三、偽装工作
ヴィオナはリューベルトの御前で膝をついた。淑女の礼ではなく、帝国騎士として臣下の礼を表した。シンザも姉に続く。魔導士のセスも不慣れながら、二人の真似をして跪いた。
「ご無事で何よりでございました、殿下」
「そなたは……」
「ダイル・グレッドの娘、ヴィオナにございます。こちらは我が侯爵家に仕える魔導士、セス・デュベルと申します」
挨拶を済ませると、ヴィオナはすっと立ち上がった。優しい微笑に人を惹き付ける魅力がある女性だ。化粧っ気はなく、少しつり上がっている茶色い目が印象的で、姉弟だというシンザとはそこが共通しているが、全体的にはあまり似ていない。ただ隙のない立ち姿は同様だった。
リューベルトはこのヴィオナのことも、見たことがあるような気がしていた。それがどこだったのかは思い出せないが、父やキュベリーと繋がるグレッド家と聞いたせいだろうか、彼らからは逃げなくても大丈夫だと感じていた。
「失礼ながら、殿下はどちらへお出でになるおつもりだったのですか」
「……それは……」
ヴィオナの声音は柔らかいが、リューベルトは無謀さを叱られているような気分になった。落ち着きかけていた鼓動がまた速まった。
「キュベリー領に、行けたらと……」
アダンは帝都で謹慎になっているが、きっとすぐ帝都を追い出されて領地に帰ることになる。アダンならば自分を迎え入れてくれると、それだけを希望に持っていた。
「いやいや……手ぶらで歩いて行けるような距離じゃないでしょう」
セスの呆れた呟きは、リューベルトの耳に届いてしまった。そのそばにいたシンザにも聞こえたので、セスはシンザに睨まれることになった。
ヴィオナはそれらを一切無視した。申し訳ないが、のんびり話し込んでいる時間はないのだ。
「アダン様を信用なさっているのはわかります。しかし、キュベリー家はおそらく、領地でも厳しい監視を受けるでしょう。ここで行方をくらませた殿下が、人知れずお訪ねになるのは、かなり難しいかと存じます」
「……それは」
リューベルトは俯いた。ヴィオナの指摘は、言われてみれば確かにその通りだろうと思った。あのルイガンが、宰相の地位を剥奪しようとも、アダンに監視のひとつも置かないとは考えられない。
「……そ、そうだな……」
「ロベーレへ向かわれるおつもりはないのですね?」
「嫌だ……絶対に嫌だ……! ロベーレには、辿り着けるかだってわからないんだ!」
「やっぱり、そう思って逃げたんですね」
セスが懲りずに呟き、シンザにますます睨まれた。
しかし今回は、リューベルトがセスに目を向けた。
「やっぱり……? どういう意味だ」
「あ、……えっと」
平民の自分が、皇太子から直に問われるとは思わず、セスは返答に困った。話して良いことと伏せておくべきことが、はっきりわからなかった。
ヴィオナに視線で問いかけると、彼女は、私が話すから、とセスを一歩下がらせた。
「時間がございませんので、単刀直入に申し上げます。私どもの父ダイルは、両陛下のご逝去について疑問を持っております。私たちがここへ殿下を追ってまいりましたのも、そのためです」
「グレッドが……?」
「ロベーレへご無事に到着なさるのを、陰ながら見守るつもりでおりました。しかし、殿下が父と同じ考えをお持ちで、身を隠されることをお望みなら、私たちがお手伝いいたしましょう」
「本当に……わかってくれるのか? 父上と母上は、殺害されたのだと……!」
「それは辛いことですが、殿下がそうお考えならば、私たちは信じます」
リューベルトは思わず目頭が熱くなった。ほとんど会ったこともないグレッドが、突然理解者として現れてくれるなんて。父と母が息子を救けるために、彼らを呼んでくれたような気さえしていた。
「姉上。殿下をグレッド領にお連れするのか」
「お兄様には事を荒立てるなと言われたけれど、今から無理やり殿下に馬車へ戻っていただくことはできないでしょう?」
「それはもちろん――」
シンザは、川べりで休憩していた時のリューベルトの様子を思い出した。彼は、いつどうやって命を奪われるのかと、絶えず気を張り、怯えていたのだ。こんな無茶な逃亡を決行するほどに。
「それなら、早くここを離れよう。護衛の騎士や、多分あいつらも、探しに来る」
「あいつら? ……誰のことだ?」
「実は、殿下の隊列を見張っていた者たちがいたのです。何者なのかはまだわかりませんが」
リューベルトはぞくりとした。
きっとルイガンの手の者だ。
その見張りたちは、何の役目を負っているのだろう。ただリューベルトの居所を、正しく把握しておくことだけなのか。それとも道中でも、宿泊する町でも、ロベーレでも、どこでもいいから隙を見て――
あの隊列の中に一人でもその仲間がいれば……いや、いなくても、簡単なことだ。何も持っていない子どもを手にかけることなど。
リューベルトには、自分が立つ足元の先が真っ暗に見えた。
——ここから逃げても、この先どこまで追われるのだろう……
「馬の割り振りはどうしますか」
「そうね。殿下には、シンザと一緒に乗っていただきましょう。それが一番安全だと思うわ」
「ヴィオナ殿」
リューベルトは暗い顔で、動きかけたヴィオナたちを引き止めた。
「私を、……死んだことには、できないだろうか。そういう証言を、してくれないか」
「――何をおっしゃるのです」
「逃げただけではおそらく……だめだと思うんだ。私は皇太子だ。皇太子が行方不明とあらば、やろうと思えば帝国中のどの貴族家だって、強制捜索の対象にできる。キュベリー家だけじゃない。いずれグレッド家にも捜索の手が来るだろう。そうなったら、ダイル殿にどういう罪を着せてくるかわからない」
アダンの偏った判決の例がある。きっと、強引にでも力を奪い取られる。
「私たちの父は、そんなことにはなりませんよ」
「いいや、頼む! 川に落ちるところを見たとでも証言してくれ。ヴィオナ殿やシンザ殿にはできなくても、そなたなら、できるのではないか」
リューベルトはセスの顔を見つめていた。
ヴィオナやシンザは、表立ってこの件に関わるべきではない。でもセスならば、見たところ貴族の生まれではないから、リューベルトを隠していると勘ぐられたり、罪をでっち上げられて家を潰されるほどの危険はないのではないか。
「お、俺ですか……」
「ですが、セスも……グレッド家が雇っていると知られれば、疑われるかもしれません」
「ええ、そうですね……彼自身の取り調べはされるでしょうから」
「俺は魔導士ですからね。雇い主が誰かなんて、すぐに割れてしまいますよね」
「っ……。それでは、無理なことだな……。浅慮な発言だった……撤回する」
落ち込むリューベルトを見て、ヴィオナは元いた方向に目をやった。まだ誰も来ていないことを確認し、それからすぐそこを流れる川と、シンザとセスを見比べた。
「――いえ……叶えて差し上げましょう。確かにそのほうが、今後追われる可能性は低くなります」
「えっ、証言するんですか」
「それはやめておくわ。そうではなくて、川に落ちるところを護衛隊に目撃してもらいましょう。セス、溺れた人間をすくい上げることはできるでしょう?」
「まあ、水の魔導士ですから」
「殿下に、本当に川に転落していただくのか!?」
「まさか。外套をお借りして、シンザがやるのよ」
「……ああ。なるほど」
シンザはさっと自分の外套を脱いだ。
それをリューベルトに差し出しながら、お借りいたします、と言って反対の手も差し出した。
「……シンザ様……無理ですって……」
ヴィオナの斜め後ろで、セスが顔半分を手で覆いながら、大きなため息をついている。
「なんだよ、セス。できるさ。足を滑らせる感じで落ちればいいんだろう? 俺を引き上げるのがそんなに難しいのか?」
「いや、できますよ? それはできますけど」
セスの顔は、主人に対してふてぶてしいほど呆れ返っている。その程度のことでいちいち苛立つシンザではないので、リューベルトが戸惑いながら肩から外した外套を受け取って、さっと羽織ってみせた。
「だから、シンザ様がやっても無意味ですよ。皇太子様に見えませんから」
「……あ」
リューベルトの品位ある長い外套は、シンザの膝上までしかなかった。リューベルトは特に小柄ではなく年相応の身長であるのだが、シンザが大きすぎた。体格もあまりに違う。フードで頭部を隠しても、まるで子どもの外套を着た大人のような見かけでは、薄暗くてもごまかせない。
「姉上、無理だ。殿下じゃないと判断されたら意味がない!」
弟が見せた後ろ姿に、ヴィオナは眉間に深いしわを寄せた。本当に、まるでリューベルトを装えていなかった。
それはセスがやっても同じだろう。シンザと違って細身だが、彼も身長は高いほうだ。
「だから、やるならヴィオナ様ですよ。お二人なら似てますよ、多分。ついでに髪色もちょっと近いし」
「えっ、私?」
セスに言われたヴィオナが改めてリューベルトを見ると、なるほど似たような体格だった。髪も、シンザはガレフと同じ灰茶色だが、ヴィオナは金茶色で、少しはリューベルトに近い。
性別が違うので自分のことを考えに入れていなかったが、後ろから見た体格が似ていれば良いのだ。
「わかったわ、私がやる。さあ急ぎましょう! きっと彼らも、殿下がいらっしゃらないことに気がついて、探している頃よ」
ヴィオナはまとめた髪を襟に隠し、リューベルトの外套をまとった。ふくらはぎから下は見えてしまうが、ちょうど草が隠してくれている。
セスは馬に乗り、川下へ急いだ。追手から見えないところまで行き、流されてくるヴィオナを引き上げなくてはならない。
川近くの位置についたヴィオナから合図を送られたリューベルトは、川上の騎士たちへ届くよう、息をいっぱいに吸い、大声で叫んだ。丸腰で魔獣に出会ってしまった恐怖を想像した悲鳴を、と助言されていた。
それを済ませると、リューベルトとシンザもそれぞれ馬を走らせた。セスと、これから川に飛び込むヴィオナと合流するために。
一人残ったヴィオナは、木陰から上流方面を広く窺っていた。こちらへ来る人影が見えたら、あたかも魔獣に追われているように川べりへ飛び出し、足を滑らせる演技をする。
髪色が多少似ていてもやはり違うし、何より間違って顔が見えてはいけないので、結局フードは深く下ろしていた。
——ついでに監視者のほうも見ていてくれると、より効果的でありがたいのだけれど――
その時殺意の気配を察知し、ヴィオナは背後を振り返った。これは……人ではない。魔獣だ。
愛用の細剣は、万が一鞘から抜けて川に流されては困るので、シンザに預けてしまった。そして今はみんな川下へ行ってしまい、彼女は一人きりだ。
ちょうど上流からは、皇太子を呼ぶ騎士たちらしき複数の男性の声が、荒々しい水音の合間に聞こえてきた。
魔獣から逃げることも、騎士たちに助けを求める状況でもない。
それなのに彼女は、にやっと笑顔を浮かべた。
——なんて幸運なの……! より確実に死んだように見せかけられるじゃない!
ヴィオナは素早く、服の中に入れていた短剣を抜いた。そんな小さな剣でも、やすやすと手近な太い枝を切り落とすと、ちょうどよい長さに整え、左手で握りしめた。
川のそばをこちらへ走ってくる、何人かの騎士の姿が見える。反対からは、じりじりと距離を縮めていた魔獣が走り出した。
「さあ、みんな、こっちよ!」
短剣と枝を外套の中で構えたヴィオナは、木陰から川辺へ出た。後方の遠くから「殿下!」と呼ぶ声が聞こえる。一方の狼の魔獣は、左手の薮から、走るヴィオナの首元をめがけて飛びかかってきた。
ヴィオナの目はその動きを冷静に捉えていた。焦らず充分に引き付け、牙が喉に届くぎりぎりのところで、魔獣の口に枝を入れこんで噛ませた。それとほぼ同時に、右手の短剣を毛皮に突き立てる。苦しませぬよう、そして背後の人間から見えぬよう、腹側から心臓へ垂直に。
力強く跳躍していた魔獣の体の勢いは、死しても止まりはしない。足を滑らせる演技は取りやめ、ヴィオナはその勢いに身を任せた。抵抗することなく、倒される。
狼を抱えるようにして、ヴィオナはあっけなく渓流にのまれた。




