六、帝国の盾
森を抜けると、遠くに大きな建造物が見えた。それは壁だ。普通の町が賊徒や魔獣に備えているのとはまるで違う。帝都の一番外側の城壁よりも高さがある。
すぐ前を走る馬の上で、シンザが少し誇らしげな笑顔を見せながら、リューベルトを振り返った。
「見えました。イゼルです」
グレッド領の中核、領都イゼル。
国境領に来たのも初めてのリューベルトには、その外観はどこよりも固い武装をしているように見えた。殺風景な景色の中に、歴戦の騎士の鎧がひとつ置いてあるような、そんな印象を受けた。
レンガ造りの城壁は高いだけではなく、とても厚く造られている。普段は見張りが立ち、有事の際は弓などで迎撃するのための円柱の尖塔も、いくつも備わっている。
門番がヴィオナとシンザを見るなり、すぐに開放した城門扉の両脇の塔は、特に大きかった。これは大きな街ではだいたい共通している。中には騎士の詰め所があるのだ。
なめらかな石畳の街並みは、城壁の物々しさに反して美しく整い落ち着いていて、行き交う人々の表情はみな穏やかだ。それはリューベルトに帝都の平民の街区を連想させた。馬車から見たことしかないけれど、建物の窓辺に花が飾られていたり、壁に蔓が伸びていたり、または洗濯物が見えていたり――貴族の街より雑多だけれど、人々が力強く生きているさまが垣間見えるような、和やかで明るい空気が流れている、そんな街。
中心部には店が多い。大きな幌が張られ、その下にたくさんの露店が入っている市場のようなところもある。その近くには、親の買い物に飽きた子どもたちが集まって遊んでいる広場もある。
ヴィオナたちはそんな街の中を、馬に乗ったまま奥へと進んだ。途中何度か「ヴィオナ様」「シンザ様」と声をかけられ、そのたびに手を振って挨拶に応えていた。
——ずいぶん民と領主が近いのだな。
少し驚いていたリューベルトは、ふと幼い頃のことを思い出した。生まれ育ったロベーレでは、自分はきっとこれ以上だった。なんだか、すっかり忘れていた。
ロベーレは皇家の直轄地で、代々の皇帝がしがらみから離れて寛ぐための別荘地であったから、管理を任されている子爵家以外には、貴族の者が入ってくることもなかった。身元の確認が取れた民が、宮殿と周囲の小さな町と自然を守って暮らしていた。
彼らは皇家直属の使用人という立場だったが、子どもから見れば関係なかった。リューベルトはよく宮殿の外に出て彼らと言葉を交わしていたし、彼らの子どもとは泥まみれになって遊んでいたくらいだ。
七歳で帝都に移ってからは、そういうことはなくなってしまった。皇子教育は特殊であるし、いろいろなことが遅れていたから、誰かとともに学んだこともなかった。
忙しい中時々交流を持つことがあったのは、リューベルトを皇子として扱う、立場を弁えた貴族の子どもだった。ロベーレにはなかった見えない壁が常に立ちはだかっていた。
帝都では平民と遊ぶ機会どころか、これまで直接交わる機会さえなかったのだ。
いつの間にか、そんな世界が普通となっていた。
イゼル城は、街の北、丘の上にある。
フェデルマがまだ新しい国であった頃は、北方や東方からよく戦を仕掛けられた。その守りに就いた最初のグレッド侯爵が、砦として築城したものだ。最悪の事態の際には、街の民を受け入れて籠城までできるような、とても堅牢な造りになっている。
ヴィオナは執事たちに対して、リューベルトのことをお客様とだけしか紹介しなかった。国葬に参列してきたにしては早すぎる帰還についても、ガレフが一緒でない理由についても、まだ説明しなかった。
一方の執事たちは、それに疑問を呈することはなかった。主人にはそうする理由があってのことだと素早く理解し、余計な質問を挟んで煩わせることなどしないのだ。
「父に説明して参りますので、申し訳ありませんが、こちらでお待ちください」
リューベルトは客間に通された。セスが一緒にいてくれた。
「初めて来たが、イゼルは良い街だな。そなたはこの街の出身と言っていたか」
「はい、ここが故郷だと思っています。生まれたのはもう少し南の町なんですけどね。三歳の頃両親が死んで、引き取り手もなくて、イゼルの孤児院に連れて来てもらったんです」
さらりと辛い身の上を明かすセスに、リューベルトは返す言葉を見失った。
セスにとっては何の感情もなく口から出た話だったのだが、リューベルトに悲しみを気遣うような顔をされ、はっとした。両親を殺害されたばかりで、居場所までもなくしてここに来た少年に、わざわざ聞かせる必要のない話だったのではないか。彼は急いで付け加えた。
「あー、あの……俺の身の上話なんて、たいした話じゃないんですよ! 孤児院暮らしは、仲間もたくさんいて楽しいものでしたから。魔力があったおかげで、今ではこうして侯爵家に仕えているし」
「ヴィオナ殿やシンザ殿とも、とても親しくしているな。実は、少し驚いていたんだ」
「ええ、そういう人たちなんです、この家は」
「そうか。ダイル殿の人柄が少しわかった気がする」
まるで自分が褒められたように、セスは少し口元を緩めた。
「俺はグレッド領内に生まれて、本当に良かったと思っているんです。俺が仕えるのは、生涯グレッド家だけだと思います」
セスは愛国心も強いが、すべてにおいて何よりも主人が優先される。リューベルトを助けていることでさえ、ヴィオナとシンザが彼を助けるからだった。
さすがにそこまで口に出さなかったが、聡明なリューベルトには、セスのその気持ちと覚悟が伝わっていた。そこまで思わせるグレッド侯爵にほんの少しの嫉妬を覚えると同時に、そんな人物に助けてもらえた自分は、本当に幸運だったのだと感じていた。
「公にしておりませんが……実は、父は伏せっているのです。そのため、両陛下の国葬がありながら、帝都へ上がらず、このイゼルに残っておりました」
客間に戻ってきたヴィオナは、リューベルトにそう明かした。
「大変無礼なことと承知しておりますが、殿下には父の寝室にて面会をお願いしたいのです」
「私は構わない。しかし、私が入ることでダイル殿の負担になりはしないか」
「お気遣いありがとう存じます。大丈夫ですよ。父はぜひ殿下にお目にかかりたいと申しております」
ノックの音がすると、ヴィオナは扉を開けた。入ってきたのは、リューベルトに負けないくらい艷やかな金髪の、中年層の女性だった。ドレスにも髪飾りにも派手な飾りはないが、佇まいだけで清高さが伝わってくるような女性だった。
「紹介いたします。母のナリーです。お母様、こちらがリューベルト殿下よ」
侯爵夫人のナリーはドレスの両脇を少し持ち上げ、右足を引いて腰を落とす、淑女の礼をした。
「お初にお目にかかります。ナリー・グレッドでございます。本来当主たる夫ダイルがお迎えすべきですのに、不敬をどうぞお許しくださいませ」
リューベルトの来訪は緊急のことで、客を迎える身支度などまるでできなかったのだろう。しかし少しも着飾っていない控えめな装いでも、その仕草だけでとても優雅で華があった。
「リューベルト・グランエイドだ。こちらこそ、ご子息とご息女に救われた。その上、急な訪問を受け入れてくれたこと、ありがたく思っている」
「もったいないお言葉、大変光栄に存じます。では、どうぞこちらへお願いいたします」
リューベルトはナリーのあとについて三階の静かな廊下を進み、他より大きな扉の前に案内された。主寝室なのだろう。
「旦那様、リューベルト殿下にお越しいただきました」
ナリーが扉を開けて呼びかけた。
何かの薬の匂いが、かすかに鼻を突く。
傾いた日差しが斜めに差し込んでいる大きな部屋。その奥半分は、ナリーの寝台があるのか、医療的なものが置かれているのか、目隠しのカーテンで仕切られていた。窓が開けられているため、風にカーテンが揺れている。
中央の壁の前に置かれた大きな寝台に、初老の男がいた。枕を腰に当て、それに支えられるようにして上体を起こしている。
「ダイル・グレッドにございます。リューベルト殿下には、このように不浄なところにお越しいただき、まことに心苦しく思っております」
ダイルが、できうる限り頭を低く下げた。
「よい、やめてくれ……! 私は、ヴィオナ殿とシンザ殿とセス殿に、命を救ってもらったんだ」
父は伏せっている、とヴィオナは言った。その時漠然と想像していたより、目の前のダイルはひどく病んで見えた。
ディーゼンやアダンよりずっと年上とはいえ、髪色はずいぶん白く変わっており、顔色も青白い。
リューベルトが最後にダイルを見かけたのは、二年前のキュベリー侯爵夫人の葬儀だ。他の貴族よりひと際大きくて逞しい、とても強そうな壮年の騎士という印象が残っていたが、今は違った。リューベルトに会うために、寝間着の上から騎士の正装を羽織っているが、やせ細った身体は隠しきれていない。
「ダイル殿……本当に、起きていて大丈夫なのか」
「見苦しい姿で恥ずかしい限りですが……お気遣いは無用です。これは寿命というものですよ」
ダイルはリューベルトに向かって微笑んだ。相手が抱いた不安を包み込んでしまうように、とても柔らかく、温かく。
ナリーに促され、リューベルトはダイルの近くに置かれた椅子に座った。
そばに来ると、ダイルはやはり大きかった。たぶんシンザと同じくらいの身長だろう。骨格が大きいだけに、肉が削げ落ちた身体は痛々しかった。
ダイルの実年齢は知らないが、寿命というほどの高齢ではないはずだ。どんなに強健な身体を誇った者でも、病の前では人は平等だということなのか。
ダイルはリューベルトのほうを見ながら、ゆっくりと微笑みをしまった。
「ヴィオナからおおよそのことは聞きました。皇帝陛下と皇后陛下、そして殿下の御身に起きたこと……。そして娘たちを信頼して話してくださったことも」
道中、リューベルトはヴィオナたちにすべてを話していた。海の塔のことも、ルイガンとのやり取りも。
「信じてくれるか。ダイル殿」
「信じます。すべて」
少しの間も空けず、ダイルは返答した。
リューベルトは膝に置いていた両手を、きゅっと握った。ヴィオナたちが来てくれたのは、ダイルの指示が発端だと聞いていたが、信じると直接言ってもらえるのは、こんなにもほっとするのだ。
「ありがとう……感謝する」
ダイルは再び微笑んだ。
その微笑みに、ディーゼンの姿が重なる。顔も体格も似たところはないけれど、リューベルトは父親の面影を見ていた。
いや……見たかったのかもしれない。
「ダイル殿。私は……どうすればいい」
大人になり切っていない声は、少し震えてしまった。
リューベルトは、逃げた。殺されたくない一心で。妹のことも、自分のせいで失脚したアダンのことも、帝都に置き去りにして。
助けてもらっただけでありがたいのに、ダイルにこんな問いまですべきではない。こうしてくれと依頼するならまだしも、甘えにもほどがある。
皇太子としてはそう思う。
しかしリューベルトには、どうしたら良いのか何も浮かばなかった。信じてくれる者のいない城へ帰ることなど、考えただけで身が竦む。
「ただ……休息を」
ダイルは静かに答えた。
「私たちは、今は静かに状況を見極めることしかできません。焦燥感にかられておられるのは、ご理解申し上げますが……帰城なさるのは、極めて危険です」
リューベルトの心臓がびくりとした。ダイルの表情が初めて厳しいものになった。
「城はロニー・ルイガンに落とされたも同然。お戻りになるとしても、まだ、今ではありません」
「しかし……リミカがいるんだ。キュベリーの名誉も貶められてしまった……」
「殿下とリミカ様では明確に違います。リミカ様は何も見ておられず、まだ幼くていらっしゃる。政治方針をお決めにはなれない。ルイガンの邪魔にならないのですから、手をかけることはないでしょう」
フェデルマを力強く導き、成長させてきた皇家を、民は畏敬してきた。
そんな中で、たった五年で御代が終わってしまったディーゼンは、民からもっとも愛された皇帝だった。
ディーゼンと家族の相次ぐ死に次いで、ついに幼い皇女までとなれば、誰の目にも偶然の悲劇とは映らなくなってしまう。不信感はフェデルマの体制を弱め、内乱を生む。それこそザディーノやネウルスに付け込まれる隙となる。それはルイガンが絶対に避けたいことのはずだ。だからこそアダンのことも、命は狙わなかった。
「アダン殿は、ご自分のことにも覚悟を持って動いておられたはず。殿下がご案じ召されることではございません」
「そんな――」
「アダン殿の忠義をお信じください。彼は、そういう男です」
だからこそディーゼン様の宰相に推薦したのです、と言ったダイルは、表情を解きほぐした。
キュベリー家とグレッド家は昔から親交が深いため、十歳以上年下のアダンが幼児の頃から、ダイルはかわいがってきたのだという。アダンが剣術や馬術の手習いを本格的に始める頃には、ダイルは成人した帝国騎士だったので、請われて手解きもした。
勉学にもとても真面目に取り組んでいたアダンは、自分よりよほど宰相に適していると、ダイルは確信していた。
義父になるはずだったアダンのことを、まるでまだ子どものように語られると、リューベルトにとっては強い違和感があった。でも懐かしそうに話しているダイルの話は、リューベルトには知り得なかった内容で、なんだか面白くなって聞き入ってしまった。
それが、ダイルがリューベルトのピンと張りつめた心を、解きほぐすために話しているとも気づかず。
ナリーも口元をほころばせながら聞いていたが、夫の話が一段落したところで、部屋を出ていった。リューベルトにイゼル城の案内をするのに、年が一番近く、すでに数日をともに過ごしているシンザを呼びに行ったのだ。
ダイルは目を細めた表情のまま、リューベルトを見つめた。
「殿下と直接お話をするのは初めてですが……ディーゼン様と似ておられますね」
「そうだろうか。自分では思わないが」
「その柔らかいご気性のことです。お姿はベネレスト様に似ておいでです」
「ああ……そうだな。祖父似だと、よく言われる」
烈しい気質の歴代皇帝の中でも、特に厳しい性格だったという先の皇帝。
七歳まで会ったこともなかった祖父。
ロベーレに暮らす息子ディーゼンの顔を、見にも来なかった人だ。




