な学術書に見えた。
「これは、地質学の入門書です」
「地質学、ですか……おもしろいのですか?」
「まだ半分ほどですが……興味深いです」
「ターシャ様は、お勉強もお好きなのですね。きっと私には、読み終わることも難しいです」
ティノーラも貴族の娘としてしっかりと知識を深め、教養を培ってきたが、どちらかというと体を動かすほうが好きだった。
ターシャはますます恥ずかしそうに本をぎゅっと抱き、細い首を縮こめた。
「そんな、私なんて……。馬術がお上手なティノーラ様のほうが、ずっと素敵です……」
「馬術にも興味はおありなのですか?」
ターシャはすぐには答えず、訓練場に目をやった。貴族の男性を乗せて、優雅に駆け回る鹿毛の馬を見ているようだった。そしてふるふると首を振り、一昨日と同じ言葉を繰り返した。
「私に……できるはずがありませんから……」
ティノーラには彼女のその言葉が引っかかって仕方がなかった。やりたいけれど諦めている、と聞こえてならないのだ。
「もしよろしければ、私と二人で乗ってみませんか。ドレスをお召しのままでも、横向きに座っていただければ乗れるのですよ」
「えっ。で、でも、そんな——」
「手綱は私が取ります。ゆっくり歩かせますから、怖くなんてありませんよ。ぜひ一度だけでも体験なさってみてください」
ティノーラは、まるで舞踏会に誘う紳士のように、ターシャに手のひらを差し出した。戸惑うターシャは、その手と柵の向こうを見比べている。今にも、でもやはり私には、と言い出しそうに唇が開きかけたが、強く抱きしめていた本から、右手がほんの少し離れた。それは、彼女の表層意識とは別に動いているように見えた。
ティノーラはさっとその手を取って、にこりと笑った。
「やってみましょう! ほんの少しでいいですから」
やや強引だと承知の上で、ターシャを訓練場内へと案内した。こうしなければ、彼女はすべてを遠慮して断ってしまう。ティノーラにはそう感じられたのだ。
二人乗り用の鞍は、小さな子どもとその親が乗るためのものしか用意がなかったが、なんとかそれで事足りる。
馬に触れるのも初めてだというターシャは、緊張しきりだった。このまま乗ると、彼女の緊張が馬に伝わって怯えさせてしまう。ティノーラはまず、自分が馬の鼻を撫でてみせた。
おとなしくしている馬の様子を見ているうちに、ターシャも少しずつ慣れ始めた。強ばっていた表情も次第にほぐれてきた。
ターシャの緊張が期待に変わったと感じたティノーラは、彼女の手を取って、ともに馬の頬を撫でた。
「……温かい……」
ターシャが、ふわりと顔をほころばせた。場外にいる彼女の存在に気がついてから、笑顔といえる表情を見たのは、これが初めてだろう。
「ターシャ様よ。よろしくね」
ティノーラがターシャを馬に紹介してみせると、彼女は、よろしくお願いします、と生真面目に挨拶をしていた。
先にターシャを横座りさせ、その後ろに騎士服のティノーラが跨って座り、手綱を掴んだ。
「わあ……高い……」
ターシャが小さく呟く。けれどそれは怯えた声ではなく、楽しそうな子どもの声に似ていた。
「歩かせます。揺れますよ」
ティノーラがあぶみに掛けた足の踵を馬の横腹に当てると、馬が前へ進み始めた。訓練場の一番外側を、柵に沿って、ゆっくりと。
鞍に付いている、子どもが握るための取っ手を、ターシャはぎゅうっと掴んでいた。生まれて初めて体験する揺れに、どうにか対処しようとがんばっている。
約束通り、ティノーラは馬の足を速めることはしなかった。子どもでも物足りない速度は、普通なら退屈しそうな散歩なのに、ターシャはこれだけでうれしそうだった。
初めて乗馬をした時のことなんて、ティノーラは覚えていない。何歳だったのかもよくわからない。それが普通の騎馬民族のこの国で、ターシャは今初めて馬に乗ったのだ。
「すごい……! 私が、馬に乗れるなんて……!」
艶のない髪をそよ風に揺らしながら、ターシャはティノーラを振り返った。頬を紅潮させ、弾けるような笑顔のターシャは、別人のようにかわいらしかった。
「ありがとうございます、ティノーラ様……! すごく、うれしいです……!」
この時までティノーラは知らなかった。ターシャはずっと伏し目がちだったので、まつ毛に隠れて暗い色に見えていた彼女の瞳は、とても明るい快晴の空の色だったのだ。
場内を何周か回ったあと、ティノーラとターシャはガゼボへ戻った。そこには待たせていたレマの他に、もう一人女性がいた。ユリアンネくらいの年齢だろうか。今まで二人で話していた様子だった。
彼女がターシャの侍女らしき女性だろうか。ティノーラは見たことがなかったのだから、ターシャの元へ来てもすぐに立ち去っていたのだろう。
「アイダ、来ていたの」
ターシャが彼女に駆け寄った。まだ興奮が収まらないターシャは、その足取りまでも軽やかだ。
「お嬢様、馬にお乗りになったのですね」
「そうなの……! とても楽しかったわ!」
ティノーラは少し拍子抜けした。この「侍女」は、主人たるターシャを蔑ろにしているのかと思っていたのだが、そんな雰囲気ではない。
「ティノーラ様、私の家庭教師だったアイダです。アイダ、この方はリエフ伯爵家のティノーラ様よ」
「はい、レマ様からも伺いました。ターシャ様にお優しくしていただき、まことに感謝いたしております」
深々と頭を下げるアイダは、ただの元家庭教師というより、まるで身内のようだった。ターシャを置いて帰ってしまう冷たさなど、少しも感じられない。
せっかく明るかった表情をふっと曇らせたターシャは、声をひそめてアイダを気遣った。
「アイダ、もう戻ったほうがいいわ……。あなたもちゃんと休まないと……」
「お嬢様、いつものことですが、私にそこまでお気遣いなど——」
「来てくれるだけで私はうれしいの。……だから、ここなら私は安全だから……」
ターシャはアイダに帰るよう強く促した。アイダは仕方なくティノーラとレマに挨拶をすると、いつも通りターシャを一人置いて屋敷へ帰っていった。
他家の内情に口出しするのは良くない。けれどこの異様にしか見えない状況に、ティノーラは目をつぶれなかった。
「ターシャ様。私はアイダ様のご都合を存じませんが、貴族のご令嬢がお一人で行動なさるのは、この街区内とはいえ、私でも心配になります」
失礼かもしれない。でもティノーラは、本当にターシャが心配なのだ。
ターシャは不思議なほど静かな瞳で、ティノーラを見つめ返していた。彼女がどう感じたのか読めなかったが、ふっとターシャの口元が微笑んだ。騎乗中見せた笑顔とはまったく違う、作りものの笑顔に見えた。
「ご心配くださって、ありがとうございます。でも私は……大丈夫です。貴族であるのも……今だけですから」
「今だけ?」
「私は、イェルムの……養女なのです。私が十五になったら……その縁組を解消するよう、届け出てあります。だから……私はもう、平民も同然なんです」
「え……?」
ターシャの話は、理解に時間がかかった。
「養子縁組を、解消……」
「はい……。私は、貴族の生活も、帝都も馴染めませんし……イェルムに所属していることが、きっと間違いなんです」
「所属って——」
叔父との血縁を、彼女は所属と言った。ターシャにとって、家族とはそういうものなのか。
「早く……以前通っていた修道院の生活に、戻りたいです……」
ターシャは置いてあった本を持ち上げた。偽りの笑顔を浮かべたまま。
リエフ邸に帰ると、レマがアイダとのやりとりを話してくれた。
ティノーラがターシャと相乗りをしていた時、ガゼボに現れたアイダは、本を残してターシャがいないことに動揺していたのだという。
「いつもここに座っておられるご令嬢をお捜しでしたら、今は私の主と一緒に中におられます」
レマが教えると、彼女は本当に驚いていた。ターシャがよく憧憬の眼差しを向けていた少女と、馬に二人乗りをして笑顔を咲かせていたのだから。
いつもすぐに立ち去る彼女は、込み上げるものを抑えきれない様子で、ターシャを見つめていた。その横顔に、レマは自分の思い違いを悟った。
ティノーラと自分の名を明かしたレマに、アイダは話をし始めた。
ターシャは赤子の時にセルギの養女になってから、幼い頃は乳母、その後は家庭教師のアイダに育てられた。生活や医師の手配は、領地管理人が事務的に面倒を見ていた。体が虚弱であったため、この国では誰でも心得くらいはある、剣術や馬術の訓練は見送られた。
勉強と読書だけに時間を費やしたターシャは、ニ年前に履修すべきものをすべて終えた。外に出ないため友人もできない彼女は、その頃新しく建設された、修道院の中の孤児院に関心を寄せた。教師不足で手伝うことになったアイダに頼み、自分も読み書きなどを教えに行くようになると、孤児たちに慕われるようになった。初めて人から必要とされる経験に、満たされている笑顔を見せていた。
その生活を奪ったのが、帝都に住むことを強要した、あの御触れだ。
侍女も付けられていないターシャが、ひとりぼっちで初めての帝都へ行くことが、アイダは心配で仕方がなかった。伯爵家にお伺いを立て、ちょうど欠けたメイドの代わりとしてなら雇ってもらえることになり、一緒に帝都へやって来たのだ。
「それほど明け透けに、お話しになったの?」
ティノーラは驚いた。メイドとしては、主の家庭内の話を他人にするなんて、相当な規律違反だ。
「ターシャ様の笑顔を取り戻されたお嬢様に、頼りたい気持ちだったのだと思います」
初めて同じ屋根の下で暮らす、公式書類上だけの家族からはまったく歓迎されず、ターシャは下を向いてばかりで言葉も少なくなっていった。彼らの目障りにならないようにと、一日中外で過ごすようになった。
アイダは側付きではなくメイドなので、休憩時間に様子を見にやってくることしかできなかったのだ。
「成人と同時に、養子縁組解消が決まっている立場なんて……お屋敷の中で居心地いいわけないじゃない」
「イェルム伯爵としては、子どもを放り出すわけにはいきませんから、ただ成人まで待っているだけなのでしょう」
初めから娘だとは思っていないということか。ターシャが修道院に戻りたいと言ったのも、無理もないことに感じた。
「ねえ、リーガ。あんなところに一日中おられるなんて、あまりにもお気の毒なの。この館へお連れしてもいいと思う?」
「大丈夫だと思いますよ。届け出が公式に受理されているのなら、貴族社会もターシャ様をイェルム伯爵家の一員とは見なしません。リエフ家と関わっても、誰も気に留めないでしょう」
「そうね。城の茶会も欠席していたくらいだものね。じゃあ折を見て、エレリアたちにも紹介してしまおうかしら」
エレリアも読書家だし、ターシャは孤児院で教師を買って出ていたとのことだから、ウィルドたちとも仲良くなれるような気がする。
ただの思いつきだったが、良い案だと思えた。
キュベリー家へ行く日以外は、ティノーラは訓練場へ通うようになった。
ターシャは馬に触れることが好きになったようなので、二人乗りだけでなく、ティノーラが引く馬に一人で乗ってもらったり、ブラッシングのしかたを教えたりもした。
何度かそうして過ごしてから、私の家に来ませんかと誘った。
最初は、とんでもないですと遠慮したターシャだったが、私も友人がいないのでお茶の相手をしてほしい、とティノーラが頼む作戦に出ると、リエフ家に来てくれるようになった。
「何もお返しできるものがなくて……申し訳ありません……」
「いくらリエフ家が貧乏伯爵家でも、お茶をお出ししたくらいで傾きませんよ」
「ご、ごめんなさい、そんなつもりでは……」
慌てるターシャに、ティノーラは屈託なく笑った。
「冗談です、ごめんなさい。提案なのですけれど、せっかく同い年なのですし、敬語もやめませんか? 私は貴族らしいお付き合いに慣れていないので」
「は、はい……。私は貴族のお付き合いをしたことがないので、そうしてくださるのは……うれしいです」
そう言ったターシャだったが、丁寧な口調はその後もあまり直らなかった。アイダ以外の人間相手だと誰でもこの調子なのかもしれない。でも初めはおどおどとしていたターシャが、今ではティノーラと自然に呼び、笑ってくれるようになったのだから、少しも気にならなくなった。
ターシャのお茶の作法はきれいだった。本人は自信がないと言うが、きちんと正しく身についている。これもアイダが教えてくれたのだという。
これほど礼儀作法も熟知しているアイダが、規範を犯してレマに助けを求めたくらいなのだ。イェルム家でどれだけ孤独なのかと、つい考えてしまう。ターシャが帰る時間になると、ティノーラのほうが胸がふさがる思いになった。
そんな気持ちを、ティノーラはエレリアに相談した。ターシャの名前を監視に聞かれても、もう気にしないことにした。
エレリアのイェルム家に関する知識は、だいたいシンザと同じだった。
「ティノーラの気持ちはわかるけれど……家庭内のことに部外者が干渉すれば、家から家への抗議になってしまうかもしれないわ」
「ええ、私でもわかってはいるの……。それに、ターシャがそんなことを望んでいないこともね」
ティノーラは深くため息をついた。
「今日はどうなさっているの? ターシャ様はお一人で過ごされているのかしら」
「訓練場脇にいるはずよ。実はね、もしよければ、これからエレリアにも来てもらえたらと思っているの」
「わたくしはもちろん構わないわ。ターシャ様こそ、お困りにならないかしら」
「困らないと思うのよね。将来社交界デビューもしないんだから」
ティノーラは監視役に、エレリアを外出させて良いか尋ねた。
「私はキュベリー家の方の動向を確認しているだけです。行動に制限はかけておりませんよ」
監視することで他者との接触をさせないようにしているのに、彼は白々しくそう言った。
いつも通りガゼボにいたターシャは、今日は来ないはずのティノーラに気がつき、不思議そうに顔を上げた。隣にいるエレリアを見つけると、少しの動揺と緊張をのぞかせた。
ティノーラの仲介で、エレリアとターシャは挨拶を交わした。監視役の男のことも簡単に説明した。
宰相だったキュベリーの名はターシャも知っていたが、「罪」や降格については、耳に入っていなかったようだ。
「エレリアにも色々と事情はあるのだけれど……別に何も思惑はないのよ。この帝都に友人がいない者同士、仲良くなれたらと思っているだけなの。一人の時間が多すぎると、飽き飽きしてしまうでしょう?」
「はい、あの……私なんかでよろしければ……」
ターシャはほんのりと頬を赤らめた。何もしていなくても華やかなエレリアのことを、物語の中のお姫様みたいだと思っていたのだ。
「よろしくお願いしますわ。今度はぜひ弟たちも紹介させて——」
その時突如として、全身がビリビリするよう音が鳴り響き、エレリアの鈴を振るような声は、途中でかき消されてしまった。
城の鐘塔にあるふたつの鐘が、都中に響く音量で打ち鳴らされたのだ。それは繰り返し続いている。日に三回鳴る時報の鐘なら、一度しか打たれない。それとは明らかに違っていた。
突然都を包んだ荘厳な鐘の音の意味を、ティノーラは知り得ない。でもエレリアにはこれが何か、想像がついているように見えた。
通りにいた人々が、急に同じ方向へ向かって歩き出した。鐘の音に泣き出した赤子や、やや怯え顔の子どもを抱えて。
何度も何度も打ち鳴らされたのち、遠い空まで余韻を残して、ふたつの鐘の音は止んだ。
「早く行きましょう」
珍しく監視の男から声をかけてきた。すでに周囲の人々と同じ方向へ足が動き始めていて、いつの間にか距離が開いている。
ティノーラはすぐには従わなかった。
「あちらで何かあるのですか」
「帝国騎士団の出陣ですよ。ザディーノが相当の規模でグレッド領に攻めてくるそうです」
さっとティノーラの表情が変わった。
「は、始まるの……ですか。ついに……」
監視は一瞬訝しげな表情をしたが、すぐに納得したようだった。
「ああ、リエフは国境領でしたね。情報を聞いていましたか」
ひどく動揺してしまっているティノーラを、エレリアは支える振りをして監視から隠した。今のティノーラでは危ないと思ったのだ。グレッド家との親しさを露呈してしまうかもしれない。
「——やはり今のは、壮行の鐘でしたのね」
「エレリア嬢は、聞いたことがありましたか」
「小さな頃に数回だけ……ですけれど」
帝都で暮らすことの多かったエレリアは、ベネレスト帝時代に帝国騎士団の出軍を目にしたことがあったのだ。その時にあの鐘を聞いていた。それから整列した騎士団の行進を、街中が見送るところも。
「ティノーラ、ターシャ様……行きましょう。騎士団の皆様が、国を守るために戦ってくださるのですから」
「い、戦が……起こるのですか」
本当に何も知らないターシャは、今にも震え出しそうに両手を握っている。一方のティノーラは、まだ顔色を失っていた。
「しっかりして、ティノーラ」
エレリアはティノーラの耳元で強く囁いた。ティノーラがはっとして我に返った時には、エレリアは自然な様子でターシャに手を差し伸べに動いていた。ティノーラもそれに続くようにして、監視に背を向けた。
いけない。グレッド家のことを家族のように案じている顔なんて、見られてはだめだ。
急ぎ足で進んでいく監視の後ろをついて、一番大きな中央通りの沿道に並ぶ人だかりに加わった。通りに近い家では、バルコニーから帝国旗を振っている人もいる。
街区を区切る壁の大門はすでに開かれていた。
やがておびただしい数の馬の蹄の音が、上級貴族の街区から下りてくると、周囲から歓声が上がる。
「頼んだぞ!」
「ザディーノなど、叩きのめしてくれ!」
「フェデルマに栄光あれ!」
今回は帝国騎士団第三隊が出陣するのだという。勇ましい彼らの行進は、どの街区でも割れんばかりの拍手と、激励の言葉で送り出されていった。
シンザが城へ上がった日からは、七日ほど経っていた。ダイルからの報告と派兵要請を検討し、今日ついに騎士団が出立となったのだ。
それは、本当に大きな戦となる予測が、現実になったということ。
ティノーラも拍手をして、グレッド家がいる戦場へ向かう彼らを見送った。
第三章 終




