三、新たな生活
帝都にあるリエフ家の屋敷に住んでいた記憶は、ティノーラにはあまり残っていない。四歳までは帝都に近かった当時の領地と半々くらいで住んでいたのだから、もう少し覚えていてもいいのにと自分でも思う。
どちらにしても、今のリエフ領での生活は、苦難もあるが楽しくて充実している。帝都で暮らしたいと願ったことも、当たり前に暮らしている令嬢を羨ましいと妬んだことも、まったくない。
——私はあまり、帝都で暮らすことに向いていないんでしょうね……
数日前、母と兄には明るく手を振って、エリガ城を出発してきた。
ティノーラを乗せた馬車と、すぐ後ろを付いてくる荷物を載せた馬車は、もうじき帝都の城壁を遠くに望む頃だった。
「緊張なさっているのですか、お嬢様」
昨日までより言葉少なに窓の外を眺めているティノーラに、向かいに座るレマが声をかけた。
「……うん、そうみたい……。一人で帝都に来るなんて、初めてのことだし……」
いつも母や兄と一緒だった。もしリエフ家の用事を済ませるために来たのなら、一人でもこんな気分にはならなかっただろう。馴染みが薄いとはいえ、何度も滞在したことはある都なのだから。
命令に従って暮らすだけ、ただそれだけの今日からの毎日が、どういうものになるのか想像できない。それがティノーラに、漠然とした不安を覚えさせていた。
「お気持ちはお察しします。でも、私が常におそばにおりますから」
レマが微笑んだ。彼女だって、慣れない帝都での生活を強いられるというのに。
「私もおりますよ。それに、城から何か強硬な仕打ちをしてくることはないでしょうと、ユリアンネ様もおっしゃっていたではありませんか」
レマの隣に座るリーガも優しく微笑んだ。
リーガはリエフ家の執事で、レマの父親だ。ベネレスト帝に疎外される前から、リエフ家に仕えてくれている人物である。
国内の貴族家の中で、リエフ家の使用人は決して厚遇とはいえないだろう。辺境という土地柄もあり、退職した者の代わりを探すのも一苦労してしまう家だ。そんな中でも変わらず、リーガは誠心誠意リエフ家のために働き、昨年には娘のレマも、ティノーラの側仕えに志願してくれたのだった。
「そうよね、ごめんなさい。二人が来てくれているんだから、何も心配することはないわね」
二人の笑顔を見ていると、ティノーラの心も少し晴れやかになった。考えてもわかりようのないことを心配して暗い顔をするなんて、ティノーラらしくないことだった。
——帝国で一番大きな街に暮らすのだから、きっとエリガでは味わえなかったような、楽しいことだってあるわよね。
ティノーラはそう思い直し、もう一度窓から外を見やった。ちょうど遠くに、帝都の城壁が見えてきたところだった。
経済状況が豊かとは言い難いリエフ家は、あまり使わない帝都の館には、最低限の人員しか雇っていない。管理人と、数人のメイドだけである。
主人の娘であるティノーラが暮らすのだから、それだけでは足りない。貴族としての見栄えもある程度は必要になる。
そこでユリアンネは、レマだけでなくリーガも、ティノーラに同行させることにしたのだった。彼は執事として優秀なばかりでなく、会計などの管理もできる。帝都での暮らしも経験があるリーガがいれば、娘の新生活に過度の心配はしなくて済む。
到着した久しぶりのリエフ邸は、ティノーラにはどうしても、自分の家に帰ったという気分にはなれなかった。昨晩の街道町の宿と同じような、宿泊するという感覚になる。自分の部屋でさえそうなのだから、新生活に慣れるには少し時間がかかりそうだった。
「お疲れ様でございます、お嬢様」
レマがいつも通りに着替えを手伝ってくれる。
「やっぱり遠いわね。さすがに疲れたわ」
「メイドから聞いた話によると、この辺りの伯爵家のお館には、ご子息やご息女がもうお住いになっているようですよ」
「そうなの」
そう言われても、ティノーラは隣の館の伯爵家の家族構成すら知らない。
リエフ家はあまり良くない意味で有名だろうし、女性当主のユリアンネは目立つから、相手はこちらを知っているかもしれないが。
そんなことよりもティノーラの頭の中を占めているのは、明日から何をして過ごすかだ。リエフ領でしていたように、騎士団と一緒になって魔獣退治をする必要も、兄と一緒に領内の様々な視察に行く必要もない。エリガの街で民の話に耳を傾けることもできない。
もちろん、イゼルにも行けない。
ティノーラの口から、無意識に小さなため息がもれた。
追従してきた馬車が運んだ荷物が部屋に並べられると、ようやく自分の部屋らしくなった。
運ぶ手間が増えるから、最小限によく使うものだけを持っていこうとしたティノーラに、あったほうがいいと思う物はすべて持っていきなさいと、母が助言してくれた。だから、少し申し訳ないと思いつつも、たくさんの本も持ってきた。
十三歳であるティノーラは、まだすべての勉学は修了していなかったが、家庭教師は帝都に連れてこなかった。その女性教師には幼い子がおり、おまけにお腹にも新しい生命が宿っていたからだ。あとは独学でもできるようにと、彼女は工夫を施した本を何冊も用意してくれた。
たくさんの本の中から、その本を引っ張り出してみた。めくってみると、彼女のきれいな文字が書かれた紙が、何枚も途中に挟まっている。ティノーラがわかりにくいと感じるであろうところに、解説を書き込んだ紙を入れておいてくれたのだ。
貴族の子どもを帝都に住まわせる理由は、質の高い教育のためだと御触れにあった。でもティノーラには、ここで新しく教師を雇う予定はない。身重でありながら、こんなに心を込めて準備をしてくれた、これらの本があれば充分だ。
——本当に、私が帝都で暮らす意味って何なのかしら。
教師や、時々勉強もみてくれる兄から引き離されたティノーラに、その意義は見つからない。
数日間は、レマと鍛錬をしたり、本を読みふけったり、あまり会うことのできなかったメイドたちと親睦を深めたり、とにかく館の中で過ごしていた。
……早くも退屈に襲われていた。
ティノーラは大きく伸びをすると、窓の外に目をやった。遠乗りに行きたくなるような、良い天気だ。
「街へ……行ってみようかしら」
二年後の成人の誕生日まで引き籠っているわけにもいかない。ティノーラは意を決して、街へ散策に行くことにした。
下級貴族の街区には、伯爵家と子爵家、男爵家の館があり、それらの貴族を相手にする店も立ち並んでいる。移動に馬車を使う貴族も多いが、ティノーラは身体を動かしたいので、レマと歩いて街へ出た。
何度も来たことはあるが、散策を楽しんだことはないので、あまり街に詳しくない。ティノーラは気の向くままに街を巡った。
彼女が着ているドレスは、高価なものではない。しかし日傘を差し、すっと背筋を立てた歩き姿は、帝都育ちの令嬢にも見劣りしていなかった。ティノーラが将来恥をかくことのないよう、ユリアンネが貴婦人としての所作をしっかりと教えてきたのだ。
ヴィオナの影響も大きい。彼女は帝国騎士と侯爵令嬢、どちらの振る舞いもとても佳麗にこなすのだ。
レマと話しながら歩いていると、邸宅の多い地区から店が多く立ち並ぶ通りに出た。
道に面している一階の窓には、ドレスや装飾品、本や子ども向けの玩具、食器から武器の類など、色々なものを飾った建物が連なる。羽ペンの見本が見える窓で、ティノーラは少し足を止めた。美しい羽の傍らには、価格の書かれた小さな札があった。もちろん数字は読めるが、その価格の価値が、実はティノーラにはよくわからなかった。
彼女は領地でさえも、街で買い物をした経験がないのだ。幼い頃から自分の家が豊かではないことを知っているので、むやみに物を欲しがったこともない。必要なものを買うのは、ユリアンネが時折城に呼ぶ商人からだけだった。そこでは価格札は付いていないし、その場で支払いは発生せず、商人と家令があとで交渉しているようだったので、ティノーラには今ひとつ金銭感覚というものが掴めないのだ。
少し先の建物の扉が開いた。それと同時に、複数の女性のころころと笑う声が周囲に広がった。
扉から出てきたのは、ティノーラと同じ年頃の少女たちだった。明らかに貴族の娘たちだ。彼女たちの華やかな装いと楽しそうな笑い声は、その一帯の空気の色まで変えたようだった。それほどティノーラの目には、別世界が現れたように映った。
ついそちらに目を向けた少しの間に、少女たちの一人と目が合ってしまった。その少女はティノーラを見るなり、あっ、と小さく声を上げた。
「ねえ、あの子! ティノーラ・リエフよ」
彼女は上品に口元を指で隠し、声をひそめてはいたが、ティノーラにはしっかり聞こえてしまった。
「まあ、あの子が?」
「去年の大会で優勝した子よね?」
同じく声をひそめているつもりのようだが、高い声はよく通り、ティノーラにもレマにも筒抜けである。
母だけでなく、自分の顔も知られていることを、ティノーラは初めて自覚した。もちろんすべての貴族が大会を観戦するものではないが、帝都に暮らしているなら観ていただろう。二連覇で話題をさらったグレッド兄弟に混ざって表彰されたのだから、ついでに印象に残っていても当然といえば当然だった。
最初に目が合った少女は、好奇心を隠せない顔をして、すでに目をそらしていたティノーラのほうへつま先を向けた。しかしすぐさま、他の少女が彼女の袖を掴んだ。
「やめておきなさいよ」
とっさに引き止めた少女は、声を抑えるのも忘れたようだった。
ティノーラはくるりと背を向け、反対方向へ歩き始める。逃げるようにではなく、あくまでも優美な足取りで。
この先の会話は、聞くまでもない。
彼女たちは、ひそひそと話し合う。
「確かに試合はすごかったけれど……あの子はあのリエフ家なんだから」
「先の皇帝陛下のお怒りを買って辺境に飛ばされた家なんて、距離を取っておいたほうが賢明よ」
「でも……皇后陛下は朗らかにお褒めになっていたわよ?」
「いいのよ、付き合う利点もないじゃない」
ティノーラが声をかけられることはなかった。
角を曲がり、彼女たちとは別の道を選んだ。途中、レマが何か言いかけた気配があったが、二人は何も言葉を交わさずに歩いていった。
広場に出た。芝が張られ、花壇には花が咲いている。これから来る真夏の暑い日に、気持ちのいい木陰を作る木々が植えられ、中心には人工の池もある。
ティノーラは遊歩道を進み、池のほとりに立った。
日傘の縁から、隣に来て立ち止まるレマの足元が見えた。ティノーラは低めに構えていた日傘を、少し持ち上げた。
「ごめんなさいね、レマ」
「……何を、謝っておられるのですか?」
「帝都で暮らすと、さっきのような嫌な思いを、何度もさせてしまうと思うの」
レマが侍女になってから、帝都の街中を歩いたのは初めてだった。そもそもティノーラが帝都に来たのが、例の大会以来だ。
ティノーラにも非はないが、それ以上にレマには何の非もない。それなのにこの街では、あの少女たちのような視線を向けられ続けることだろう。
ティノーラは、両親のことも今の領地に対しても、揺るぎない誇りを持っている。だから相手のことを理解しようともせずに見下してくる人たちと、無理に付き合うつもりはない。でも、それにレマを巻き込むことは心苦しかった。
レマは小首を傾げた。
「まさか、お嬢様……ご自分ではなく私のことを気にかけて、外出なさらなかったのですか」
「……う、うん……」
「ふふっ、お嬢様ったら……」
レマが小さく吹き出した。
彼女の反応に、ティノーラは目を丸くした。レマの表情は、なぜか少しうれしそうに見えた。
「私は何とも思っておりません。リエフ家のことは、父から聞いて存じ上げているつもりです」
「でも……嫌なものでしょう?」
「あの方たちが、お嬢様に嫌な思いをさせているのでしたら、憤りを感じますが」
「いいえ。私はあの人たちのことは、どうでもいいと思っているわ」
「では、解決ですね」
「……そう、みたいね」
今度はティノーラが小首を傾げた。それから、声を立てて笑ってしまった。
「なあんだ。私って、くだらないことを悩んでいたのね」
「お嬢様は、お嬢様らしくなさっていてください」
「ありがとう、レマ」
ティノーラはレマに肩をくっつけた。驚く彼女を、一緒に日傘の下に入れた。
「もう少し歩きましょう」
「はい、お嬢様」
二人は笑顔で、街の散策を再開した。




