24話 執念
胴体と頭が離れるところを初めて見た。
少女を掴んでいた手の筋肉はその緊張を解いた。床に落ちそうになる少女を沼ノ守が汚れていない方の手で掴む。
「すぐにここから出ていけ。これは譲歩だ」
わなわなと老人が口を震わせている。本当に殺すとは考えていなかったのだろう。
「そんな、まさか......」
老人たちは気づいていたのだろうか。自分たちが己のために孤児に手をかけようとしたことに。たとえそれが脅しに過ぎなかったとしても目の前に自分よりも弱い者があれば力でねじ伏せようとしてしまう人間の性に。
「三秒だ」
「え?」
「三」
「ちょっと待って下さい! 話を──」
「二」
「もう私達に道は──」
「一」
「っっ──!? かかれぇぇぇええええっ──!!!!」
老人の掛け声は途中でぷっつりと途切れた。その掛け声を聞いて足を踏み出した者、武器を取った者、逃げようとした者、全員何も出来ずにその場に倒れた。そこに立っていたのは返り血を浴びて真っ赤に体を染めている沼ノ守だけだった。
「うぁ......あ」
バードンはその凄惨な光景を見て立てなくなっていた。
沼ノ守はもう動かなくなった人だったものを鬼殺しの沼へと放り投げた。沼は瞬く間にその体を飲み込み、肉体をむさぼり骨を消化した。山積みになっていた死体は跡形もなく消え去った。
「もう遅い。お前らは寝ろ」
そう言われて気が付いた。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。シャルにベッドに促されるがあんなことがあった後では寝ることも出来ず、俺はこっそりとベッドから抜け出した。
リビングをランタンの明かりがぼんやりと照らしていた。俺は見てはいけないという気持ちと好奇心のせめぎ合いに負けてほんの少し扉を開けた。そこにはシャルとバードン、それに沼ノ守が座っていた。dシャルがいつになく悲しそうに佇んでいた。
「何も、全員殺すことは、無かったではないですか......」
「......」
沈黙が流れる。バードンが口を開く。
「......いや、俺は、殺さなければならなかったと思います。もしもやらなければうちの孤児たちが死んでいた、と思います。あいつらはどこまでも利己的だった。せっかくの譲歩だって受け入れるかどうか最後まで迷っていた。そして選んだのは敵対する道だった。死んでも仕方ないと思います」
「命が掛かっているんです。利己的にもなりますよ......」
「それが約束を破っていい理由にはならない」
沼ノ守はシャルの言葉をぴしゃりと切った。
「あのルーザーと我々はあらかじめ約束を交わしていた。数日でここを出ること。それ以上の面倒は見ないこと。そしてこの約束を破れば命の保証はないということ。それを破ったやつらが死ぬのは道理だ」
それでもシャルは顔を上げようとしなかった。どこまでも優しい彼女に沼ノ守は言い放った。
「お前は優しい。それはこの世の中で貴重だ。でも優しさと甘さは違う。やつらは守るべき線を越えてしまった。だからそれ相応の制裁を受けることもそれはお前にも分かるだろう」
その沼ノ守の声は何時になく優しい声だった。子供をあやす時でさえここまで優しい声を彼は出さない。俺はあの時、どれだけ沼ノ守が彼女のことを思っているのか、その答えの片鱗に触れたような気がした。
その時、ドンッと外で何か鈍い音がした。
「何の音だ」
「見てきます」
「シャルはそこに居て。俺が見てきます」
バードンがシャルを制して玄関の扉を開けた。そしてその光景を見て硬直した。その様子に何かがおかしいと思ったのか、沼ノ守が後ろを追った。そして沼ノ守もまたその光景を凝視する。
俺はその位置から彼らが見ている光景を見ることが出来なかった。だからたまらなくなって子供部屋から飛び出した。シャルやバードンは俺が出てきたのを見て驚いていたようだったが、沼ノ守は驚かなかった。思えば祝福を持っている沼ノ守なら俺が音を立てずに扉を開けたとしても気づかないということはあり得ないだろう。
俺はその光景をして絶句した。
「何だ......コレ」
そこにはドロドロの怪物が立っていた。まるで丸々と肥えた犬が二足で立っているような見た目をしていた。目は無く、口にはびっしりと歯のようなものが着いていた。そして何より大きかった。それはオルファネージよりも身長が高く、両手を広げればオルファネージを羽交い絞めにしてしまえるのではないかと思えるほど大きかった。
「下がっていろ」
沼ノ守の全身から尋常でない殺気を感じた。体から出た黄金が禍々しく見えるほどの殺気だった。
「ふんっ!!」
渾身の拳がドロドロの怪物を捻じ曲げた。拳の当たった部分を中心にドロドロから岩のように硬い状態になっていた。しかし、硬くなった部分はドロドロに囲まれてまるで何も無かったかのように復活する。
「やつら、道連れにする気か」
「い、一体何が起こってる? これは何だ? 沼なのか?? 鬼殺しの沼が怪物に形を変えているのか? これはルーザーの仕業なのか??」
バードンが頭を抱えて歯ぎしりをしている。戸惑いや怒り、その他諸々の感情がこみあげてパニック状態になっていた。何が起こったのかその場で理解している人間は一人もいなかった。だが昼間のあの出来事が引き金となってこの怪物が生み出されてしまったことはなんとなく想像できた。
「ふぅあぁっっ!!!」
殴っても殴っても痛みすら感じない怪物。それは呪いの塊であり、オルファネージを潰そうとする意志を持っているようだった。沼ノ守は殺したルーザーたちのことを思い出していた。あの執念がこの怪物を作り出したのだとしたら、なんて身勝手なのだろう。
「なるほど。奴らは利己的か。言い得て妙だな」
額に浮かんだ汗を拭い取りながら沼ノ守は拳を握り直した。
沼ノ守はまだ戦えるように振舞っていたが、俺はそれが沼ノ守の活躍によってどうにかなるようには思えなかった。怪物は不死身で、そもそも生きていると言って良いのかすら分からなかった。生きているのか分からないから殺すことも出来ない。そんな存在に思えた。
そして彼女が口を開いた。
「私が説得に行ってきます」
聞いた瞬間、彼女の話したその言葉がどういう意味なのかが分からなかった。
バードンは半分パニックの状態のままシャルに問いただす。
「どういう......何をしようとしてる?」
「......殺された人たちにもうやめて欲しいと頼みます。きっと殺された時、無念だったのでしょう。そんなどうしようもない思いに沼が応えてしまったんだと思います。なのであの沼に入ってやめて欲しいと頼むつもりです」
「そんなバカな......どう考えたって無理だ!!!」
「無理なことはありません。呪いも、祝福も、人の意志から生み出されるものです。強い祈りは必ず届きます」
彼女の言っていることは論理的ではなかった。しかし、彼女はそれを信じて疑わなかった。そして彼女なら多分それを成し遂げてしまうだろうというある種の確信のようなものを感じていた。彼女の高潔な魂にはそれを可能にしてしまう力があるような気がした。
ひざまずき、バードンの手を握る。
「あなたは優しいです。孤児院のこともよく見てくれています。私が居なくなった後もこの孤児院の子たちを支えてあげてください」
「無理ですよ......だって俺は──」
「『手足を縛りしその枷を外せ。心を繋ぎしその楔を抜け。我は罪を負いし者、汝から奪いし不完全を呪縛に変えて生きる者。古き罪は我が背に、新しき罰は彼の者の背に。罪を許し、自由を脅かす者から守る力を彼に与えたまえ』」
バードンの体が輝き始める。涙は床に落ちる前に黄金色の胞子となってふわりと宙を舞った。
「俺はあなたが好きだからずっとここに......」
「では惚れた女からのズルい頼みということで一つ、頼みます」
彼女はにっこりと笑った。本当にズルい頼みだった。バードンは動けなくなってしまった。
彼女は踵を返して扉の向こうへと歩いていく。
「させないぞ」
沼ノ守は彼女の前に立ちはだかる。彼女はそれでも歩いて行こうとする。
二人の距離は近づく。そして彼女は沼ノ守を抱きしめた。
「行かせてください」
「ダメだ」
「一生のお願いです」
「これから死のうとする人間がそれを使うのは卑怯だろ」
彼女はギュっと強く抱きしめる。
「好きです」
「知ってる」
「行かせて下さい」
ダメだ、と口だけが動いた。腕の力はもうあまり入っていなかった。沼ノ守は昔から彼女の頼みは断れなかった。
彼女は彼の腕をするりと抜けていく。
「あなたも甘いですね」
沼ノ守は振り返ることが出来なかった。
「そんなところが大好きです。ずっと好きです。これからも」
沼ノ守はその言葉に正気を取り戻した。
「待て──」
彼女の髪に手が触れた。なめらかな髪は手からするすると抜けて、髪留めだけが手の中に残った。
怪物が彼女を襲う。
彼女はそれに身をゆだねるように抵抗することなく入っていった。
怪物の体はいびつな形に変化してドロドロと形を保てなくなっていった。そして何も無かったかのように沼になってしまった。
俺は立ち尽くす沼ノ守の横を通って彼女が消えた沼のほとりに足を運んだ。そこには一本のペンが落ちていた。彼女が大切にしていたペンだった。
俺はそのペンをそっと懐に仕舞った。
呪いと祝福の発現について
呪いと祝福の発現はルーザーになる側が呪いを引き受けると願うことによって発生する。その時、詠唱する場合としない場合があるが、詠唱する場合の方が上位の真影を発現しやすいとされている。詠唱は人によって違うが、詠唱の違いと発現する真影の法則性はまだ分かっていない。
著:リブリース=ウルライト『持影大全』より




