五、東へ
セスの馬に大方の荷物を移し、リューベルトはシンザと相乗りさせてもらっていた。どこかの町で馬を購入できるまでは、こうするしかない。普段から大柄なシンザを乗せているだけあって、体が大きくて筋肉質な、見たことがないほど立派な馬だった。
リューベルトの身の安全を第一にしているので、魔獣が現れてもシンザはそこから距離を取ることを優先し、ヴィオナが馬を降りて退治していた。最初は気が引けたリューベルトだったが、ヴィオナの危なげない戦いを目の当たりにするうち、そんなふうに心配することも無意味だとわかってきた。
「シンザ殿、少し話しても良いか」
足元が悪く魔獣も多い森を抜け、木々の少ないところに出て落ち着いたところで、リューベルトは後ろを振り返った。
「はい。いかがなさいましたか」
「ヴィオナ殿とシンザ殿のことを、どこかで見かけたことがあると思っていたのだが、思い出したんだ。昨年と一昨年の模擬戦大会で、三人そろって二連覇を達成した兄弟だろう?」
帝都ではほぼ毎年、腕に覚えのある騎士が集まる、勝ち抜き戦の大会が行われる。部門は四つに分かれていて、成人の騎士の部と女性騎士の部、未成年の少年の部と少女の部となっている。そのうち少女の部以外を二年連続で優勝した三人が、確か全員同じ家の子息子女だった。
成人の部の優勝者は皇帝が、未成年の部では皇后が直接表彰する。表彰式ではリューベルトも近くにいたため、言葉を交わすことこそなかったが、顔は合わせていたのだ。
「ええ、そうです。覚えていてくださったのですね。表彰してくださった皇后陛下からは、温かいお褒めの言葉もいただきました」
「……え? ああ……そうか」
兄弟三人とも優勝したのだから、成人の騎士の部で優勝したのはグレッド家の長男で、二男だと言ったシンザは少年の部の優勝者に決まっている。
いろいろとあり過ぎたせいか、せっかく思い出したことも、頭の中でまとめられていなかったようだ。リューベルトは意外に感じながら、改めてシンザの顔を見た。
「シンザ殿……未成年だったのか」
「……あの時は、です。今年の初めに、成人しました」
そう答えたシンザは、苦笑いだった。
十三歳の自分より彼はもっと年上だと、リューベルトは漠然と思っていたのだが……確かにシンザの顔にはまだ子どもっぽさがある。たった二歳差だったのか。
並走する馬の上で、ヴィオナとセスが可笑しそうに吹き出した。
「見えませんよね。シンザ様はその体格ですから」
「これでも弟は、一度目に優勝した二年前は、私と同じくらいの背だったのですよ。それからどんどん伸びてしまって、今では私でも弟に見えないくらいですよ」
「顔面だけで見れば、まあまあ子どもなんですけどねえ」
二人は笑っているが、シンザはあまり笑っていない。
リューベルトは、少し申し訳ない気分になった。
「すまない。無神経なことを言ったか」
「いいえ。姉たちなら、いつものことです」
少し拗ねたような彼の苦笑いは、まだ子どものそれだった。
グレッド家の三兄弟は、昨年も、一昨年の大会でも、他を圧倒する強さを見せていた。階段状になっている観覧席で、一番高い位置の皇家の席からそれを見ていたリューベルトは、もっと近くで見たいとはしゃいで、イルゴに窘められたものだった。
優勝を決めた瞬間でも特に喜びを表さなかった彼らのことを、少し冷たいくらい冷静な、孤高の騎士のように捉えていた。でも今目の前でセスと同じ一般の民のように笑う彼らからは、冷たさなど少しも感じなかった。
「これ以上行くと、山火事のあった山へ出てしまいます。そろそろ北へ進路を取りましょう」
川の上流である東には騎士と追跡者がいたため、ヴィオナたちは下流の西へ進むしかなかった。南に行くと帝都方面へ戻ってしまうので、北からこの山を大回りして東へ進み、グレッド領へ向かう。
すでに夕方だ。宿を求めるとするならば、もともとリューベルトが今晩宿泊する予定だった町しかないが、そこには捜索が来る可能性が高いため、断念せざるを得なかった。セスが一人で買い物にだけ入り、あとは視界がなくなるまで可能な限り東方面へ進んだ。
今夜は野営となる。ヴィオナたちは驚くほどの手際の良さで準備を済ませると、遠慮がちに焚き火からも離れ、少し顔を強張らせているリューベルトを振り返った。
「私どもが交代で見張りに当たりますから、殿下はお休みになってください」
町に泊まらないのはリューベルトのためであるのに、野営ではお寛ぎいただけないでしょうが、とヴィオナたちは申し訳なさそうに言った。
せめて自分も交代で見張る、とリューベルトは申し出ようとして、口を閉じた。彼は見張りなどしたことがないのだ。騎士の鍛錬は受けているが、実際に魔獣と戦ったこともない。そんな彼に、一人で見張りを任せられるはずもない。断り方に気を遣わせるだけだろう。
「本当にありがとう。……休ませてもらう」
セスが購入してきた毛布を受け取ると、リューベルトはずっと立っていたその場に腰を下ろした。
ヴィオナが焚き火を示して声をかけた。
「まだ夜中は冷えます。もう少し暖かいところへどうぞ」
「いいや。……私はここで大丈夫だ」
「ですが……」
「いいんだ。私は、暑いと……眠れないんだ」
リューベルトは毛布にくるまり横になってしまったので、ヴィオナたちもそれ以上勧めてこなかった。
屋外で眠った経験など、リューベルトの今までの人生で一度もなかった。草むらでは虫が鳴き、どこか高いところからはフクロウの声もする。寝心地は硬く、おまけに周りを囲むのはまだよく知らない者たちであるというのに、不思議と彼は安心感に包まれるのを感じていた。
海の塔の火災から、起きている時も眠る時も、そばに敵がいるという警戒心から、常に焦心していた。それがいつの間にか氷が溶けて消えるように、すっかりなくなっていた。
ヴィオナたちの心配をよそに、リューベルトは横たわってから程なく深い眠りに落ちていった。
皇太子が小さな寝息を立てているのを確認すると、三人は改めて焚き火のそばに座り直した。
「もしかしたら殿下は、火がお嫌いだったのかな」
「なんとなく、そんな感じでしたね」
「……両陛下は、塔の火災が原因だったのよね……。私、配慮の足りないことを申し上げてしまったのかもしれない……」
「それは仕方なかったですよ、ヴィオナ様。実際まだ冷えるんですから」
セスは軽く焚き火をつついてからその枝も焚べてしまうと、ヴィオナとシンザに話し始めた。
「実はさっきの町で、あの追跡者と思われる奴らを見つけました」
「そう、やっぱりいたの。なかなか動きが早いわね。護衛の騎士隊は?」
「いませんでした。どうやら両者には特に繋がりはなくて、本当にただの護衛だったみたいですね。騎士たちはヴィオナ様に、魔獣に噛まれる演技まで見せられたんですから、川の周辺に絞って捜索をしているのかもしれません」
「両者に繋がりはないと思える、何かを探れたの?」
「はい。少し盗み聞きを」
セスは、子どもらしい寝顔をして眠る皇太子を見やった。
「皇太子様は……逃げて正解だったと思いますよ」
それほど大きくない街道町は、帝都を出発してきた者やこれから向かう者、そういう商人や旅人の滞在客で賑わっていた。
そんな中でセスは、黒い外套を羽織った二人組を見つけた。山の中では遠くて顔を確認することはできなかったのだが、二人揃って真っ黒な外套というのは、冷静に見ればかなり浮いている。おまけにこの二人はたくさんある露店には目もくれずに、誰かを探しているように、ちらちらと行き交う人の顔に目をやっていた。
あの追跡者たちは、ヴィオナたちに後ろから見つかっていたことに気づけていなかった。もし彼らが貴族の関係者だったとしても、平民のセスの顔を把握しているはずもない。人混みに紛れながら、セスは大胆にも二人の真後ろを歩いた。
「--おい、どうだ?」
「それらしいのは見当たらねえな」
「やっぱり子ども一人で辿り着くわけないよな」
「だろうなあ。だいたいあの急流に落ちたんじゃ、助かってるほうが不思議だろうよ」
その会話に確信を得たセスは、さらに聞き耳を立てた。目では周辺に仲間がいないのか探してみたが、山の捜索と手分けしているのか、町に来ているのはこの二人だけのようだった。
「手間が省けて良かったな。あの護衛ども、片付けるのは無理そうだったからなあ。あんな固い守り見たことねえぞ。仲間と合流してからでも、なかなか難しかったかもしれねえ」
「だな。一体どこのお坊ちゃんだったんだか」
「やめとけ。余計な詮索はなしだぜ」
「そんなのしねえよ。一応、最後に宿にも当たっておくか」
彼らは宿の主人に、顔が描かれた紙らしき物を見せ、こういう金髪の少年を見なかったか、と尋ねていた。主人は、よくわからないが金髪の男の子なら、と賑やかなロビーにいた一組の家族を指差した。もちろんその少年は標的ではないので、彼らは宿を出ると、町も出ていった。
「ヴィオナ様が疑っていた通りでしたね。奴らは暗殺を請け負っていた。ただ、対象の正体は知らされていなかったみたいです。俺もそうですが、普通は皇太子様の顔なんて見たことないですからね。似顔絵を渡されても誰だかわかりません。金さえ積めば何でもやる連中でしょう」
「自分の腹心の従者ではなく、そんな輩に暗殺を依頼したのか……政変を狙うような身分の人間が」
「素性を隠してお金だけを渡して依頼すれば、もし捕まっても足は付かないものね。騎士たちに返り討ちにされたとしても、どうせ強盗として捨て置かれるわ。依頼主は痛くもない」
「……反吐が出ますね」
三人はしんと押し黙って、小さな焚き火を見つめた。セスの言葉は悪いが、同じ気持ちになっていた。
皇帝に即位させたくないがために、最下層の犯罪者まで使って、リューベルトの命を奪おうとしていた。彼を守るために付き従う騎士たち諸ともに。
残念なことに、当たっていたのだ。当たってほしくはなかったダイルの悪い予感、そこから生まれたガレフの懸念、そしてリューベルトが抱いていた恐れも。
パチリと、焚き火に焚べていた乾いた小枝がはぜた。リューベルトが小さく身じろぎし、再び静かな寝息を立てる。
ヴィオナたちも休むことにし、初めはシンザが見張りに立った。
セスはすぐそこで横になったが、上級貴族の女性であるヴィオナは、枝に掛けた布で仕切った向こう側で眠りについた。見張りで起きているのが弟でも、セスや皇太子の前で寝顔をさらすわけにはいかなかった。
シンザは周囲に魔獣の気配がないか細心の注意を払いながら、リューベルトやアダンの敵に対する怒りを内に抑え込んでいた。
日が昇ると、野営したところからさらに東へと進んでいった。
リューベルトのぶんの馬や着替えは、昨日の街道町でセスが買ってきてくれていた。何も持たずに飛び出してきたため、すべて彼らに頼り切っている状態だが、おかげで今は一人で馬に乗り、他の三人と同じような服を着て、平民になりすますことができている。
次の夜からは、帝都からだいぶ離れたので捜索も来ないだろうと判断し、町に泊まった。
どの町も、皇帝と皇后の非業の死による動揺はもうほとんど収まっており、皇太子に関する話は何も届いていなかった。リューベルトは念のため顔をさらさないようにしたが、特に何事も起きなかった。
できるだけ人と会わないように、ヴィオナたちは整備された街道は選ばず、古い道や山道を使った。
帝国の東部に入った頃、リューベルトは寂しさを覚える光景を前に、誰にともなく聞いた。
「ここは、いつから人が住んでいないんだ?」
荒れた道の先にあったのは、とうに見捨てられたように見える、朽ちた建物の集まりだった。規模から見て、かつては農村だったのではないだろうか。
「私も存じません。十年以上は前のことでしょう」
すぐ横にいたシンザが答えた。
――この村が棄てられたから、道もこれほど荒れてしまっているのだろうか。
父に連れられて国内視察をしたことはある。そういった時やそれ以外でも、リューベルトが帝国内を移動する時は、必ず馬車を使い、街道を通った。
その街道から少し逸れると、景色は一変していた。ありのままの自然の山野が多いが、畑の跡地や、畜産の跡地も見かけた。かつては人の手で管理されていたが、打ち捨てられた痕跡だ。東に来るに連れて、そういう跡がより多い気がする。
――そうか。昔、戦が多かった地域か……
ここは建国時から領土内だが、もっと北に行くと、数十年前までは他国があった。それらの国を何代か前の皇帝が併合するまで、小さな戦は絶えなかった。それによって次第に土地は荒廃し、ついには農民たちがここを放棄してしまったのだろう。現在に至るまで。
帝都を拠点に西部地方から支配下に収めていったので、東部に来るほど隣国との戦は長く続いていたということだ。
父ディーゼンは、こういう土地を救おうとしていたのだろうか。民が望んで棄てたのではない、国と国の争いの結果、荒れ果ててしまった大地を。
朽ち果てた村は、それを守っていたはずの木板の壁も壊れ、今や野生動物の棲家になっていた。それを狙った魔獣まで現れた。
その光景は、リューベルトの胸に強く残った。
フェデルマは広い。栄えている町はたくさんある。リューベルトが見てきたのはそういうフェデルマばかりだった。荒んでいる土地を見させてもらったことはなかった。
それはこんなに身近に、こんなにもたくさんあったのだ。




