ニ、追跡者
帝都の北部で山火事があったことは、領地にいた時にすでに聞いていた。
ロベーレへ行くなら、通常はその山の麓を抜ける街道を選ぶ。しかし火事によって、道が寸断している可能性は高い。他の道を通るはずだ。
昼に皇太子一行が出発したのなら、今夜の宿として、北西にある港町では遠すぎる。ならば宿泊する予定なのは、内陸にある街道町だろう。山火事の被害はなかったと聞く。帝都からやや東寄りの北方向にあるため、そこへ行くなら焼けた山の東南の、別の山中を通り抜けるつもりだと思われる。魔獣は多いだろうが、護衛隊がついていればまず問題はない。
ヴィオナとシンザは、場合によっては野宿もやむなしと考えていた。できれば一行と同じ町の宿に泊まりたいものだが、グレッド家の娘と息子が、なぜか勝手に皇太子を追行していると知られるのは良くない。状況を見て、町には入らず野宿になっても困らないように、少し多めに荷物を準備をした。
馬に乗り、一般の旅人風の外套のフードで顔を隠し、とにかく目立たないよう注意して、まだ来たばかりだった帝都を出発した。
街道上に出ると、ヴィオナとシンザと、彼女たちが連れてきた従者は馬を走らせた。従者の青年の腰には剣がない。ほとんどの子どもが騎士に憧れるこの大陸で、彼は剣も槍も扱えないのだ。
「随行するのは、俺だけで良かったんですか?」
「ええ。一番避けなければいけないのは、目立つことだもの。騎士は私とシンザで足りているし、何があるかわからないから、魔導士がいたほうが心強いわ」
魔導士の青年セスは、ガレフと同い年である。平民であるが、十二歳の時からグレッド家の城に暮らしているため、ガレフたち兄弟と仲が良い。
魔導士になれるのは、生まれつき魔力を持っているほんのひと握りの人間のみである。非常に稀な才能であるため、その存在は各国とも国が管理している。ほぼすべての魔導士は、その出自が貧しくとも関係なく魔法修練所に入り、何年もかけて学んだあと、故郷の領主か国に雇用されているのだ。
セスも、グレッド侯爵に直接雇われている身だ。今回も侯爵に言われ、ガレフたちとともにイゼルから帝都に来ていた。
「ごめんなさいね。久しぶりの帝都だったのに」
「そうですねえ、商業用街区巡りを楽しみにしていたんですが」
セスは遠慮なく本音を言う。彼にとってヴィオナやシンザは主と同等であり、遥かに上の身分だが、普段はそんなことを気にしない仲だ。
彼は残念そうな表情を、すっと引き締めた。
「いくら俺でも、国の一大事は見過ごせませんよ」
国防の最前線であるグレッド領で暮らすセスは、帝都に住む平民よりよほどこの大陸の現実を知っており、愛国心も強い。それ以上に、グレッド家のことが単純に好きだった。
「ありがとう。とにかく殿下の御一行に追いつかなければね」
「しかし、信じられないですね……政変だとか、皇帝の暗殺だとか。まさか自分の国で起こるなんて」
「ええ……私も信じたくない話だわ。……また領土拡大路線に戻ってしまうのかしらね。せっかく昔の戦場跡の農地化が、本格的に始まるところだったのに」
ヴィオナは少し悲しそうな声で答えたが、目はまっすぐに先の山を見ていた。
この国が向かう先もとても気がかりだが、今すべきは皇太子リューベルトの身の安全の確保だ。
山中の街道の土には、いくつもの車輪の轍が見て取れる。馬の蹄の跡も同様だった。このどれかが皇家の馬車のものであるのか、判断するのは難しい。
「姉上、あれ!」
退治されたばかりの、魔獣だったと思われる動物の死骸を見つけたシンザが、そばへ確認に行った。腕の良い騎士によるものと思われた。しかし、皇太子の護衛騎士か、商人が旅路の自衛に雇った傭兵騎士なのかは、これだけでは区別がつかない。
「誰か来たら、聞いてみるしかないわね」
皇太子一行は身分は隠しても、隠れて移動しているわけではないのだから、目撃はされているはずだ。
早速前から来た旅の者に、セスが声をかけた。馬車の特徴と、騎士が何人かで守っているはずだと伝えると、旅人はすぐに思い当たった話をしてくれた。
「よし……! 当たりですね」
「良かったわ。急ぐわよ!」
三人は再び馬を走らせた。
帝都から近い土地とはいえ、かなり山深いのに、不思議なほど魔獣に出会わなかった。ヴィオナとシンザは相当数の魔獣の襲撃を覚悟していたのだが、周囲が静かなおかげで、思った以上に早く先へ進める。
「皇太子様の護衛騎士たちが、駆除してくれたんですかね」
「おそらくそうでしょうね」
景色に影が濃くなってきた。日が傾いてきている。
街道の幅が広く、見通しの良い緩やかな下り坂の遥か前方に、小さな隊列らしきものを見つけたのは、そんな頃だった。
「見つけたわ! あれがそうじゃない?」
「あんな整った隊列を組むなんて、ただの雇われ騎士じゃないですね」
「それに、商人にしては人数が多いから、きっとそうだ」
皇太子一行に存在を認識されたくない三人は、街道の右手の草木生い茂る中に分け入った。追いついて、少し後方の遠くから見守るつもりでいた。
「待ってくれ、姉上」
街道を逸れてすぐに、先頭を進んでいたシンザが馬を止めて、ヴィオナとセスを振り返った。
「先客がいる」
「先客……って?」
シンザが指差す方向を、ヴィオナとセスは注意深く見やった。うっそうとした草木の向こうの暗がりに、人馬の影らしきものがわずかに見えた。シンザに言われなければ、まだしばらくは気がつけなかっただろう。
「シンザ様、この暗さの中であんなの、よく見えましたね……何人かいるのかな」
「四人は確認できる。まだその奥にもいそうだな」
「だから、なんで見えるんですか……」
「シンザの目の良さなんて、今はいいのよ。問題はあれが何者かでしょう」
ヴィオナはシンザに並んでじっと目を凝らして見てみたが、残念ながらセスと同じ感想になった。少し異様な真っ黒の外套を着ているのはわかるが、本当に四人いるのかも見えなかった。
「シンザ。あの者たちは、どこを見ているの?」
「殿下の一行の方角だと思う」
「やはりそうなのね。私たちは気づかれていないと見ていいかしら」
「一度もこちらを見ないから、多分ね」
「じゃあ、このままどちらにも勘付かれず、両方とも監視したいわね」
「ということは……ヴィオナ様はあいつらを疑ってるんですね」
陰ながら皇太子を護衛している一団だと、考えられなくもない。馬車の主が皇家だと知られると、余計な危険が増す。大仰にしないために、護衛の一部が隠れているだけという可能性はある。
けれどそれなら、前後にでも広く距離を取って、他人のふりをすればいい。ヴィオナは、あの者たちは皇太子の見張りか、最悪の場合は暗殺を目論む者だとみていた。
街道を行く皇太子の一行と、それを山中から窺う者たちと、さらにその両方を窺う者たちという、奇妙な状態でしばらく行進が続いた。
緩やかな下り坂の先には、川が流れていた。皇太子と護衛の一行は、その川に架かる橋を渡る前の平地で、馬車を停めた。騎士たちが隊列を崩す。休憩を取る様子だ。
監視者たちはかなり手前で止まった。
「これでは殿下が見えないわ」
休憩ならば、皇太子も外へ出てくるかもしれない。
まだ皇太子を一度も視認していないヴィオナたちは、ここでその身の無事を確認しておきたかった。そっと、街道の左手の山中へと移動し、他にも監視者がいないか、先頭のシンザが周囲をくまなく見回しながら、馬車へと近付いていく。
川で剣や手を洗う大人たちの中に、明らかに騎士の出で立ちではない金髪の少年が見えた。手を洗うでもなく、小さく膝を抱えている。
「リューベルト殿下だ! 良かった……無事でいらっしゃるみたいだ」
シンザの小さく抑えた歓声に、ヴィオナとセスは皇太子を見つける前にひとまずほっとした。馬を降り、身を隠しながら、見つからない程度に近寄っていく。
「あれが皇太子様ですか」
セスは初めて見る次期皇帝のはずの少年を、まじまじと眺めていた。落ち着かない様子で、周囲の大人の動きを目で追っている。
「……なんだか、怯えてるような様子ですね。魔獣というより、周りの人間に」
「もしかして……ご自分でも、御身の危険を感じてらっしゃるのかしら」
もしも皇太子が、ヴィオナたちの父親と同じことを考えているとしたら。自分の両親の死を、事故ではなく暗殺だと思っているのだとしたら……どれだけ怖い思いをしていることか。
——お可哀想そうに……
実弟よりも年下でまだ子どもの皇太子に、ヴィオナは胸を痛めた。しかし、想像の域を出ない話である今は、表立って手を取りに行くわけにもいかない。できるのは見守ることだけだ。
川の上流である街道の右手側で、凶暴な鳴き声がした。皇太子の周りの騎士たちが腰を上げ、魔獣駆除に向かう。
それを見た皇太子が、何やらおかしな行動を取り始めた。
「ちょっと……あれ、まずいですよ!」
セスが声を押し殺したままで慌てる。
皇太子が、背を向ける騎士たちに悟られないよう、じりじりと一歩ずつ、川下へ一人で動き始めたのだ。
「まさか、お逃げになるおつもりなの?」
「こんな山の中で?」
そんな無謀な、とセスが言おうとした時には、皇太子は走り出してしまった。
「嘘だろ!?」
川下の森へ走る皇太子を追いかけようと、ヴィオナとセスが急いで立ち上がった時には、隣にいたはずのシンザの背中は、すでに小さくなっていた。
下流に行くにつれて、少しずつ土地が低くなる。山の谷間へ続いているのだろう。幅の狭まった川の流れはますます速く、水音は大きくなった。
起こされる風圧に草が先に避けるほどの勢いで、シンザは山の中を疾走した。川べりに近いところを走る皇太子と、ぐんぐん距離を詰めていく。一瞬後ろを確認すると、騎士たちどころか、姉たちの姿も見当たらなくなっていた。
これならいいかと、シンザはさらに足を速め、木々の間から一気に皇太子の背後へ躍り出た。
「――!?」
リューベルトが突然真後ろに現れた足音に驚いた様子で、小さな声を上げた。何が出てきたのか彼が振り返って確認さえできないうちに、シンザは皇太子を捕まえてしまった。
たった今逃げ出してきた身でありながら、リューベルトが思わず悲鳴を上げそうになったところを、シンザは素早く皮膚の硬い手のひらで口を塞いで止めた。
シンザは片手で抱え上げているが、リューベルトの全身を使った抵抗はまったく効かなかった。
「大変なご無礼をしておりますこと、どうかご容赦ください。しかしながら殿下……剣もお持ちにならずに、このような山中に一人で飛び出されるとは、あまりに危険でございます」
捕らえているリューベルトにとっては、得体の知れないこの大きな男は、とても味方だとは思えていなかった。殿下と呼ばれたということは、ただの通りすがりの人間ではない。暗殺者がここにいたのかと、絶望的な気分になっていた。
――けれど、顔をのぞき込んできたこの大男に、リューベルトは見覚えがあるような気がしていた。
「私はシンザ・グレッドと申します。ダイル・グレッドの二男です」
シンザの名乗りに、リューベルトはぴたりと動きを止めて、目を見開いた。
瞳から怯えが消え去り、おとなしくなったのを見て、シンザは彼の口を塞いでいた手を離した。もう叫ばれはしないと思えた。
「グレッド……。ダイル・グレッド侯爵か……? 以前宰相も務めた?」
「そうです」
「帝国の盾の?」
「そうです」
「その……子息?」
「はい。あの……申し訳ありませんでした。手を離します」
リューベルトの両足がゆっくりと地を踏んだ。
ダイル・グレッドが宰相をしていたのは、リューベルトが生まれる前のことだ。その後は年次報告くらいにしか帝都城に来ない侯爵だから、皇太子との接点はほぼなかった。
リューベルトが知っているのは、父がアダンを宰相に任命したのは、このダイルの薦めだったということだ。
ぼうっとした顔で直立しているリューベルトに凝視され、シンザは困ってしまった。素早く止めるためとはいえ、いきなり後ろから掴まれて抱え上げられたら、恐ろしがられても仕方ない。
「本当にご無礼をいたしました……お止めするにしても、もう少しやり方を考えるべきでした」
「いや……、助けてくれた……のだろう? だが、侯爵の子息がなぜ……こんなところに?」
「――シンザ! リューベルト殿下!」
そこにやっと、馬を三頭引き連れたヴィオナとセスが合流してきた。