七、架け橋
日を追うごとに、監視役の態度にささやかな変化が現れた。ティノーラとエレリアたち姉弟の会話を、一伍一什聞き取ろうとはしなくなっていた。
彼が動向を注視しているのは、エレリア・キュベリーである。十歳のウィルドと八歳のイーリオは、ほぼ眼中にないのだが、四人の会話の大半がこの少年たちの発言なのだ。
騎士や剣術についての談議や、一般的な貴族の勉学、教養についての話ならまだ良い。好きなお菓子や遊び、今まで読んだ物語の話など、彼にしてみればくだらない話題が多く、飽き飽きてしまう内容だと、短い間ながら席を外すことさえあった。
すでに二ヶ月以上に及んでいるこの仕事に、慣れが出ていたのかもしれない。決してキュベリー家に親しむことはないものの、当初ほどの厳格さは欠いてきたようだった。
その日は午前から、真夏らしい陽光が降り注いでいた。
中庭の日陰に用意したテーブルには、休憩用にティーセットが広げられている。外で遊ぶ時は、メイドが気を利かせてこうするようになっていた。
ウィルドとイーリオは、騎馬で弓を射る練習をしている。馬の足を止めていても、やはり自分で立って構えるより難しい。エレリアは剣は苦手だが、弓は得意なので、ティノーラと一緒に教える側になった。
「なんだか暗くなってきたわ」
ふと空を見ると、いつの間にか湧いていた大きな雲が、頭上に忍び寄っていた。
今日は終わりにしましょう、と弟たちに呼びかけたが、彼らはまだ嫌だと言って馬から降りなかった。もう一度的に中るまでだけ、とせがんだ。
自分の屋敷の庭なのでエレリアも許したが、雲はあっという間に空を覆い、雨粒が落ちてきたと思ったすぐあとには、激しいにわか雨に襲われてしまった。
エレリアや弟たちは、すぐにルディによって屋内に避難した。使用人たちが馬を厩舎へと引っ張っていき、テーブルの上のお菓子やティーセットも、大急ぎで片付けられていく。
「ティノーラ様! 中へお入りください!」
メイドが大雨の中で叫んだ。ティノーラはメイドに紛れて、大雨の中で片付けをしていた。呼びかけられた声が聞こえていないのか、彼女はメイドに直接止められるまで、片付けを手伝ってしまった。
「お嬢様! 本当に申し訳ありません……私がすべきことですのに」
レマは先に屋内に避難していた。すぐに屋根の下に入るよう、ティノーラから命じられていたのだ。
「あなたはこの前高熱を出したばかりなんだから、身体を冷やすわけにはいかないでしょう。ああ、私に触ってはだめよ。濡れてしまうわ」
「何を言っているの、ティノーラ! あなたたちはお客様なのだから、片付けなんていいのよ!」
エレリアが急いでティノーラに駆け寄り、大粒の雨にぐっしょりと濡れた肩に手をやった。水の魔導士がいれば良かったが、この館にはいない。すぐにメイドが持ってきた手ぬぐいで髪と身体を拭いたが、それで済むものではない。
「わたくしの服をお貸しするわ」
女性の着替えである。監視は追ってこず、一階の広間へと向かっていった。
エレリアは私室へティノーラとレマを案内し、ルディを含めて四人だけになった。
ティノーラと背格好は近いとはいえ、エレリアのためだけに作られた服では合わないかもしれない。新しいドレスの中から、なるべく身体の線に沿わないものを選び、着替えを手伝うはずのレマに手渡した。
受け取ったレマはティノーラに視線を送った。なぜか、ひどく緊張した顔をして。当のティノーラは、何も言わずに頷いて返しただけだった。
「ありがとう。お借りするわ」
さっと衝立の向こうに消えたティノーラとレマは、一体どうやったのかと思うほどに素早く着替えを済ませて、エレリアの前に姿を現した。
「待って……レマ」
部屋の主にも断りなく扉を少し開けたティノーラは、外に誰もいないことを確認してから、またレマに頷いた。
「ティノーラ……どうかして? いくらなんでも着替え中に、扉の前に張り付かれることはなくてよ」
もしかしてティノーラは、身体に見られたくない傷でもあったのかしら、とエレリアは思った。もしそうでも、ずいぶんと用心を重ねている。
「エレリア様、ルディ様……大変申し訳ございませんでした」
突然、レマが深く頭を垂れて、抑えた声で謝罪した。何が起きたのか理解できなかったエレリアとルディは、呆気にとられた。
「……レマ……さん?」
「これまでの、私の数々の不躾な態度を、心よりお詫び申し上げます……!」
「エレリア、今までのレマの態度は、私がさせていたことなの。どうか許して」
ティノーラもできる限り声を抑え、レマの名誉を庇った。
確かにレマはずっと、不満を抱えたような、不機嫌な様子を見せていた。リエフ家を想う彼女は、本当はティノーラを諌めたいのだろうと、ずっとそう思っていた。
それをティノーラがさせていたとは……。エレリアとルディは、戸惑うばかりだ。
「ごめんなさい、エレリア。私は少しだけ嘘をついていたわ。私の剣の師は、兄ではないの。ヴィオナ・グレッド様よ」
「ヴィオナ様?」
キュベリー家と昔から親交のあるグレッド家だが、会える機会はそれほど多くない。そんな中でもエレリアは、優美な姉のようで、頼れる兄のようでもあるヴィオナをとても慕っていた。
ウィルドも指摘していたが、ティノーラの剣技はヴィオナと似ている。一方的な憧れにしては、似すぎているほどに。そういえば少し男性的な文字も、ヴィオナを思い出させるものだった。
「本当は、グレッド侯爵家とリエフは、家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっているの。ダイル様は、ずっとリエフ領をご支援くださっているわ。感謝してもしきれないお方よ」
ダイル・グレッド侯爵は、父アダンも、とても尊敬している人物だ。もちろんエレリアも。
「私はグレッド家と、あるお方のために……ずっとこんな機会を探っていたの。……レマ」
ティノーラは、レマに向かって手を差し出した。レマは左の袖のボタンを外してまくり上げた。腕には包帯が巻かれている。するすると解いた下からは、折り畳まれた紙が出てきた。それをティノーラに手渡し、レマは再びエレリアに頭を下げた。
「監視から隠すためとはいえ、大切なものを汚すような真似をしてしまい……申し訳ありません」
「大切なもの……?」
袖の中に潜ませるほど、監視の目を警戒しなくてはならないもの。主人を雨の中に置いてきても、決しては濡らしてはならなかった、小さな紙。
「長話をしていると勘ぐられてしまうから、伝えなければならないことだけ話すけれど……エレリア、絶対に声を上げないで聞いてほしいの」
ティノーラの声音は、いつもと違った。扉の外を気にして低く抑え続けている声も表情も、ピンと張り詰め、真剣そのものだった。
「——リューベルト殿下は、生きておられるわ。ヴィオナ様たちがお助けして、イゼル城に隠れていらっしゃるの」
「……えっ?」
エレリアは、自分の耳が信じられなかった。
ティノーラは、何を言ったのか。
——生きておられる? ……誰が?
……リューベルト殿下が……?
目の前に立っているティノーラは、なお真剣な眼差しで、言葉を失ったエレリアを見つめ続けている。
彼女の言葉そのものの理解と、その内容を受け止められない感情の狭間で、いつの間にかエレリアは首を横に振っていた。今どんな表情になっているのか、自分でもわからなかった。
「……ティノーラ……そんなの……やめてちょうだい。わたくし、そのような冗談は……」
「そうよね。急にこんな話をされて、信じられるわけがないと、わかっているわ。いいえ、それどころじゃないわね。私に怒りを感じても仕方ない……。だから私は、あなたを説得しないわ」
ティノーラはエレリアの前に、例の紙を差し出した。近くで見せられると、それは手紙のようだった。
今日のような機会を探っていたと、彼女は言った。それは、これを渡す機会を待っていたということだろうか。もしかしたら、キュベリー家の屋敷に来るたびに、レマは懸命に隠し持っていたのか……この手紙を。
「私を疑って構わない。でも……エレリア、これだけは読んで。そのあとは、あなたに判断を任せるわ」
急に膨らんだ疑念に身を硬くするエレリアに、ティノーラは半ば無理やり手紙を受け取らせた。
「私はこれでお暇するわね。こちらからは……連絡しないから。私の話を信じてくれるのなら、エレリアからちょうだいね」
ティノーラはそう言って笑顔を作ると、レマを連れて、キュベリー家を出ていった。
外は明るかった。にわか雨は去っていて、真上の空は透明な青色だった。
「エレリア様は……読んでくださるでしょうか」
「うん、きっと大丈夫よ。私は……読んでくれると信じてる」
心許ない表情で、ずっと守ってきた袖口を無意識に掴むレマに、ティノーラがとんっと抱きついた。
「お、お嬢様——?」
「本当にありがとう。ずっとずっと、大変だったでしょう? あれを隠し持つことも、心にもない態度を取り続けることも」
「はい……そうですね。今までで一番……堪える仕事でした」
「さあ、帰って、みんなにも報告しましょう。私たちは成功したって!」
すべては、城の茶会の直後から始まっていた。
すぐに母やダイル、それからリューベルトに、エレリアとの接触を試みることを報告しなくてはならなかった。隙があれば真実を話して良いかの伺いも立てるため、手紙のやり取りではなく、リーガに一任して、エリガまで往復してもらった。
その間にティノーラは、リエフ家の使用人たちと話し合いをした。エレリアに近付けば、リエフ家も目を付けられる。伯爵の娘として家は守らねばならないし、万が一芋づる式にグレッド家のことが明らかになってもいけない。どうすれば良いか。
出た結論は、友人が欲しいティノーラの独断の行動だと印象付け、家の意向とは無関係と思わせること。どうせ帝都には、リエフ家の個人の人柄や家族同士の関係性を、詳しく知る者なんていない。騙せる算段はあった。
侍女にも使用人にも呆れられる愚かな娘と見せるため、最初にエレリアを招いたお茶会では、レマもメイドも無愛想に徹した。まとめ役であるリーガもいないのに、とても上手くやってくれた。勝手に屋敷をうろつき始めた監視に、厨房でわざと不遜な会話をして聞かせたというメイド頭の機転は、本当に見事だった。あれでずいぶん監視の印象を誘導できたと思う。
元々リエフ家が地位も財力もない弱小貴族ということもあって、監視はティノーラを軽んじた。もしエレリアが手先として操ろうとしたところで、ティノーラではどうせ使いものにならないと判断し、だんだん隙を見せるようになってくれた。
そして今日が来た。
あとはエレリアが、リーガがグレッド家からお預りしてきたあの手紙を——リューベルトの手紙を読んでくれればいい。ティノーラは政変よりも何よりも、裂かれてしまった二人の橋渡しをしてあげたかった。
手紙は、万が一監視に見つかった時のため、封筒だけでなく中身にも、宛名や差出人、具体的に何かわかることは書いていないと聞いた。それでもエレリアなら、これを書いたのが誰だかわかってくれる……リューベルトはそう言ったそうだ。
「あっ……お嬢様、見てください」
下級貴族の街区へ下りる城門をくぐったところで、レマが空を指差した。
エレリアの手には、封がされた小さな手紙がある。さらに小さく二つ折りにして、隠されてきた手紙。
ルディは何も言わなかった。ティノーラのことを判断するのも、手紙をどうするか決められるのも、主人だけであるのだから。
しばらく見つめていたが、やがてエレリアは封を切った。ティノーラはずっと真意を隠していたことになるが、キュベリー家を攻撃する意図とは違うような気がする。ならば、手紙を読んでみるくらいは良いはずだ。
宛名もない真っさらな封筒の中には、たった一枚の手紙が入っていた。
『僕の涙を受け止めてくれたきみ。
駄々っ子を演じてと笑ったきみ。
あの時の手の温もりを、僕は忘れない。
これまで何も伝えられなかったことを、どうか許してほしい』
何を言いたいのか、何を謝っているのか、伝えたいことがよくわからない短い文章だった。
……エレリア以外には。
僕という言葉も、きみという呼び方も馴染まない。でも、わかる。ティノーラにも誰にも、この手紙を書くことはできない。決して。
あの日リューベルトが涙をこぼしたことも、一緒に食事を取るために駄々っ子を演じてくださいとエレリアが言ったことも、誰も知らないのだから。ルディも、イルゴも、父も知らない。あの時、手を繋いだ二人だけの会話だったから。
でも本当は、そんな理屈よりも先に、手紙を開いた瞬間に、エレリアには伝わっていた。
この文字。手習いのお手本のように美しい。貴族にはこういう文字を書く人も多い。でもほんの少しだけ彼特有の癖があるのを、エレリアは見つけて知っていたのだ。出会ってから二年間、何通も手紙をいただいていたから。
「……殿下……」
エレリアには文字が見えなくなった。あふれる涙が、震える腕にぽろぽろと落ちる。
互いの名前がなくても。本当に書きたいことが書けていなくても。この手紙はリューベルトがエレリアに宛てたものだと、信じられる。
「殿下……生きて……っ、本当に……生きておられるのですね……!」
彼はイゼルにいるのだ。
フェデルマの東の果てから届いた想いを胸に抱いて、エレリアは声を押し殺して泣いた。
お互いの距離は遠すぎる。会える見込みなんてない。でも同じ空の下にいてくれたのなら、エレリアはもう、生きることを辛いとは思わない。
義務ではなく、自分の意志で生きていける。
ルディも涙を抑えられず、頬を隠しながら、主人から顔をそらした。ふと、窓の外には明るい日差しが戻っていることに気がついた。
仰いだ天には、光の架け橋があった。
「お嬢様……ご覧ください。なんて美しいのでしょう」
「——わあ、レマ、きれいね!」
雨上がりの匂いがする帝都の街の上に、大きな虹が架かっている。
ひとつの大きな役目を果たし終えた、ティノーラたちへのご褒美のようだった。




