44話 槍と老婆
くさい。
鼻がひん曲がりそうな臭いがそこら中に漂っている。王都の日の当たらない場所とは比較にならないほどの臭さがそこには充満していた。ここはルーザーの温床、貧民街である。
時折、視線を感じるので睨み返す。俺の槍を見たルーザーは一様に物陰へと身を隠す。本来なら全員、牢にぶち込んでやりたいところだが、今は他にやることがある。
「ここに居るのか......?」
俺は眼帯と決別した後、レジスタンスに追うため王都を出てオルファネージに行った。オルファネージで何か聞くことができるかもしれないと考えたからだ。
結果としては失敗に終わった。沼ノ守と押し問答になるならまだしも、沼ノ守は無言を決め込んだ。同盟の関係もあって指近衛には何もできないと知っているからか、脅しにも全く動じることが無かった。さすがと言ったところか。
何も聞くことが出来なかった俺は骨組の組員から聞いた『オルファネージから南に向かった』というあやふやな情報を元にただ南へと向かった。そして辿り着いたのが貧民街である。王都から廃棄された資材を寄せ集めたごみ集積場であり、かろうじて生きる者達の集う場所だ。
もしもここに居なければ......
「探すしかないか」
嫌な考えを振り払うため頭を振り、俺は槍を構える。背中に背負ったアメハバキではなくいつも使っている方の槍だ。
協力的でない者から話を聞くならこれに限る。
ふぅっと息を吐いた。
「お待ちいただけますでしょうか」
後方から声が聞こえて振り返る。
そこに居たのは老婆だった。背が低く声もしわがれている。容姿も醜い。どこにでもいる普通の老婆。
違う所があるとすればとても濃い呪いの臭い。息を吸ったことを後悔するほどの臭いだった。
「レジスタンスの方々をお探しなのでございましょう。行先は知っておりまする」
ほう。
驚いた。そして胸が湧きたった。
まさかこの老婆が行先を知っているとは。
しかしなぜこの老婆が行先を知っているのだ?
「少し寄って行って下さいませ。指近衛様」
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俺は家を家と呼ぶために満たさなければならない『要件』があることを知った。
それは雨風がしのげること。自分だけのスペースが確保できること。私物を置くことができること。これらの要件が家と呼ぶために必要であると気づいた。
それを定義した上で言えば、この建物は家ではなかった。
この家には屋根がない。どこからか拾ってきた廃材を立てかけてスペースを作っているだけだからである。もちろん寸法など計算されていないので壁は隙間だらけである。近隣の人々の住居も同じような有様なので会話、物音、角度によっては姿すら隠すこともできない。私物はほとんどない。あっても取られるようなものではない。
......
まぁ、それはどうでも良い話だ。今はレジスタンスの居場所が分かればいい。
「レジスタンスの居場所はどこだ」
「レジスタンスはリブリース=ウルライトの居住区に向かいました。これは彼らに食料を提供した時に聞いたのでほぼ間違いないことかと思われまする」
「レジスタンスに食料を......?」
「そうであります」
......冷静に考えてみればそうか。
彼らの動向を知っているということは彼らに協力したということである。この情報は唯一王への反抗を糧に得られた情報である。普段なら俺はこの老婆を処罰の対象にしていただろう。
しかし、それを俺に告げた。つまり俺にこの情報を話すことはレジスタンスに対しての裏切り行為である。
......食料を渡したのは王に協力するためだと言って褒美をせしめようとしているのか? 指近衛がその程度のことで罪を帳消しにして褒美を渡すなどということをしないことは分かってるだろう。
それとも俺が食料をレジスタンスに提供した証拠を見つける前に自分から申告することで責任逃れをしようとしているのか? この場から逃げる方が賢明である。
何が目的なのか全く分からない。不可解な行動に対する疑問、動揺、その他もろもろの感情が湧いてきて怒りさえ感じる。槍を握る手に力が入る。
「なぜそれを俺に話した」
「ダンガとボンガをご存じでございましょうか。私の双子の息子でございます」
「?」
何の話をしている?
その名前にあまり聞き覚えはない。そもそも俺は興味のない人間の名前を覚えられない。そんな人間に出会っただろうか。
「あなたと同じ槍使いで王城の門番をしていると聞いてございます」
「あぁ、そう言えば確か......」
瓜二つの顔をした門番が居たような気がする。レジスタンスにまんまとやられてあっさりと門から通していた。処分をどうするか今は保留となっていたはずである。
「私はあの子たちに祝福をあげて今のこの姿となりました。この汚い場所で生まれたあの子たちに良い暮らしをさせてやるために祝福をあげたのでございます」
「そしてお前もその恩恵にあずかろうとしたのだろう。息子が王城の門番につけばお前にも仕送りが来るだろう。そうすれば今よりもっと良い暮らしが出来るからな」
「そんなことは願っておりません。ルーザーとなれば王都に居場所はございません。居場所はこの貧民街ぐらいのものでございます。しかしこんな場所ではお金を持っても周りの人間に奪われてしまいます。なので息子たちには仕送りは望んでございません」
「ならなぜ祝福を与えたんだ」
不可解な物言いだ。腹が立ってくる。
いや、不可解な物言いに腹が立っているわけではない。この老婆のルーザーのくせに底の知れない思考に恐怖しているのだ。まるで幼子が暗闇の中のオバケに恐れながら立ち向かうように、恐怖から対立心を掻き立てられている。
ふとあの唯一王の兄の姿が脳裏をよぎった。
老婆はふっと笑った。
「それは簡単な話でございます。私が母親だからでございます。息子たちが幸せになるならば別に自分が幸せにならずとも良いのでございます」
「な......」
この老婆は自分の息子たちのために自分のことを捨て去ることが出来るのか? それで自分自身が不幸になったとしても、それで誰かが幸せになればそれで良いと?
なんてことだ。
自分の中のルーザー像が揺らいでいるのが分かる。
利己的で自己中心的というルーザー像が揺らいでいる。
あの唯一王の兄の姿を見て揺らいだ心が、眼帯や沼ノ守、それにこの老婆の言動によってどんどん揺らいでいく。
ぎりりと槍を持つ手に力が入る。
俺はこの老婆を否定しなければならない。そうしなければ俺は......
「本来ならお前はレジスタンスをほう助した罪に問われなければならない。よってこの場でお前を殺す」
どうだ?
命乞いしろ。
自分の行為は間違っていたと思え。
ルーザーが他人のために尽くすなんて高尚な心を持っているはずがない。
その心が揺らげば、俺はこれまでの行為が正しかったと自分を肯定することができる。
頼む。
「構いません。それであなたの心に私と私の息子たちが刻まれるのであれば、ここで命を絶たれるのも良いでございます。その代わり、息子たちをよろしくお願いします」
老婆はためらいなく首をぐっと差し出した。
ぞっとするような悪寒だった。
それは覚悟と言うにはあまりに軽く、決断と言うにはあまりに迷いが無かった。俺が首を落とさないだろうと高を括って首を差し出したわけでもなかった。簡単なテストの答えが『それ』で空欄に答えを書き込むように迷うことなく首を差し出したのだ。
なんなのだ。
ルーザーとは一体なんなのだ。
この国で起こっている差別とは一体なんなのだ。
俺がこれまでやって来たことは一体なんだったのだ。
槍の先が震えている。老婆はこうべを垂れているので槍の先が震えているのは見えていない。俺の槍は震えているのに老婆の体は震えていない。
「っもういい。贖罪の気持ちは分かった」
「ありがとうございまする」
老婆は腰が折れてしまいそうなほどに腰を曲げてお礼を言う。
俺は背を向ける。
心の中がぐちゃぐちゃになっている。背のアメハバキが一際重い。
貧民街
王都から出た廃材は郊外に捨てられる。そして廃材を拾って生計を立てる者も集まる。彼らもまた王都から出た廃材なのかもしれない。
ある男の手記より




