29話 理性的な狂人
鹿の獣。泥の槌を携えた異形の怪物。
頬から伸びた長い触覚はでたらめな軌道を描き部屋の中を蹂躙する。
ダクを狙う様子がない。部屋にある壁や床や調度品を触覚をしならせて叩き壊していく。ダクがどこにいるのか分からないのかとも思ったが、その怪物が発する呪いは存在するあらゆるものへ向けられておりまるで複数の意志がそれの中に込められているようだった。
「っ!」
無軌道な触覚が体に触れそうになったので体を捻る。わずかに空気が揺れる。
ぐるりと怪物の顔がこちらを向いた。触覚はなおも無軌道に動き続けている。
呪いの揺れが──攻撃のタイミングが読めない。
ダクはじりりと一歩足を後ろに下げたタイミングで、常識はずれな大きさの金槌からぶおんと風切り音がした。
「がぁっ、!」
巨体から繰り出された金槌の威力は絶大だった。当たった瞬間に肺の中の空気が音になって口から全て抜け出てしまった。痛みは感じなかったが右半身が人間の形をとどめないほどにぺちゃんこになっている。
ドレイクから聞かされた鬼殺しの沼の怪物についての話を思い出した。あれは豚のようだったと言っていたから多分これとは違うのだろうがきっと戦っている時、こんな気持ちだったに違いない。
全く勝てる気がしない。
触覚が伸びてくる。体に刺すようにずぶりと。引き抜こうとするが手に力が入らない。
ぐわんと視界が揺れた。
頭の中に何かイメージをむりやり入れられている。目の前の景色が変わっていくのを感じた。
『こんなことも出来ないのかっ! お前は首だ! 今すぐ出ていけっ!』
痛い。
じわりと血がにじみ出る。ごろりと拳ぐらいの大きさの石が床に転がった。
そこは精肉店だった。豚肉が切り売りされている。目の前にある豚肉からは腐臭がしていた。ショーケースに反射した顔には「やってしまった」と顔に書かれた三十台の男の顔が映っていた。
小太りの店長の後ろには娘と思われる子供がこちらを見ていた。軽蔑のような怖れるような視線をこちらに向けている。嫌われているのだ。
自分の声帯が勝手に震える。
『すみません! おいだされたら行くところが......』
『そんなことは知らんっ!』
店長はそっぽを向いた。
自分の中に焦りが生じる。これから何をしたらいいのかも分からない。どうすればこれから先、生きて行けるのか。
どうして目の前の小太りの男は自分を見捨てることが出来るのか。理解できない。
ふつりと。
ほんの少し、殺意が沸いた。
また景色が変わる。
自分は走っていた。走らなければ捕まってしまうから。
しかし急速に奪われる体力が走り続けることを許してくれない。
『あっ』
ぬかるみに足が取られてこけてしまう。手に握っていたリンゴが地面に転がった。
水溜まりにはやせこけた20代の女の顔が映っていた。
背中にひんやりとした感触がした。
『大人しく投降しろ』
『すいません......ゆるして......』
恐怖。
どうなってしまうのだろう。どうすればよかったのだろう。
こうすれば良いと言われればその通りにする。何でも従う。でも誰もこうすれば良いなんて言ってはくれなかった。理由は簡単。何をしてもこの状況が打開できないことを誰もが知っているからだ。
ぐいっと背中を引っ張られる。無理やりに立たされる。圧倒的な力。干からびた腕では抵抗することすら許されない。
無念さがこみあげる。
じりじりと、殺意が心を埋めていく。
また景色が変わる。
そこは見覚えのある場所だった。そして目の前には見覚えのある人物が座っている。
『三秒だ』
沼ノ守だった。
焦りが生じる。この上ない焦り。
後ろには外へのドアがあった。ドアの外には長く確実な死が待ち構えていた。不安そうな目で自分を見つめる幼子が居た。彼らも死んでしまう。嫌だ。
前には修羅が座っていた。短く確実な死がそこまで迫っている。立ち向かっても勝てはしないだろう。
どちらも変わりがなかった。今更延命をしようという気すら起きなかった。
『ちょっと待ってください! 話を──』
焦りから生まれた言葉はその程度の物だった。しわがれた老人の声だった。
何も出来ない。何をすれば良い。
悔しい。
振り上げた拳が振り下ろされることはない。
痛みと殺意だけが残った。
景色が変わる。
建物を見下ろしていた。立て直しかけていたあの建物が目の前にあった。そして扉の前には腰を抜かして座り込んでいる男と、黄金色の拳を泥に叩きつける男が居た。
自分の体は大きくそして強かった。拳を振り上げれば泥がそれに応えてくれる。それを男たちは止めることが出来ない。
痛みはもうない。殴られても撫でられているような感触しかない。
何でもできる。何も出来なかった時とは違う。今なら復讐だって出来る。殺意をそこにぶつけさえすればいい。
ダクは自分が拳を振り上げればこの大きな体も拳を振り上げることに気が付いた。
浴びせられた罵倒が走馬灯のように流れる。
この拳を振り下ろしたところで根本的な解決は果たされない。でも自分たちの無念を幾分か和らげることは出来るはずだ。
この拳を振り下ろせば──
違うだろ。
ダクは握った拳を開いて胸に手を当てた。
自分は知っている。
自分とこの無念を感じてきた人たちは違う。この人たちには力が無かったが自分にはこの状況を変える力がある。この人たちには頼れる人が居なかったが自分には居る。この人たちは復讐のために拳を振り下ろすことしかできなかったが、自分なら他にもっと良い方法を実行に移すことが出来る。
俺は王様だ。他の人を導くことが出来る人間だ。
ぐっと胸を掴んだところで視界が元に戻った。
鹿の獣の胸に手を突っ込んでいた。
突っ込んだままぐっとそれを引き抜く。黒色の細長いつららのようなものが獣の胸から出てきた。泥の肉がそのつららに吸い込まれていく。
肉は消え、首塚がカタンと床に落ちた。
骨がこちらを見て笑っていた。
「理性的ナ狂人ヨ。汝ガ器ナリ。ソノ役目ヲ果タセ」
部屋が収縮する。
骨が泥の壁の中に吸い込まれていく。泥の中から新たな空間が生成されていく。
天井に続く階段。その途中に自分は立たされていた。
体は治っていた。
ぼうっと、青白い光が目の間に現れる。
ダクは呆然とした頭で尋ねた。
「あれは何だったんだ?」
『分からない。ただ私も同じことをさせられたわ。私はあの時、拳を振り下ろさなかった。孤児の顔が部屋の中から見えたから』
「そうか」
『あなたみたいにこの方法は違うってきっぱり言えたわけじゃなかったけれど、私は理不尽に耐えることが出来た。だから今はこんな姿でこんなことをしているんだと思うわ。それが私の役目なのでしょう。あなたもソレを手にしているということは果たさなければならない役目があるのでしょう』
「役目......」
自分の手元には黒いつららが残されている。
ダクは役目について考える。
王の器としての役目。直観だが、このつららにはこの先を切り開く力があると思った。人の無念やこの世界に対する恨みの結晶だが、それらを従えることが自分には出来ると思った。
役目がなんとなく分かった気がした。
『あの人は元気にしているかしら』
「元気......どうだろうな。ただ沼ノ守なら何があっても死なないような気がするよ」
『なら、伝えて。私は今に満足してる、って』
「分かった」
彼女は役目について分かっているのだろう。それが短い会話の中から感じ取れた。
『行ってらっしゃい。あなたの行くべきところへ』
光が見える。
青白い光ではなく、太陽の光。外の光だ。階段の上にそれが見える。
ダクは階段を昇り、光の中へと歩みを進めた。
持影を持つ者の死
死体に持影は残らない。しかし魔獣の死体には呪いが残る。何故そうなるのかは分かっていない。
ある男の手記より




