六、親睦
キュベリー伯爵家の屋敷は、今も変わらず上級貴族の街区にある。
フェデルマ帝国の建国から九十二年。その歴史の中で、公爵や侯爵が下級貴族に降格したことはなく、帝都に所有する屋敷を移った例がない。
監視付きのキュベリー家が近くに越してくることを、下級貴族の街区は歓迎できない。一方で上級貴族の街区ではどの侯爵家も、キュベリー家が留まることを問題視しなかった結果、そのままになったのだ。
「お嬢様、ティノーラ・リエフ様のお遣いの方がいらして、このお手紙を」
侍女のルディが薄い手紙を持ってきた。
これはエレリアに届く前に、監視に検分されている。屋敷に届くもの、来訪者、すべてがそうだ。もっとも現在はキュベリー領にいる父としか、手紙のやり取りはなかったが。
「本当に、お茶のお誘いだわ……」
手紙を読んだエレリアは、少し思案してから、ルディに意見を求めた。
「あなたは、ティノーラ様をどう思って?」
「……恐れながら、信用はできません」
ルディは声をひそめ、率直に意見を述べた。
さすがに侍女と二人きりなら、監視がエレリアの部屋にまで入ってくることはない。
「リエフ家のご事情は理解いたしましたが、だからこそ、という見方もできますので——」
「家の立場向上のために、わたくしを利用しようとしている……と?」
あらかじめクリーズ伯爵から、茶会でエレリアに近付いて、頃合いを見て陥れるよう言われているのかもしれない。ただ、エレリアの名乗りを聞いた時のティノーラ・リエフは、本当に虚をつかれたような顔をしていたから、それよりも可能性があるのは、あの時彼女自身が咄嗟に思いつき、仲良くなってエレリアの情報を掴み、旧派に売ろうと考えている、という線だろうか。
「考えられることでございます」
「そうよね……」
エレリアは少し寂しそうに、折り畳んだ手紙に視線を落とした。父や弟たちのためにも、決してそんな罠に落ちるわけにはいかない。
ところがルディは少し間をおいてから、躊躇いがちに続けた。
「理性では、そう考えます。ですが直感では……そんなことを企む心根の方には見えませんでした」
「そう……奇遇ね。わたくしもそうなの」
もう一度手紙を開き、エレリアはティノーラの文字を眺めた。きれいだが、どことなく大胆な筆使いの、あまり女性的ではない文字。これは、なんだか見覚えがある。
「一度だけ……一度だけは、お訪ねしてみようかしら。ルディ、どうか……わたくしを見張っていてね」
「はい。きっとお守りいたします」
エレリアがティノーラの誘いに乗ることに、ルディは反対しなかった。ただ、主人に何か起きないよう、精一杯尽くそうと心に誓っていた。
ルディの主は、少し前まで失意の底にいた。いや、本当のところは、今もそうだ。婚約者を残酷な事故で亡くし、父親は冤罪を着せられ、友人たちには距離を置かれた。領地に帰っていた時は、外出するどころか、ほとんど口もきけない状態だった。
こうして話せるようになったのは、命令によってまた帝都で生活することになってからだ。父親は領地で監視下にあるため、彼女は二人の弟とこの屋敷へ戻ってきた。父に成り代わって弟たちを守るため、気丈に振る舞っているのだ。
ルディはあの日のお茶会で、ティノーラが爪弾きにされていたのを目撃していた。それだけでは信用の根拠にはならないが、少し環境の似た彼女が本当に思惑もなく、エレリアの新たな友人になってくれたら、と縋るような願いも抱いていた。
監視を二人も引き連れなくてはならないエレリアを、ティノーラは大歓迎で応接間に招いた。
彼女は自分の好きなことや、フェデルマでも特殊な領地での生活のことなどを話し、エレリアが自分から話すことには、相槌を打ちながら静かに聞いた。探りを入れるような話題は何も上がらなかった。城の茶会の最後に話に出た弟については触れた。
「弟様はお二人いらしたのですね。子どもの頃、私も弟か妹がほしいと思っていたことがありました」
「わたくしは姉がほしいと、母にねだったことがありましたわ」
お互いに親を一人亡くしていることにも話が及んだ。ティノーラは亡き父や、父の跡を継いで伯爵を務める母についても、少しも悲壮感を感じさせない様子で話題にしていた。
エレリアも母との思い出は話したが、アダンについては一切触れなかった。ティノーラも一度も聞いてこなかった。
話が聞こえる位置に常に監視が立っていたが、ティノーラは彼らにまでお茶を振る舞った。どうぞお座りくださいと、あっけらかんと椅子まで用意した。
エレリアもルディも、監視に加えてリエフ家の家人にまで拡げた警戒を、決して怠っていなかった。しかしこれといって、何か仕掛けてくる感触はない。
気になった点といえば、ティノーラの侍女やメイドたちに、あまり笑顔がないところか。監視役の男たちは、リエフ家の人間のことも観察している。そのことに緊張しているのか。それとも彼女たちのほうこそ、キュベリー家の巻き添えにならないよう警戒しているのか。
——リエフ家のことを思えばこそ、あの方たちがわたくしを良く思わないのは当然のこと……
監視の一人が、すっと部屋を出ていった。
まさかリエフ家の中のことまで、把握しに行ったのだろうか。エレリアは悲しくて申し訳ない気分になるとともに、彼らを連れてまでティノーラを訪ねたことは間違いだったと感じた。
今のところあの二人はほとんど黙っているが、城の茶会の時のように、また高圧的な態度を取るかもしれない。この部屋の外でまでそんなことをされたら、心配をかけただけでは済まない。実害を与えてしまう。
エレリアは早くお暇しようと、いただいたお茶を手に取り口に運んだ。
応接間を出た監視の男は、屋敷の中を勝手にうろつき始めていた。
掃除は隅まで行き届き、窓も磨かれ、小さな庭園も手入れがされている。だが伯爵家とは思えないほど、全体的につづまやかな屋敷だ。収入が少ないどころか、開拓のために財を切り崩さなければならないほどの、僻地の領主だ。贅沢などしたくてもできまい。
哀れなものよと、男は鼻で笑った。
人の話し声が聞こえ、男はそちらに向かった。厨房のようだった。
「どうして、リーガ様がいない時に、キュベリー家の令嬢など招いたのかしら」
「わからないの? お嬢様はわざとそうしたのよ」
「リーガ様は反対なさっていたから……」
「キュベリー家の煽りを受けないか、私でも不安よ」
メイドたちによるこぼし合いに、男は口を歪めた。
低俗な会話だ。厨房の中であろうと、主人の愚痴など、来客時にすることではなかろうに。
足音が響いてしまったのか、中から扉が開いた。
「あっ……これは、お客様……!」
「失礼。迷ってしまいましてね」
少々年嵩のメイドは、両手で口元を押さえ、部屋の中にいる他のメイドを振り返って、黙るように首を振った。客に会話を聞かれたと悟ったようだ。
「いえいえ、ご心配なく。私は何も聞いておりませんよ。では、失礼」
男はニヤリと笑って、メイドに案内を頼むこともなく、応接間へ続く廊下を歩いていった。
「エレリア様、とても楽しかったです。執事が急病で不在なもので、数々の不手際をお詫びいたします」
「いいえ、素敵なお茶会でしたわ。こちらこそ、とても楽しい時間を過ごせました。ありがとうございます」
エレリアを見送るティノーラは、嬉しそうにはにかみ、付け加えた。
「またお誘いいたしますね」
その後お礼状を送ったエレリアに、ティノーラからもお礼状が送られてきた。
幾日か経つと、またぜひお会いしましょう、というお誘いの手紙が届いた。
エレリアは迷った。個人的には、悪意や打算など少しも見えないティノーラに、とても好感を持っていた。以前の立場の時に彼女と出会っていれば、すぐにでもこちらから招待していただろう。きっととても楽しく語り合える友人になれる、そんな予感を覚えていた。
しかし、今の自分は……厄介者なのだ。ティノーラの侍女やメイドたちには、きっと嫌われている。
エレリアが誰かに会いたいと感じるのは、婚約者を喪って以降初めてことだったけれど、ティノーラやリエフ家のためには縁を作らないほうが良い。
「お嬢様。今度はこちらにお越しいただいてはどうでしょう」
諦めようとするエレリアに、ルディが提案した。先日のようにリエフ家の屋敷へお邪魔するよりは、キュベリー家に招いたほうが、かけてしまう迷惑は軽減できるはずだ。
「そうね……でも……」
「主のため周囲の人間に注意を払うのは、レマさんが優秀な侍女であるからです。私と同じですよ」
「……ふふ、ルディったら……」
なおも逡巡するエレリアを、ルディは今までにないくらいに励まし、強く後押しした。
ルディは今回のことを、主人の心の回復に良い傾向だと思っていた。エレリアの再生のきっかけになれると感じていたのだ。あちらの侍女には迷惑かもしれないが、ティノーラになら頼れるという自分の直感を、彼女は信じていた。
「ご招待の手紙を……書いてみようかしら」
エレリアは羽ペンの先を、インク瓶にそっと入れた。
騎士を目指す弟たちは、やってきたティノーラを見るなり、大会優勝者への興味を我慢できなくなった。エレリアを差し置いて、ティノーラに大会に参加した時の話や、普段の鍛錬のことや、誰に習っているのか、一緒に表彰されたグレッド家とは友達なのか、と二人がかりで質問攻めにした。
「ティノーラ様は、ヴィオナ様と同じような、細剣型の木剣をお使いでしたよね!」
「はい。私が一方的にヴィオナ様に憧れて、真似をしたのです。鍛錬は、兄としています。グレッド家は隣領ですから、情報交換などは頻繁に行いますよ。でもその程度ですね。皆様のほうがお付き合いはずっと深いと思います」
ティノーラは、エレリアの弟たちも交えたおしゃべりを楽しんでくれていた。
弟たちもエレリアと同じで、友人に去られている。帝都内に行く場所もなく、屋敷の者以外と話す姿さえもずっと見られることはなかった。母親代わりのつもりのエレリアは、なんだか目頭が熱くなった。
「ねえ姉上! 聞いてた?」
「ティノーラ様が、剣技鍛錬のお相手をしてくださるって! いいでしょう?」
「……えっ? で、でも、そこまでは——」
「出過ぎたことかとは思いますが、お許しをいただけるのでしたら、ぜひ」
茶会の時と同じように、ティノーラは監視にも「いけないことでしょうか」と聞いた。監視は肩をすくめて、どうぞと応じた。
その後のティノーラは騎士の装いで、キュベリー家を訪れるようになった。キュベリー邸の中庭は、四人で馬に乗って鍛錬をすることもできる広さがある。
ティノーラの侍女も女性騎士なのだそうだが、それに加わることはなかった。彼女はいつも無表情でティノーラを見守っている。やはりリエフ家とキュベリー家の関係が深まることを、快く思っていないのだろう。
ティノーラの母や兄は、このことを知っているのだろうか。侍女だけでなく母や兄からも咎められれば、ティノーラもキュベリーから離れていくだろう。
その日は、すぐに来るだろうか。
それを考えると、エレリアの胸はきゅっとなる。
ティノーラを屋敷へ招待することを、エレリアは毎回躊躇してしまう。そうすると弟のどちらかが、張り切って手紙を書いてしまった。
それを受け取ると、ティノーラは来てくれる。
弟たちが遊びたがっていることを、エレリアは言い訳にしていたかもしれない。
城の茶会からは、ふた月近くが経過していた。
ある日の夕方、監視の一人はレマの近くの木陰に立っていた。彼女は相変わらず表情を消しているが、主人を見つめる瞳には、不服そうな色が見て取れた。
ティノーラ・リエフと監視対象たちは、もう敬語を崩して話すほど仲が良い。
「……あなたも大変ですね。家のことを考えないお嬢さんに仕えていると」
「……!」
突然声をかけられたレマは、びくりと小さく後ろに下がった。動揺を隠そうと、顔が強ばっている。
「お嬢様は……そんな方では、ございません」
「そうですか? 落ちぶれた家同士、傷を舐め合っている関係に、納得しているのですか?」
「皆様は、ご友人の関係です。ご友人は、誰にでも大切なものですし——」
「はっは……、あくまでも庇いますか。あの呑気なお嬢さんには、もったいない侍女ですね。メイドたちは見習っていないようですが」
「な、なんのことでしょう」
「せいぜい内部の不協和音に気をつけることです」
意地悪く笑う男に、レマはますます表情を引きつらせた。会話を打ち切りたいのだろう。懐中時計を取り出して、時刻を確認した。
「そろそろ、お暇するお時間ですので……失礼いたします」
ティノーラたちは馬から降りて、手綱を持ったまま歓談しているところだった。レマは懐中時計を両手で胸に抱え、男をちらちらと見ながら、そちらへと逃げていった。




