九、遠く離れて
エレリアに接近する作戦のため、ティノーラは今まで実際に、母や兄と一度も連絡を取らずにいた。だから成果や帝都での生活について報告をするのは、シンザとセスが初めてになる。
やはり最初に伝えたいのは、リューベルトの手紙をエレリアに渡せたことだ。それからついさっき、また屋敷に招いてもらえたので、信じてもらえたみたいだと、さらにうれしい話を付け足すことができた。
セスもほっとした様子だったが、シンザはリューベルトが待ち望む話を持ち帰れると、心底喜んでいた。一番多く同じ時間を過ごすシンザは、生きていることをエレリアに知ってほしいという、ただそれだけのリューベルトの小さな願いが、どれだけ強い願いなのか、よく知っていたのだ。
「すごいな、ティノーラ。俺たちには、きっとできないことだった」
「そうね、グレッド家の方々には無理でしょうね。落ちぶれているリエフ家の私ならではよ」
ティノーラは、ふふんっと鼻を高くする。
「だから、どんどん私を利用して。監視の隙は多くはないから、エレリアとは少しずつしか話せないけれど、正確に仲介をしてみせるわ」
それはグレッド家とキュベリー家のためでもあるが、ティノーラはもうエレリアのことが好きなのだ。離れて過ごすしかないリューベルトといつか、できるだけ早く会わせてあげたいと、今では誰よりも思っている。
それから、城の茶会の際に見かけた、仔犬を追っていた少女について確かめた。リーガに少女の特徴を教えて、リューベルトに伝えてもらったはずだが、本当に妹君だったのだろうか。
「犬についてはわからないとのことだけど、裏庭で遊んでいる女の子は他にいないはずだと、殿下はおっしゃっていたよ」
「じゃあやっぱり、リミカ殿下だったのね」
「もしかしたら閉じ込められておられるのではと、殿下は心配なさっていたんだ。お元気ではいらっしゃると知って、少し安心されていた」
シンザとセスからも近況を聞いた。ユリアンネやノルドレンも含めてみんな変わりなく、ダイルの容態も安定しているそうだ。まだ三ヶ月も経っていないというのに、話を聞いていると懐かしさがこみ上げる。エリガに帰りたいと、危うく願ってしまいそうになった。
ティノーラの役目は、エレリアと情報を共有すること。エレリアから領地のアダンに伝えられるかは難しいが、まずはこれが第一歩になる。
どうやら監視にもティノーラは相手にされていないので、これからはノルドレン宛に手紙を送ることにした。万が一検閲されても取り繕える文章にして、報告し合うことを確認した。
あらかた重要な話が済んだあと、実は情報通な侯爵の息子であるシンザに、ティノーラは聞いてみたくなった。
「ところでシンザ……イェルム伯爵家について、何か知ってる?」
「イェルム……リエフの西の?」
「そう。ターシャ様という方が、少し気になって」
「ターシャ嬢は確か、ティノーラと同じ年の生まれだ。仲良くなったのか?」
「いいえ。私は話をしたかったのだけれど」
ティノーラは昨日の出来事を、シンザに話した。考え過ぎやお節介かもしれないが、あんな様子のターシャのことが放っておけなかった。
短い話を聞いていたシンザは、うーんと小さく唸った。やはり、ティノーラの立場で関わるべきではないと、シンザも考えているのだろうか。
「……イェルム家の当主は、ターシャ嬢の叔父のセルギ・イェルム伯爵だ」
シンザは知っていることを教えてくれた。
セルギの兄でターシャの父親は、彼女が生まれる前後、帝国北部で起きた内乱に出征し、戦死している。母親も出産時に命を落とし、セルギの養女となったターシャ自身は、とても虚弱な身なのだそうだ。まったく人前に出ることはなく、男性であるシンザはもちろん、ヴィオナでさえ会ったことはないらしい。
セルギは中央政治に携わっているので帝都で暮らしているだろうが、ターシャが今までどこに暮らしていたのかは、正直なところわからない、とシンザは言った。
「御養父様が、帝都におられるの?」
ティノーラには意外に思えた。なんとなく、自分と同じように、一人で帝都に来ているのだと想像していた。養父とはいえ父親がそばにいながら、ターシャは一人で放っておかれているのか。それも身体が弱いというのに。
「セルギ・イェルムは、いわゆる中間派だ。ターシャ嬢とは、もし友人になったとしても……大事な話はしないほうがいい」
「うん……」
シンザの眉根が少し寄せられているように見え、ティノーラは小首を傾けた。
「シンザは、セルギ様のことをあまり好きじゃないみたいね」
「え、いや、そんな——」
そんなことはない、と言いかけたシンザは、それは無駄なことだとすぐに思い直した。シンザがつく嘘なんて、ティノーラには通じない。
「……まあ、あんまり好きな人物ではないな……。典型的な日和見主義だというし、夫人の言いなりで、自分の意見を持っていない男、と聞かされたらね」
セルギが結婚したのは、同じ伯爵位でも、格上の家の女性だった。必然的に、流されやすい性格のセルギよりも、夫人のほうが立場は強くなったのだろう。
実際に会ったこともないのに決めつけてはいけないが、ダイルの従者の観察眼は確かだ。重大な秘密を話して良い相手だとは思えなかった。
「セルギと夫人の間にも子どもがいたと思う。正確な年齢は忘れたけど、男児だったはずだ」
「跡目はいる、ということなのね」
女性でも爵位が継げるとはいえ、息子がいるなら息子が相続するのが一般的だ。ターシャは養女で身体が弱いとなれば、考えるまでもなく弟が次期当主候補になるだろう。その上その実母の夫人が、家庭内で夫より強いというのだから、まず間違いない。
なんとなく、ターシャの置かれている状況が見えてきたような気がした。
「他家のことに口出しするのは、感心できないことだぞ、ティノーラ」
考え込む様子を見せるティノーラに、シンザが軽く釘を刺した。
話し方や雰囲気はのんびりとして見えるティノーラだが、案外視野は広くて思慮深い面もあると、シンザは認めている。だからこそイェルム家についても話したのだが、ターシャに同情しすぎるのは少々危険だと考えていた。
「やだ、わかっているわよ。ただやっぱり、ターシャ様とはお話ししてみたいなと思っただけ。もちろん、お互いの家のことは関係なく、ね」
「それならいいと思うけど」
ティノーラは食後の紅茶に口をつけた。つられたように、シンザとセスもカップを持ち上げる。
途端に、沈黙が訪れた。三人とも黙ったのは、実際にはほんの短い時間だったが、なぜかティノーラは落ち着かない心地になり、ずいぶん長く感じた。
何だろうか。帝都に来る前、シンザと別れの挨拶をした時も、お互いに黙り込んだ瞬間があったが、あれとは違う感触だ。
セスがいるからではなくて……空気が重たいのだ。
カチャ、という控えめな食器の音が、妙に耳に響いた。
「——ねえ、二人はいつまで帝都にいるの?」
「いや……一泊だけだ。明日の午前には発つ」
「明日?」
なんて忙しない。数日かけてイゼルから帝都へ来たはずなのに、まる一日も滞在しないというのか。
「じゃあそろそろ……自分の屋敷へ行くよ。あっちでもいろいろと話があるから」
「シンザ様」
立ち上がるシンザに、セスが窘めるような声を上げた。彼は遠慮のない性格ではあるが、こんなに真面目な顔で主人を注意するのはさすがに珍しい。
その二人の態度は、ティノーラを不安を煽った。
「待ってよ、シンザ。まだ大事なことを話してくれてないわ」
つい語気が強くなった。なぜ話さないのかとずっと気になっていた。それがティノーラの嫌な予感をかき立てると、彼にはわからないのだろうか。
「ねえ、どうしてシンザが帝都に来たの? あなたには何よりも大事な役目があるのに。連絡ができなかった私に直接確認に来るだけなら、リエフの人間であるはずよね」
変装しなければここへ訪問できないシンザが、常に護衛するべきリューベルトを置いて、ただティノーラに会いに帝都へ来るなんてあり得ない。来なければならない用件を抱えているはずだ。
そしてそれはきっと、良い便りではない。
「私には話せないこと?」
「違いますよ」
険悪になりそうな空気を察し、セスが一度間に入った。彼はため息をついて主のほうを向いた。
「シンザ様。ティノーラ様に伝えにくいのはわかりますが、どうせ国中に知れ渡るんです。ここで隠したって、ティノーラ様の不興を買うだけですよ」
「国中に、って——」
最初にティノーラが思い浮かべたのは、リューベルトのことだった。でも彼のことを公表するはずはないだろう。
「……こうやって注意させるために、兄上はセスを連れて行けって言ったのかな」
シンザは席に座り直すこともなく、小さな苦笑をもらした。
彼は覚悟を決めるようにひと呼吸つくと、ティノーラの顔ではなく、テーブルをつく彼女の手元を見つめて、ごく短く告げた。
「戦になる」
「……えっ……」
ティノーラには、驚いた顔さえできていなかったと思う。身体の中心を、冷たくて重苦しいものが突き抜けたような気がした。
今までだって何度も、グレッド領は隣国から攻撃を受けている。国同士ではなく、血の気の多い貴族が手柄欲しさに、国境を越えてくるような小さな戦闘を含めたら、それこそしょっちゅうだ。そのたびに必ず追い返すのが、グレッド家だ。
リエフ領にも近いレグスの丘などで起きた時には、ユリアンネも騎士団を出陣させ、共闘してきた。
充分な実力を備えるシンザは、以前から戦場に出ている。今年成人したところだが、戦いの経験はすでに豊富だ。
そんな彼が、これほど伝えにくそうに言う、戦。
「……大きなものに、なるのね」
「ザディーノは、かなり大規模な戦闘準備をしてる」
「どこで起きるの」
「南のほう。エドリッツ領に近いところだ」
「……その報告をするために、城へ来たのね」
大規模な侵攻を受ける予兆があり、帝国騎士団の派兵要請をしにきた——彼はそう説明した。
これほど重大な用件であるから、遣いの者ではなく、侯爵の実子であるシンザが赴いてきたのだ。本来はガレフの役目かもしれないが、ダイルの身体のことがあるから、彼は次期侯爵として領地を離れるわけにはいかないのだろう。
「あなたたち二人も、出陣するの……?」
「もちろんするよ」
ティノーラの声は少し震えてしまったのに、シンザの顔は、いざ明かしてしまえば吹っ切れた、という表情になっていた。
「相手はザディーノだから、リエフ領やイゼルは大丈夫だ。エレリア様と話せる機会があったら、リューベルト殿下は安全だと伝えてくれ」
「……うん」
ティノーラは、うまく言葉が出なかった。
自分がこんな顔をしてはいけないと、シンザはこうなるのを嫌がっていたのだと、わかっているのに。
「もう、行くよ。ティノーラはティノーラにしかできないことを、頼む」
今度は、セスも黙って立ち上がった。
空には夕焼けの名残もなく、道に人影はほとんどなかった。
「元気で、ティノーラ。終わったら、きっとまたここへ来るよ」
「うん。二人も、元気で」
変装を解いたシンザとセスは、リエフの屋敷から暗がりの中へ出ていった。上級貴族の街区へと上がっていく二人の背中は、すぐに建物の向こうに見えなくなった。
「お嬢様……どうぞ、もう中へお入りを」
暗闇の中、いつまでも門から離れないティノーラに、リーガが見かねて声をかけた。
「二人は、明日は……会いに来てくれないわよね」
変装を脱ぎ捨てたシンザは、もうグレッド侯爵家のシンザだ。この帝都で、ティノーラ・リエフには関わらない。
明日彼は城へ上がり、現況を伝え、すぐに領地へ引き返すはずだ。たとえこの館の前を通ったとしても、素通りするだろう。
——シンザが戦場に出ていくところなんて、以前も見ているのに。
今までになく、心細くなる。
大規模とは、一体何だろう。ティノーラがものごとを理解できる年齢になってから、帝国騎士団に協力を要請するような規模の戦なんて、なかったと思う。
わからなくて、怖い。
そんな知らないところへ、シンザたちは行くのだ。
帝国騎士を目指しているくせに、こんな気持ちになってはいけない。けれどティノーラの胸には、ガレフやヴィオナや、イゼルへ行くと優しくしてくれるグレッド家の騎士たちの顔が浮かび、同時に不安を覚えてしまう。
彼らが命を懸けて国を守っている間、ティノーラはこんなに離れた、安全な都から、祈ることしかできないのだ。




