第24話 幸せの記憶
当時、九歳の俺は家のリビングで宿題の計算問題に格闘していた。ようやく解き終え、伸びをとる。
「やっと終わった!」
そのとき、ヒョイと後ろから問題用紙が取り上げられた。振り返ると、兄の光輝がじっと問題用紙を眺めていた。
「に、兄さん……」
逃げようとした俺の首根っこを兄さんが掴んだ。
「こら待て。この問題、間違えてる。先週、解き方教えてやったろ?」
兄さんは問題用紙を指差した。
「ちゃんと習った通り解いたけど?」
「いや、できてないから。どうやったらこういう回答になるんだ?」
兄さんは「はあ」と悩ましげにため息を吐いた。
七歳上の兄の光輝は、頼んでもいないのに、俺の勉強を見てくれた。しかし、一度教えたことができていないとこうやって叱られた。
「逆にすごいけどな。もしかして新しい公式を生み出そうとしてるのか?」
兄さんの嫌味に俺はボソリと呟いた。
「……冷酷人間に教えてもらうんじゃなかった」
「は? 何だって? もう一回言ってみろ」
「いたたた!」
兄さんに頬をつままれ、悲鳴を上げたそのとき、
「こら、コウちゃん! セイちゃんにいじわるしないの!」
「いてっ!」
兄さんに拳骨が振り下ろされた。さゆり姉ちゃんだった。制服を着ているので、学校帰りにうちに寄ったのだろう。
二人は高校生になり、付き合い始めた。それからはさゆり姉ちゃんがうちに遊びに来る回数が前より増えた気がする。
「さゆり姉ちゃん! 助けて!」
俺は逃げるチャンスとばかりにさゆり姉ちゃんの後ろにサッと隠れた。
「あ! こら待て!」
「コウちゃん?」
俺を捕まえようとした兄さんは、さゆり姉ちゃんに睨まれ、動きを止めた。兄さんはさゆり姉ちゃんに弱かった。
「いや、これは教育の一環でさ……」
「だからって暴力はだめでしょ?」
「……ぐ」
黙り込んだ兄さんに俺は舌を出した。
「べー!!」
「……こいつ」
兄さんが俺を睨みつけると、さゆり姉ちゃんはため息を吐いた。
「将来、私たちに子どもができたときも同じことするの?」
さゆり姉ちゃんの言葉に、兄さんの顔が赤く染まる。
「はあ!? 子どもって、何言って……」
「え……私との子ども嫌?」
さゆり姉ちゃんが落ち込んだように言うと、
「……そんな訳ないだろ」
兄さんがぶっきらぼうに答え、さゆり姉ちゃんな満足げに笑った。
「うふふふ」
「な、何笑ってんだよ!」
そんな二人のやりとりを見て、胸の奥がチリッとした。心の中に黒いモヤモヤがたまっていくようだ。そんな自分が醜くて嫌になる。
「……じゃあ僕は自分の部屋でやることあるから」
「誠太郎?」
俺は逃げるように自分の部屋に戻った。そして、机の上に突っ伏し、頭を埋める。
頭には先程のさゆり姉ちゃんの笑顔が浮かんだ。兄さんの前だけで見せる特別幸せそうな顔。その顔を見るたびに、自分の無力さを思い知らされた。
「……はあ」
思わずため息を吐いた。兄さんは勉強は常に学年一位で、スポーツ万能。何をしても器用にこなす。一方、弟の俺は何をしても平凡な人間だった。
兄さんは俺が手に入れられないものをあっさりと手に入れる。その事実が俺に強い劣等感を植え付けていた。
「君、芝居に興味ない?」
「え? 僕ですか?」
十歳のとき、街でスカウトされた。それがきっかけで芸能事務所に入り、芝居を始めた。
芝居をしているときは没頭できた。何より兄さんと比べてなくていい環境が心地よかった。
しばらくして、俺は子役として活躍するようになり、ドラマ、映画、アニメ、舞台と様々な作品に出演した。そんなときだった。
「はい、これ」
マネージャーからダンボール箱を渡された。
「何ですか?」
「誠太郎当てのファンレターだよ」
「ファンレター? 僕に?」
最初は夢かと思った。手紙には俺の芝居を見て感動したとか、元気をもらったとか、感謝の気持ちが書かれていたからだ。
「……っ!」
たくさんの手紙を読んでいるうちに涙が溢れた。
自分が初めて誰かに求められることがたまらなく嬉しかった。自分は生きていていいと言われているようだった。
そのとき、俺は誓った。ファンの人たちをもっと喜ばせるためにもっと、もっと頑張ろうと。
そうして、俺は芝居にのめり込んでいった。
「そういえばセイちゃん、ドラマ観たよ」
昼下がり。俺の家に遊びに来ていたさゆり姉ちゃんが言った。
「ん、ありがとう」
俺は照れくさくなり、頬をかいた。
「すごいねセイちゃんは。私、幼馴染として誇らしいよ。私の名字を使ってくれてるのも嬉しいし」
「それは……兄さんがうるさくて」
俺が顔を向けると、兄さんはドヤ顔で語り始めた。
「おう! だって、黒より白の方が誠太郎の天使なかわいさに合ってるからな」
「恥ずかしいからそんなこと絶対、人前で言わないでね」
うんざりとして言うと、兄さんはカッと目を見開いた。
「何が恥ずかしいんだ! お前はかわいい! どの子役より、いや、宇宙一かわいい!」
そう熱弁する兄さんに、冷ややかな視線を向けた。こんなことを堂々と言うなんて恥ずかしいないのか。
「うふふ。また始まった。コウちゃんの弟自慢」
さゆり姉ちゃんはおかしそうに笑った。
「そりゃあ、何度もしたくなる。だって、自慢の弟だからな。バカだけど」
「バカって酷いな」
「ははは。拗ねるな、拗ねるな」
この頃の俺は、兄と自分を比べることが少なくなり、嫉妬心も以前ほど抱かなくなっていた。
そんな自分を少しだけ好きになれていた。
しかし、そんな日々は長くは続かなかった。
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