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5話 肥溜めの聖女

 ダクはグッと石を握りしめる。強く、握りしめながら持影を送り込む。ぼうっと揺らめく明かりは弱くなっても消えることはない。


『自分が何をしたいのか、今一度考えておくことだな』


 ドレイクの言葉が頭の中をぐるぐると回っている。

 自分のしたいこと。

 ここに来るまでに往来での痛ましい出来事を見た。市場を行き交う人は、その光景をさも当然のように見過ごし、救いの手を差し伸べようとしなかった。ソレイユから『骨組』と呼ばれたあの男たちは、自分たちの暴力を正当性で塗り固め、自分が与えた苦痛を個人の罪のせいにした。

 もしもセイがあの光景を市場の人たちと同じように見過ごして、暴力を与える行為を正当性で塗り固めているのなら、セイと話し合ってその考えを改めさせなければいけない。

 でも未だに、あのセイがそういう風な人間になったとは思えない。


「苦戦してるみたいですね」


 扉の音と共に入って来たのはソレイユだった。両手にたんまりと布団を抱えている。果たして何人分の布団だろうか、少女が一人で持ち上げるにはあまりにも多い量だった。


「少し手を貸そう」


「良いけど......重いですよ?」


 ソレイユが布団の陰から眉をひそめてダクを見る。少女が持つよりは自分が持つ方がマシだろう、と思ってソレイユから布団を半分貰い受ける。

 ドスン、と背骨がきしむ。想像よりも数倍重たい布団の束に足腰が悲鳴を上げた。一歩も足が動かない。


「......なんでこんなもの持てるんだ?」


「鍛え方が違いますから!」


 ソレイユは曇りなき笑顔を見せた。頑張って運ぼうという気持ちは鮮やかに決壊する。ソレイユは荷物を片手に持ち替えるとダクの分もひょいっと持ち上げて所定の場所に置いた。


「こんなに多くの布団、何に使ってるんだ?」


「仕事を斡旋した人たちの寝床ですね。斡旋する仕事によっては昼夜問わず働かなければいけないので、仮眠用の布団を提供しているんです。すぐ汚れてしまうので頻繁に変えなきゃならないんですけどね」


 昼夜問わず働かなければいけない環境、すぐに汚れてしまう布団。きっと風呂に入るなんて夢のまた夢なのだろう。


「働いているところに連れて行ってもらえるか?」


「良いですけど......あまり見ていて気持ちのいいものではありませんよ」


「だからだ。この国の現状が知りたい。セイが作った国の姿を」


「......分かりました。こっちです」


 ソレイユはあまり気乗りしない表情のまま俺をその仕事場まで連れて行く。

 教会を出て裏手に回ると、ソレイユはしゃがんで地面に手を伸ばす。そこには木のフタのようなものがあった。それを取り外すと同時に漂ってきたのは悪臭だった。ただし生ごみのような臭いではなく、強烈でツーンとくる肥溜めのような臭いだった。思わず手で鼻を抑える。

 木のフタの中にあったのは地下への階段だった。人が一人通れる程度の狭い階段で、まばらなランタンのオレンジ色の光がほのかに足元を照らしている。ソレイユは悪臭漂うその場所をためらうことなく進む。ダクは階段を踏み外さないように慎重に下りていく。

 強くなる悪臭とともにかすかに見えてきたのは下水の流れる水路だった。


「ここは地下下水道。彼らの仕事場の一つです」


 ダクはソレイユの横顔を見る。ソレイユは先ほどのような豊かな表情を封じて極めて業務的にその光景を説明していた。

 地下下水道で働く人々に目を移す。その中に一人、見覚えのある人物の姿が見えた。数日前に助けた子連れの女だった。その女は両手に木製のモップのようなものを掴んで、おもむろに下水道に足を突っ込んだ。そしてモップを使い溜まった汚物を流してゆく。


「昔はこの下水道にも水が流れたのですが、年々水量が減って自然に流れなくなったのでルーザーの仕事の一つとしてこの仕事が割り当てられたんです」


 女は下水を下流に流すと場所を移動し始めた。先ほどの下水道から枝分かれした細い水路だった。さらに枝分かれし、だんだんと細くなる水路はついに腕の太さほどになった。そこから先に水路が無いところを見るとどうやらそこはこの下水道の数ある始点の内の一つであり、そこには汚物がこんもりと溜まっていた。

 女は溜まった汚物に素手で手を伸ばす。大とも小ともつかない、その柔らかでまだ生暖かい、それの中に。ぬちょり、と音がした。

 ダクは静かに手で口元を抑えた。さすがに生理的嫌悪感が強すぎる。

 女は手で汚物を掻き出すと水路の下流へと押し出した。真っ茶色に汚れた手で次の始点へと向かい、同様に汚物を掻き出しては下流へ押し出す。

 ソレイユはダクが口を押さえたことに気が付きながらも、そちらを見ずに単調な声で話す。


「ああしないと、入り口に溜まってしまうんです」


「なぜ素手なんだ。あの木の棒のような押し出す物ぐらい簡単に作れるはずだろう」


「それは──っ」


 ソレイユの声がのどに詰まり、一瞬、業務的な彼女の姿がぐらりと揺らいだような気がした。しかしすぐにソレイユは元の調子に戻った。


「それは手で掻き出した方が汚物が土に還るのが速くなるからです。彼女らの呪いが汚物に移って汚物が通常よりも速く肥料になる。だから専用の物は作らず素手でするようにと指示が出ています」


「指示を出したのは?」


「この仕事のオーナー、つまり......宵橋教会の上層部です」


 ソレイユがダクから目を逸らしたのを見て、ダクは口から出かかった言葉を飲み込んだ。教会という名前は自分たちが()いことをしているというイメージを植え付けるために使われているんじゃないか、という率直な感想だった。その言葉はソレイユにはあまりにも(こく)すぎる。


「もうそろそろ給仕の時間です。そちらに行きましょう」


 ソレイユの後を着いて行くと少し明るい場所に出た。そこには人が行列を成していて、行列の先に居たのはあの集会所のような教会のカウンターで書類仕事をしていた眼鏡の少年だった。その少年は両手に寸胴鍋を抱えており、重そうに台の上に置いた。


「それでは配るので順番が来たら皿を持って待っていて下さいね」


 眼鏡の少年はいつもの業務をこなすように声を投げかけて玉杓子(たまじゃくし)を手にした。

 台の上にはところどころ欠けた木製の皿がすでに置かれていた。行列の先頭に居た初老の男は汚物を触ったままの汚れた手で深皿を取る。少年はその皿の中にスープのような水の多いお粥を注ぐ。


 ダクを案内していたソレイユがダクを置いて足早に歩きだす。


「手を出してください」


 行列の先頭ににっこりと笑い、そう語り掛ける。

 男の汚れた手を取るとどこからともなくタオルを取り出し、皿と手を指の間まで丁寧に拭いていく。

 最後に男の手に触れる。


「頑張って下さいね」


「......ぁりがとうございます」


 か細い声を絞り出すようにしてお礼を言い、深く深くお辞儀をした。

 背中から眼鏡の視線が刺さる中、ソレイユは気にせず次の人にも同様に接して声をかける。

 全員に食事が行き渡る。少年は空になった寸胴鍋を()げながら、汚れたタオルを折りたたむソレイユに声をかける。


「そんなことしても余計な仕事が増えるだけですよ。どうせすぐ汚れるんです」


「汚れるからと言って今拭かない理由にはなりません。少しでも彼らの助けになるならするべきでしょう?」


「僕らは充分に彼らを助けています。僕らが手を差し伸べなければ彼らは今頃死んでいた。それ以上の助けが要りますか? 彼ら一人一人に本当の意味での助けの手を差し伸べられるほど、僕らの手の本数は多くはない。差し伸べようとすればするほど、掴めなかった手の本数が多くなる。そんな辛さを感じる必要は無いと思いますよ」


 眼鏡の少年はそれだけ言うと寸胴鍋を提げて地上へと帰っていった。

 ソレイユは表情を曇らせたまま立ち尽くしている。


「仲が悪いのか?」


「そう、見えましたか?」


「いや。むしろ心配しているように見えた。が、彼も言い方がきついな」


 きっと彼なりの気遣いだったのだろう。

 ソレイユは少し沈黙した。少年の忠告をずっと突っぱね続けてきたことを悪いと思っているのだろうか。そんなダクの予想は当たらなかった。


「ダク様はここの人たちが助かっていると思いますか?」


 ソレイユはダクの目をじっと見つめる。とてもまっすぐな目だった。その琥珀色の瞳は教会を擁護する意見も、自分への慰めの言葉を求めているわけでもなさそうだった。だからダクは率直に思ったことをそのまま口から出した。


「奴隷、だな。他に行くところもなく、食事と寝床を与えられて、普通の人間がしたくないことをやらされている。まるっきり奴隷だ」


「......この国では奴隷制度は禁止されています」


「でも実際に行われていることはそれに近い」


 ソレイユは壁際に腰を下ろす。ダクもそれに続いて腰を下ろした。ソレイユは結局、この教会がルーザーに奴隷まがいの扱いをしていることを否定しなかった。


「これを見た人は大体がこう言うんです。『生きられるだけでも彼らには過ぎた幸せだ』って。小さいころからそう言われていたけれど、あんまり信じられなくて。それで出来るだけ多くの人を笑顔に出来たら良いと思っていろんなことをしても、結局は何も変わらないんです。教会のふるまいも、周囲の人たちの視線も、ルーザーの待遇も」


 ソレイユは三角座りで膝を抱えたまま、ぼうっと壁掛け時計の明かりを眺めた。暗闇の中でぼんやりと輝くそれは、今にも消えそうなほど小さい。


「時々、すべての人が悪人に見える時があるんです。どうしてこんなことになるって分かっていながら祝福を他人に授けるのか。どうして苦しんでいるのが自業自得だと優しくできないのか。どうして困っている人からさらに搾取することが出来るのか」


 ソレイユがダクに瞳を向ける。その瞳はダクを試すようにじっと見つめている。


「......あなたは悪人ですか? 何のためにあの唯一王を生み出したのですか?」


 目の(かたき)にされている唯一王――セイ。なぜソレイユがここまでセイに敵意を向けているのか。ダクは汚れにまみれて働くルーザーの姿を見て少しずつ理解する。これだけ社会に虐げられた人々を見れば、その社会を作った弟はどう見ても悪人だろう。

 ソレイユの言う悪人はきっと悪意があるかどうかで決められているわけではない。誰かを傷つけてしまった行為がその人を悪人たらしめるのであれば──


「決して悪人でない、とは言えないだろうな」


「そう、ですか」


 ソレイユの伏せた瞳が失望の色に変わったのがはっきりと分かった。失望の色に変わってようやく気が付く。彼女がダクに何かを期待していたことに。


 バタン!


 頭上で大きな音がしてソレイユとダクは階段の上を見上げた。

 そこには息を切らした眼鏡の少年が居た。何事かと腰を上げる。


「骨組が! 骨組が拘束令状を持って来ました! ダク様の、です!」


 聞きなれないがあまり良さそうではないその単語にダクは眉を顰めた。

宵橋教会管轄 地下下水道


臭い物には蓋。醜い物からは目を逸らす。そんなこの国の現状があの場所に詰まっている。一方でそんな社会の仕組みが皮肉にもルーザーを生かす最後の手段になっている。倫理観よりも生存権が優先されるのは道理であり、それらよりも人権はもっと低い位置にある。


ある男の手記より

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