ニ、記憶の断片
少女が泣いている声がする。
懐かしい声だな、リューベルトはついそう思った。以前はよく彼女を泣かせてしまった。
いつだってそんなつもりはなかったのだが、リューベルトについて来られない彼女は、しゃがみ込んでいじけてしまったものだった。置いて行かないで、と泣いてしまうのだ。
それもずいぶん前のことだと思う。ちゃんと気をつけて合わせるようにしたから、もうずっと、彼女を泣かせるようなことをした覚えはないのに。自分は一体、何をしてしまったのだったか――
「どうした、リミカ……」
リューベルトの声は、ガサガサに枯れていた。何を言ったか、自分にも聞き取れないくらいだった。
「……起きたの? お兄様、起きたの!?」
耳元で少女が叫ぶ。リューベルトの耳はキンとし、頭が痛い。
「姫様、大声はお控えくださいませ」
妹の侍女の咎めるような声がする。どうしたのか、いつもしゃんとしている彼女の声も、少し震えているような気がする。
「でもっ、だって、お兄様が起きたんだもの」
駄々をこねるリミカは寝台に上がって、リューベルトの顔をのぞき込んできた。ボサボサに乱れた麦色の髪先が、リューベルトの額や顎にかかる。
うまく焦点が合わないが、青色の瞳を濡らした泣き顔なのがわかる。まったく身に覚えはないけれど、自分が泣かせたのだろうか。
「ごめ、ん……な。リミカ……」
声がまともに出ない。妹の頭を撫でようとしたのに、腕を動かしたつもりなのに、できていない。
いや、そもそも、なぜ妹にのぞき込まれているのだろう。
ここは、どこだ。
自分はどうしていたのか。
ひどく体が重い気がする。頭も痛い。
記憶を辿ろうとするリューベルトの腕に、誰かが触った。リミカとは反対側にも人がいた。
「失礼いたします、殿下。脈を診させていただきます」
——脈を……? なぜ?
いいや、それより……
考えなければいけないと思った。
しかしリューベルトの意識は再び、暗い水底に沈みゆく石のように、落ちて行った。
次に目覚めた時には、リミカはいなかった。
寝台の周りにいたのは、リューベルトの侍従と近衛と、以前から皇家の人間を診てきた医師だった。
「リミカは……?」
「……殿下! ああ、良かった……!」
侍従のイルゴは、ホッとしたような、それでいてまだ張り詰めているような声をもらした。
リューベルトは、先ほどよりは頭がはっきりしていると感じた。声も出せる。膜がかかったようにぼやけていた視界も、立っている人の表情まで見て取れるようになった。
上には見慣れない天蓋がある。ここはリューベルトの私室ではない。城内の客室かどこかか。
イルゴはリューベルトを気遣いながらも、なんだか辛そうな顔をしている。
「姫様は、眠ってしまわれたので、お部屋にお連れいたしました」
「そうか……。なんで、私のところにいたんだ……? 泣いていたような気もするが……」
「……大丈夫です。あのあと、泣き止んでくださいましたから」
「私は、この部屋で眠っていたのか……?」
「まだしばらくはお休みください。お水をお持ちいたしましょう」
イルゴは部屋を出て行った。彼の返答は何となく、ずれていた。はぐらかされたような。
起き上がろうとしたリューベルトを押し留めて、侍医はひと通り診察した。
その時リューベルトは初めて、自分が傷だらけなのを知った。いくつも包帯を巻かれ、細かな擦り傷や裂傷は無数にある。
「私は……どうしたんだ?」
「……」
「なぜ答えない」
「--殿下、よろしいですか」
侍医は答えず、戻って来たイルゴが口を挟んだ。
「キュベリー卿とエレリア様が、可能ならばお目通り願いたいとおっしゃっております。ご無理は禁物ですが……どうなさいますか」
「ああ、わかった。このままで良ければと伝えてくれ。でもその前に、私に状況の説明を――」
リューベルトが言い終えるのを待たず、侍医は一礼すると、足早に部屋を出て行った。イルゴも、では、と言ってキュベリー侯爵の元へ行ってしまった。
リューベルトは残った近衛騎士のジグを見やったが、もともと無口な彼は何も話しそうにない。
身体を起こしたリューベルトは、少し目眩を覚えた。まだ頭は重い。それから傷を観察した。包帯に触れると、その下の傷は多少深いのか、痛んだ。
——なんだ、これは……
火傷もあった。それも、たくさん。手のひらにも。
それを見つけた途端、動悸がした。
改めて記憶を探った。考えながら……なぜだろう、無性に考えるのをやめたくなった。
それはきっと、予感だったのだ。まだ今は思い出すのをやめたほうがいい――
「……父上と……母上は……」
震える声で、リューベルトが呟いた。それを耳にしたジグは主を見た。目が合った。
「父上と母上は? ……教えてくれ、ジグ」
「私は答える立場にございません」
「何がだ? 何を答えられない? どこにいるのかと聞いているだけじゃないか」
「殿下、お身体に障ります。もうすぐキュベリー卿もいらっしゃいますから」
「そんなことは聞いていないだろう! キュベリーじゃない! 私の父上と母上はどうしたのかと聞いているんだ!」
リューベルトは、どちらかといえば穏やかな性格である。従者に怒鳴ったことなどない。まして癇癪を起こすなど、それこそ幼子の頃しかなかったのではないだろうか。
口を結ぶジグに、リューベルトは腹が立ってたまらなかった。なぜか恐ろしくて、苛立ちが抑えられない。
掛布をはねのけて大きな寝台を飛び出したが、着地することができなかった。膝ががくりと折れてしまい、咄嗟に身体を支えようとした腕も力が入らず、床に顔まで打って無様に転倒した。思わず歯の間から呻き声がもれた。
「殿下! いけません! 骨にも異常があるかもしれないのです!」
ジグの大きな声など、初めて聞いたかもしれない。
彼は伯爵家の三男で、長くリューベルトの近衛をしている。愚直に責務を果たし続ける忠義者だった。口数が少ない上に表情も乏しいので、誤解する者もいるようだが、皇家は彼の好ましい人柄と腕を買って、リューベルトの近衛騎士に任命した。
そのジグが、追い詰められたような表情で立っている。床に這いつくばるリューベルトに、寄るなと言われた彼の両手は、助けたいのに触れ難そうに空中を掴んでいる。
リューベルトは寝台に手をかけて立ち上がった。全身のあちこちが痛むがなんとか立てる。ふらふらと足を動かす彼に、ジグが耐え切れずに手を貸した。
「やめろ、いらない。一人で行かれる」
「……リューベルト殿下……陛下は……」
ぎくりとして、リューベルトはジグを跳ね除けた。
「もういいんだ! 一人で行く!」
怒鳴り散らして訊ねておいて、聞きたくない。ジグの支えを失った身体は、再び転倒してしまった。
「殿下! いかがなさいました!?」
リューベルトの怒声は部屋の外までもれていた。事態を察したイルゴは、ノックを省略して入って来た。アダン・キュベリー侯爵と、娘のエレリアも一緒だった。
「いけません、お戻りを!」
「黙れ! 何なんだ、何を隠している!?」
「違います、……隠しているわけでは――」
イルゴが口ごもる。
「私が父上たちのところへ行って、何が悪いんだ。何か問題があるのか? 言ってみろ!」
「リューベルト殿下」
イルゴの代わりに、アダンが進み出た。
一人で立つこともできずに当たり散らす、威厳も何もない幼稚な子どもの姿の皇太子に向かって、彼は片膝と拳を下に突く正式な臣下の礼をした。
「お話しいたしますので、今はお身体のために、どうか寝台へお戻りください」
構わずアダンにも怒りをぶつけようとしたが、その肩の向こうで硬直するエレリアの姿が、初めてはっきりとリューベルトの目に入った。彼女の表情は怯えているように見えた。そして泣き腫らした目をしていた。それがリミカの顔と重なった。
妹だけでなく、エレリアまで泣かせていたのか――
罪悪感、後悔、恥ずかしさ。
急にそんなものに襲われ、リューベルトの唇は開いたまま動かなくなった。エレリアの顔を見ていられなくなり、床に爪を立てている手元に目を落とした。
おとなしくなった彼を、ジグが寝台に戻した。
「……私は、夢を見たんだ。嫌な夢だ。……とても、耐え難い夢だった」
アダンは内心で、言葉を探していた。彼はイルゴから、リューベルトは記憶を失くしているかもしれないと聞いていたのだが、どうやらそうではない。
肉体的にも弱っている少年に、どう説明すべきか。最適が見つけられずにいた。
「両陛下はご崩御なさいました」
揺るぎのない声が、開いたままだった扉から入って来た。茶色い髪を短く揃えた、アダンよりずっと若い男がそこにいた。
リューベルトのわめき声は、アダンとともに二公と呼ばれるもう一人の宰相、ロニー・ルイガン侯爵をも引き寄せていたようだ。
「今は国難に等しき事態……ご無礼を承知で申し上げます。殿下には、しっかりとお休みになり、ご回復に努めていただかなければ困ります。両陛下の国葬や、即位式が控えておられるのですから」
「ルイガン卿、何というおっしゃり方を――!」
「キュベリー卿、殿下にはご即位いただかなければならないのです。まだ未成年であられる、まだ傷付いておられるのに、などと先延ばしにしている余裕はありません」
「しかし……昨日の今日で――」
「帝都の民は揺らいでおります。他の町にもすぐに波及するでしょう。それが周辺諸国に伝わり、ザディーノあたりが攻めてきたら、いかがなさるおつもりか」
アダンは厳しい顔でロニーを睨んだ。
しかし、ロニーの言うことは正しい。フェデルマ帝国のあるこの北大陸は、ずっと戦乱状態だ。時に攻め込み、時に攻め込まれ、どの国も国境の線を書き換え続けている。国家が滅ぶところも、新しく生まれるところも見てきた。
皇帝の突然の崩御が他国へ知れ渡る前に、国内の動揺を収め、立て直さなくてはならない。それには皇太子リューベルトの即位が必要だ。
「殿下、準備はすべて私どもが進めますゆえ、お一人でお立ちになれるくらいには、ご回復をお願いいたします。そうでなければ、民の前にお姿をお見せするのは、むしろ逆効果になりましょう。--それから、エレリア嬢」
不安そうに胸の前で両手を握りしめていたエレリアは、急にロニーに顔を向けられ、びくっとした。
「あなた様もです。もうご成人までお待ちすることはできません。国家安泰のため、しっかりとお心をお決めください」
呆然とするエレリアの反応を待たず、ロニーはそれぞれに礼をして去って行った。
アダンはリューベルトに、説明しなければならないと思ってここへ来た。しかし、傷の上から容赦なく事実を叩きつけられてしまった彼に、今から何を言えば良いのだろう。
「私が……即位する?」
リューベルトは自分の手の包帯に目をやったが、本当にそこを見ているのかわからない目をしている。
「……海の塔が……燃えていた……」
リューベルトは呟いた。
誰も彼もが、その姿を見つめることしかできなかった。
「父上と、母上は……」
リューベルトの中には、炎の記憶が、そこで見たものが確かに残っていた。
彼が塔に辿り着いた時には……まだ部屋には、炎も煙も、それほど届いてはいなかった。でも、すでに二人とも床に倒れていた。まぶたが閉じていなくて……唇や爪が変色して。
「……あれ……は」
きっと原因は、煙ではなくて。
煙が入ってきたのはそのすぐあとで。
入ってきてからは、炎も瞬く間に広がって。
熱くて、痛くて、苦しくて……辛かった。
見つめていた手に、両親の腕を掴んだ感触が蘇る。
バルコニーの手前。
最後となった父。そして……母。
「うあああああ!」
リューベルトが頭を抱え、絶叫した。
そして意識は再び暗闇の底へと引きずり込まれ、彼の名を叫ぶイルゴやアダンの声も……もう何も聞こえなかった。