メリザンドの月と太陽1
毎日朝四時更新の全六話です。
公爵令嬢として生まれたメリザンドは、その立場に相応しくあるため、日々弛まぬ努力をしてきたと自負している。
類いまれな美貌といわれる顔の造形は、早生した両親由来のものかもしれないが、それを更に輝かせる努力は日々怠らなかった。
美しい肌、美しい髪、美しいプロポーション……それらはすべて日々の努力で維持してきたものだ。
その上で彼女は、見た目の美しさに驕らず、常に人目を意識し、一挙手一投足に神経を張り巡らせて、マナーも教養も他の追随を許さない完璧さを目指した。
そのために日々血の滲むような努力をしてきた、……否、今も続けていると胸を張って言える。
だからメリザンドは、義祖母のアリエッタが大っ嫌いだった。
まだ十八歳なのに、四十も年上のメリザンドの祖父の後添いに収まった伯爵令嬢アリエッタ。十三歳のメリザンドとは、姉妹といって差し支えない年の差しかない。
それでも彼女は、公爵であるメリザンドの祖父の妻で、書類上は祖母になる。
孫と姉妹程度の年の差しかない妻を迎えた公爵について、社交界では一時期随分と騒がれたが、夫妻が一緒に表舞台に出ることはなく、話題はすぐに移り変わった。
しかし、世間はそれで良くても、メリザンドは当事者であるから簡単には割り切れない。
メリザンドには、祖父の不名誉よりも、もっと気に食わないことがあった。
彼女が悪辣な人物だったからではない。否、アリエッタが野心を持って老公爵を若さと美貌で籠絡し、地位や財産のために後添いに収まった、噂通りの<悪女>であったならば、まだ納得も出来た。
そして、公爵家の跡継ぎであるメリザンドを邪険に扱い、家を乗っ取ろうと暗躍するなら、身に付けた知識と矜持を総動員して彼女を追い落としにかかっただろう。
寧ろそういう女性であれば、敵対はしようとも、これ程嫌うことはなかったかもしれない。
でも嫁いできたアリエッタには野心や願望どころか、……己の意思さえなかったのだ。
『メリザンドの月と太陽』
アリエッタは父伯爵に言われるまま、顔合わせもなく四十も年上の老人に嫁いできた。
何か重要な契約に付随する縁組とかなら、まだ判る。貴族の政略結婚とは概ねそういうものだ。けれど、アリエッタの結婚にはそれすらなく。
彼女は、ただ祖父に見初められただけで屋敷へやってきたのだ。
メリザンドは家族だから、祖父に変な癖や願望がないと知っている。でも、普通はそれだけの年の差婚には何かあると疑う。
しかし相手は公爵、伯爵家では太刀打ち出来ない。結婚も貴族の義務の一つとして割り切るか、泣く泣く諦めるか、アリエッタが何かしらの覚悟を決めてやってきたなら、まだ許したのに……。
彼女は何の感情も抱かずに、ただ諾々と父親に従い、公爵の妻になったことをメリザンドは知っていた。
初めて公爵家へやってきた時のアリエッタは、こちらが迎えにやった馬車から降りてこなければ、メイドの面接にでも来たのだと間違えてしまう程みすぼらしく、貧相だった。
……これが噂の悪女? 有り得ないでしょう。
一番最初に思ったのはそんなこと。
学院で耳にしたことのある噂の<悪女>が祖父に見初められたと知り、身構えていたメリザンドの前に現れたのは、噂など本当に当てにならないと体言しているような女性だった。
艶のない髪と肌。枯れ枝のような体躯に、メイドのお仕着せの方が余程豪華に見えるワンピースをまとって、小さく、本当に小さくなりながら祖父に手を引かれて、屋敷に入ってきた。
こけた頬の所為で殊更大きく見える目は警戒心いっぱいに周囲を探り、傷つき怯えた小動物のような様は、いっそ哀れを誘う。
祖父に守られ女主人の部屋に消えていく彼女を見送ったメリザンドは、だが、即座に彼女に対する認識を改めはしなかった。
確かに噂は当てにならない。
……だとしても本性は判らない。
それから注意深く彼女を見守ってきたが……結局、アリエッタの印象が変わることはなかった。
彼女が来る前に詳しく調べさせた結果、学院で囁かれていた<噂>のほとんどがデマだと判明していた。
アリエッタがまとっていた噂。
それは伯爵家の正当な跡取りであることを振りかざし、後妻とその連れ子の姉を家族と認めず虐げているというものだった。
寝言は寝て言え。
彼女のそれは苛めではなく、正当な権利だ。
……と思ってしまうのはメリザンドが身も心も高位貴族の娘だからだろうか?
アリエッタの母親は、彼女が十五の年に長患いの果てになくなっている。
そして父伯爵は、恥知らずにもその喪も明けないうちに、意気揚々と長年の愛人とその娘を家に招き入れた。
そればかりか、連れ子は、間違いなく父を同じくするアリエッタの姉なのだという。
父親に、自分より年上の庶子がいた。
家族を喪ったばかりの時期に、そんな事実を知らされたら、メリザンドだって全力で迎え入れを拒否するだろう。受け入れたなんて世間に思われたら、恥ずかしくて外を歩けなくなる。
つまり、彼女の父親がしでかしたことは、それくらいの醜聞なのだ。
けれど彼女の新しい家族は、その行動に相応しく面の皮も随分分厚かったようで、肉親を亡くした悲しみも癒えないままに現れた家族を受け入れなかったアリエッタの方を団結して虐げた。
報告書にあった当時の彼女の状況は悲惨といっていい状態で、庇ってくれる使用人と母方の実家がなければ殺されていてもおかしくなかっただろう。
しかし、彼女の不幸はまだ続く。
その後一年経たずに、後ろ盾だった母方の実家が代替わりしてしまい、余り彼女に構わなくなった。その上、新たな後ろ盾になるはずの長年の婚約者が、あろうことか異母姉に籠絡されたのだ。
妹に虐げられていると訴える姉を信じた婚約者は、アリエッタの素行を非難して冷遇し、あまつさえ異母姉と恋仲であることを隠さなくなった。
本来ならそれも醜聞のはずだ。
しかし異母姉の立ち回りが余程上手かったのか、周囲は婚約者と異母姉の仲をまるで美談のように語り、アリエッタを嫉妬に狂う醜い悪女と呼んだ。
どうしてそうなるのか、メリザンドには全く理解出来ない。
責められるべきは浮気した婚約者と、恥知らずの異母姉だ。なのに、権力を振りかざして惹かれ合う二人を引き裂く悪女、なんて理由でアリエッタが責められた。
当事者も周囲も、この学年は馬鹿ばっかりだったのかと疑って、そちらまで調べさせてしまったが……飛び抜けて平均成績が悪いということもなかった。
なのに、誰も不信を抱かず、寧ろこちらも一致団結してアリエッタを虐げていたと判った時には、人間の醜さに思わず吐き気が込み上げてきた。
枯れ枝のような腕のアリエッタが、家では毎日姉を汚い言葉で罵り足蹴にして、小間使いのように扱っているなんて……。
制服以外真面なドレスも持たないアリエッタが、姉からドレスや装飾品を巻き上げているなんて……。
どうやって彼らは信じていたのだろう?
アリエッタを虐げた学生を一堂に集めて、真摯にその思考回路を問い詰めたい欲望を堪えるのは至難の業だった。
そうやって思春期を過ごしたアリエッタが、どういう訳か学院卒業と同時に祖父に見初められ、素行が悪くて婚約者に捨てられた悪女は、金で老公爵に買われたと嘲られながら、公爵家に嫁いできた。
アリエッタに罪はないが、そんな低俗な噂を放置する家と縁続きになるのは嫌だと思っていたら、結婚支度金という名目でたっぷりと金を渡して、その際、アリエッタと縁を切る書類にも署名させたから、この先彼女の生家という名目で件の伯爵家と関わる必要はないと先回りして祖父に言われた。
そういう根回しがあるということは、耄碌して色恋に狂ったとかではなく、何か考えがあるのだろう……と、メリザンドはアリエッタが義祖母になることに納得した。
しかし、一緒に暮らし始めて数日で、メリザンドはアリエッタに対して怒りを爆発させた。
アリエッタにはメリザンドが望む<向上心>というものが全くなかった。
最初は遠慮もあるだろうと、メリザンドは精一杯彼女に優しくしていたつもりだ。
虐げられていた令嬢の立ち居振る舞いが一日二日で公爵家に相応しいものになるなど思っていない。だからせめて仲良く生活する中で、少しづつ学んでいって貰おうとしたのに……お茶に誘っても、廊下で擦れ違っても、アリエッタはオドオド狼狽えるばかりで、毎度毎度、メリザンドだけでなく使用人の顔色すら窺って過ごすのだ。
その度、貴女はもう<公爵夫人>なのだと言い聞かせても、謝るばかりで何一つ改めない。
幸いにもこの家では、威厳のない夫人を、だからという理由で粗雑に扱うような不心得者はいなかったが、これが他家だったならば、名ばかりの公爵夫人はあっという間に使用人からも軽んじられていただろう。
……否、表に出さないだけで、公爵家の使用人達にもそういう雰囲気は漂い始めている。
ただ、メリザンドや祖父が許さないからあからさまにしないだけで、日毎アリエッタに冷たくなっているのは感じた。その度、それでも彼女は公爵夫人で、主なのだと気合いを入れ直させた。
それでも緩んでいく空気がメリザンドを苛立たせ、しまいには、敬われる主になれないアリエッタが悪いと思ってしまう。
……こうやって彼女は生家でも軽んじられるようになったのかもしれない。立場に相応しい振る舞いを阻まれ、軽んじられ、押しやられ、揚げ句の果てに虐げられるようにまでなったのだろうか?
気の毒だと思うのに、メリザンドが彼女に抱くのは、庇護欲や親しみではなく、どうしようもない怒り。
相応しくないと謝るなら、せめて努力してほしい。努力しているフリでもしてくれたら手助けもするのに、最初から無理、出来ないと諦めて逃げ回っているようなアリエッタが許せない。
気がついたら、顔も見たくないと思う程嫌いになっていた。
だから屋敷で彼女を見ると虫酸が走って、つい睨んでしまう。
そうするとアリエッタは脱兎の如く部屋に逃げ帰って、ブルブル震えているらしい。
……それを面白そうに報告してきた侍女はクビにした。事実であったとしても、一緒に面白がるような性根はしていない。寧ろ、それを愉快な話題として振られるようであるなんて、侮辱も甚だしい。
メリザンドはアリエッタを苛めたいわけでは決してない。
ただ、ただ……せめて……。
そう願うのはいけないことなのだろうか?
向上心を求めてはいけない?
だって私は、相応しくあろうと、努力ですべてを補ってきた。
アリエッタだって……。
思う度、祖父の窘める声が聞こえる。
『メリザンド、みんながみんな、お前のようには生きられない』
でもっ……。
メリザンドの反発を感じ取った祖父は、もう何も言わずに抱き締めてくれた。
動けるのに動かないのはただの<弱さ>だと、メリザンドは思うのだ。
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