九、帝都追放
心の健康を損なっているとされたリューベルトは、即刻療養に入ることになった。何もかもが勝手に決まってゆき、翌日にはもう馬車に乗って帝都を出立することになっていた。
行き先は、ロベーレというのどかな地だ。
ロベーレは帝都からずっと北方にある。かつて初代皇帝が統合した小国があったところだ。占領した土地の自然や宮殿の美しさを気に入った初代皇帝が、別荘として使うために皇家直轄のひとつにした地方である。
ディーゼンが青年時期からロベーレで過ごしていたため、リューベルトはここで生まれ育った。帝都に移り住んだのは七歳の頃だった。皇子としての本格的な教育もそれから受けた。
「どうして行っちゃうの? お兄様……」
出発時、リミカは泣きべそをかいて、リューベルトの袖を掴んだ。事情を知らないリミカは、今朝起きてから兄の突然の帰郷を聞かされたのだ。
「私も行きたい。ロベーレでしょ? ね、私も行く!」
「リミカ、ごめんな……連れていけないんだ」
やだやだ、と妹が流し始めた大粒の涙を、リューベルトは指で拭ってやりながら、もう一度ごめんなと言って、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「姫様、殿下はご病気が良くなられれば、すぐにお戻りになりますから」
侍女がそう言って、出発しなければならないリューベルトから、かなり無理やりにリミカを引き離した。
きっと城の者の多くが、この侍女と同じ認識なのだろう。皇太子はロベーレで心を休め、回復して現実を受け止めれば帝都に戻り、皇帝に即位する、と。
妹とはこれが今生の別れかもしれないと感じているのは、リューベルトだけだ。
別れ際、彼は懸命にリミカに微笑んでみせた。気を抜いたら、同じように泣き出してしまいそうだった。
皇女リミカの身も安全とはいえないかもしれない。でも犯人にはっきり敵対行為をしたリューベルトと一緒に行くのは、それよりずっと危険だ。
だからリューベルトは、ロベーレに随行するはずだったジグを置いていくことにした。彼は初めこの措置を、昨日の行動の報いと受け取ったようだったが、リューベルトはそうではないと伝えた。
「今のこの城で一番、腕と忠誠心を信頼できるのが、ジグだからだ。妄想に取り憑かれた私を安心させるためでいいから……リミカを守ると誓ってほしい」
ジグは皇女の近衛となった。今はそうすることが、リューベルトのためだと感じ取ったのだろう。
上級貴族の街区を通り過ぎる時、リューベルトは窓にすがって、キュベリー家の屋敷を見つめた。
謹慎という建前の軟禁状態にあるアダンは、昨日の抜剣騒動も、リューベルトがロベーレへ送られることも、聞かされてはいないだろう。
「キュベリー……本当に……申し訳なかった」
一人きりの馬車の中で、リューベルトは唇を噛み締めた。
キュベリー家はどうなるだろう。ルイガンはきっと、宰相の任を解いただけでは済まさない。もっと力を削ごうとするだろう。おそらくアダンも、帝都にはいられなくなる。
「すまない……本当にすまない……」
自責の念と悔しさで、胸が潰れそうだった。
「……エレリア……」
もう一度、会いたかった。
キュベリーの屋敷が、涙で歪んだ。
馬車はリューベルトの気持ちに関わりなく、変わらない速度で進んだ。下級貴族の街区から、帝都の大部分を占める平民の街区へと入っていく。
皇家が私用で外出する時に使うこの馬車は、目立たぬように装飾がごく少なくされている。外見だけでいえば、下級貴族や富豪の商人のものと変わらないくらいなので、通りすがった侯爵家の馬車のほうがよほど立派に見えた。
上級貴族の街区を抜けてからは、もう外を見るゆとりなどなかったリューベルトは、商業用街区との境にある城壁の門ですれ違った、その馬車には気がつかなかった。
しかし侯爵家の馬車の中の人物は、リューベルトが乗る馬車に目を留めていた。
彼は窓を開けて顔を出し、帝都の外へまっすぐに向かう地味な馬車の後ろ姿を、わずかに眉をひそめ、じっと眺めていた。
帝都を守護する堅固な城壁の外へ出た。馬車の周囲でたくさんの馬の足音がし始める。先に外で待機していた騎士の小隊が、周りについたのだ。
もちろん皇太子の護衛だが、リューベルトには監視のように感じられた。
——この中の誰が……何人が、ルイガンの息のかかった者なのだろう……
もしかしたら、全員そうなのだろうか。そんな恐ろしい想像をしてしまったリューベルトは、ぎゅっと身を縮めた。
あまりにも急に決まったことだったので、イルゴも随行していない。この静養は長期間と予想され、リューベルトが心を落ち着かせるためにも、身の回りのものの大部分を、ロベーレへ移動させることになった。イルゴはそれをまとめ、あとから来ることになっている。
ひとりぼっちのリューベルトは、壁にもたれかかって自分の肩を抱いた。
思い出したくもない昨日の出来事が、閉じたまぶたの裏に蘇る。
ルイガンに先手を打たれていた。リューベルトに呼び出されるよりも前に、すでに周囲の者たちは偽の真実を刷り込まれていた。
リューベルトが塔で見たことをあとから明かしたところで、もう遅い。怖くて言えなかっただけだ、これが本当のことなんだと訴えても、両親を突然事故で失った可哀想な子どもの、現実逃避の妄想と取られてしまった。
かたやリューベルトが帝都に来るよりも前から宰相だった男である。信用を奪い返すことは敵わなかった。必死に訴えるほど泥沼に陥り、皆から哀れまれてしまうだけだった。
おまけにルイガンの提案は、リューベルトに見切りをつけようというのではなく、故郷での休息を勧めるというものだったのだから、イルゴたちからすれば、これは主にとって「良いこと」なのだ。
もともと証拠がないのだから、彼らの認識を覆す方法なんて見つけられなかった。
——父上……母上……
温かい笑顔の両親。そして最後に見た、こと切れた両親の顔が浮かぶ。
自分も、ルイガンに消されるのだろう。
アダンのことは、命までは狙うまい。城内を掌握したといって良いルイガンから見れば、影響力と自由を奪ったアダンは、もう敵ではないのだから。
でもリューベルトは違う。ルイガンを敵視するただの子どもではない。最高位の身分にあり、やがて成長して大人になる。
皇家の血を引いている限り、それが持つ力と意味を無視はできないはずだ。この「追放」では帰還が前提となっている。間違っても帰って来て即位などしてほしくないはずだ。ルイガンが安心するためには、リューベルトは死ななければならない。
――嫌だ……
肩に、指先が食い込んだ。
——嫌だ……死にたくない……。父上と母上を殺したあの男に、このまま負けたくない……!
ロベーレに着いてからか、それともこの道中か。きっと突発的な事故でも装って、誰かがリューベルトの命を奪いにかかってくるだろう。その前に逃げなければ。
たった一人で。
山火事があった北の山付近へ続く道は避け、一行は東寄りの道程を選んでいた。こちらのほうがさらに緑が多い山地だ。
自然が豊かということは、自然魔力が強く、それを体内に澱ませて魔獣化してしまった動物も多いということである。
魔獣は、他の命を貪る。相手が人間であろうと、自分と同じ種の動物であろうと、区別はない。自分の命が尽きるまで、その本能のみで動く。魔獣化した動物が元に戻ることはないため、狩るしかない。
騎士団が時折り魔獣討伐を行うが、町外れや山菜採り、街道でも、人間が襲われることは珍しくない。フェデルマは平民でも剣や槍を扱える者がほとんどだが、死亡者は出ている。
リューベルトを囲む騎士たちは、魔獣退治をしながら進む形になった。
遠回りは計算に入れていたのだが、今夜宿泊する町に着く予定だった時刻が近付いてきても、まだ山の中だった。魔獣が異様に多いのが要因だった。
山火事に追い立てられて、動物も魔獣もこちらに流れてきているのかもしれないな、と外の騎士が話しているのが聞こえた。
川で休憩を取った。リューベルトも外套を羽織って、馬車から降りた。騎士たちは川下側で、魔獣の血で汚れた手や剣を清めている。小さな頃、田舎であるロベーレでもよく見た光景だが、今のリューベルトは血を見ただけで震えそうになり、目をそらした。
複数の動物の咆哮が聞こえた。騎士たちは、またか、と呟きながら魔獣を探して周囲に散った。
「殿下。念のため、馬車の中へご避難を」
隊長もそう言い残し、洗ったばかりの剣を抜いて馬車から離れていった。
リューベルトは、はっとした。
今自分の周りにいるのは、三人だけだ。魔獣を警戒して、リューベルトと馬車を守るように、こちらに背を向けて構えている。
……逃げられるかもしれない。
他の騎士たちが戻る前に、草木に紛れて、どこかへ逃げる。どう考えても無謀だが、いつどうやって殺されるかわからないリューベルトには、そちらのほうがまだ幾分ましに思えた。
音を立てないように、足元を確認しながら少しずつ後退する。どこか前方で魔獣が吠えた瞬間、リューベルトは後方の暗い森へ駆け出して、騎士隊から逃亡した。
討伐を終えた騎士たちは、皇太子は馬車の中に避難してくれているものと思っていた。
出発を告げようと、隊長がドアをノックした。そして、中に誰も乗っていないことに愕然とした。
事態に狼狽した騎士たちは、すぐさま捜索を開始した。皇太子は昨日城内で抜剣して暴れたため、護身用の剣さえ渡されていない。こんな森の中で、丸腰のはずだった。
遠くから少年の声が響いた。リューベルトの悲鳴だった。
隊長と他の数名がそれを聞きつけ、聞こえた方角である川下へと駆ける。
そこで彼らが目にしたのは――
川べりを走って逃げていた皇太子が、彼を追っていた狼の魔獣に外套の上から首元に噛みつかれ、その勢いに倒される後ろ姿だった。
皇太子は魔獣とともに川へ落ちた。一瞬水面が赤く染まったが、山の急流はすぐにすべてを押し流した。
隊長と若い騎士が、身に着けている重たい鎧を脱ぎ捨て、皇太子を追おうとした。しかし思った以上に川は深く、流れは速く、足をすくわれ泳ぐどころではない。危うく溺れかけてしまい、他の騎士に引き上げられることになった。
隊長たちは呆然と川下を眺めていた。
馬で川沿いを下りていった者も、暗くなるまで探したが、皇太子は見つからなかった。
誰も、リューベルトを救えなかった。
その報せは、キュベリー家にも届けられた。
自ら騎士隊から離れてしまったリューベルトは、魔獣に襲われて川に落ちた。首のあたりを噛まれたうえに急流にのまれたため、生存は絶望的である――
「……殿下が……お亡くなりに、なった……?」
リューベルトが帝都を出ていたことも知らなかったアダンが、ぼんやりとした口調で繰り返す。
城から来た使者は、港でもアダンを庇ってくれた新派の親しい者だった。彼の顔も憔悴している。
アダンを打ちのめすための、ルイガンによる虚偽の情報ではない。本当に、リューベルトは――
「……嘘」
隣でエレリアが、声を震わせて否定する。
「どうしてそんなひどい嘘をつくのですか。わたくしたちを驚かそうとご冗談をおっしゃるにしても、そんなお話……少しも楽しくありません」
「エレリア」
「もう結構です! お引き取りください!」
「エレリアッ……!」
使者に向かって激昂するエレリアの肩を、アダンの大きな手が包んでなだめる。
取り乱すエレリアに対して、深い同情をみせていた使者には失礼を詫び、帰ってもらった。
「お父様、あんなの嘘に決まっているわ! 殿下がお亡くなりになるなんて、そんなはずがないもの! 騎士たちが捜せていないだけよ!」
興奮状態で玄関へ向かおうとするエレリアを、父は抱きとめるようにして押し留めた。それでも娘は、腕の中で抵抗し続ける。
「わたくしが行くわ! きっと殿下はお困りだもの、わたくしが見つけて差し上げるから! だから放して、お父様――」
――ぽつ、と。
エレリアの肩に、何かが落ちた。
動きを止めたエレリアが見上げると、それは閉じられた父のまぶたから滲み落ちていた。
「……おとう……さま」
涙を見せることのない帝国騎士の父が、必死になって現実に抗おうともがく娘を抱きしめて、涙をこぼしていた。療養の末に母が亡くなった時でさえも、子どもたちの前では一度も泣かなかったのに。
それは、エレリアの虚勢を崩してしまった。認めまいとしていた現実は、その隙にエレリアの中にすべり込んできてしまった。残酷にも、胸の真ん中に。
「いや……違う……。どう……して……?」
堰を切ったように、涙が頬を流れる。
「どうして……どうしてっ……、どうしてええっ!」
号哭するエレリアの悲鳴のような声は、聞いた者の胸をきつく締めつけた。
第一章 終




