23話 愚かな人間ども
あれは今より30年ほど前、長く続く日照り、次第に衰えていく聖なる大地の地力。色々な要因が重ね合わさりその年は歴史的な飢饉が起きた。けれど、その時の俺はそんなこととは無縁の生活を送っていた。正確には俺達、オルファネージの孤児の耳に入らないように大人が配慮をしてくれていただけだったのだが。
「おーい! そっちまで行くとあぶないよー!」
「大丈夫! 大丈夫だって、シャル! 沼になんか落ちないって! なぁ、バードンもそう思うだろ!?」
「全く、これだから子供は」
あの頃は自分は沼のほとりを走るのが好きだった。時々足がはまって足がただれることもあったが、そんなことなど気にしなかった。
危ないところで遊ぶ俺を心配そうに見ていたのは綺麗な女性だった。名前はシャルロット。愛情を込めてシャルと呼ばれていた。年は40代前半だったが、それを感じさせない若々しさがあった。特にたたずまいがとても綺麗だった。彼女が走っているところを見たことが無かったし、座った姿はいつも背筋がピンと伸びていたし、食べている時も食器がこすれる音を聞いたことが無かった。綺麗なクセの無い白い髪がとても印象的で、日頃から凝った編み込みをしていた。孤児の皆が彼女に憧れていて、多くの男子は淡い恋心も抱いていた。今から思えばそんな彼女の気を引くために俺は危ない沼のほとりでも臆せず走る姿を見せていたのかもしれない。
そんな彼女の隣でニヤっと笑いながら俺の姿を眺めていたのはバードンだった。今でこそ年は同じくらいの見た目だがそれは祝福と呪いの影響で同じぐらいになっただけで、当時のバードンは30手前だった。バードンはオルファネージを出た後も時折戻ってきては運営費を納金していた。俺たちの様子を気遣っていたというよりは、シャルに会いに来ていたんだろう。そのころはまだ骨組には入っていなかったし、骨組自体もそこまで大きな組織ではなかったように思う。
そんな日常の一部分にソレはずかずかと立ち入って来た。
「何だ、アレ? おーい! あっちのほうになんか見える!」
「人影か? こっちに向かってきてる気がする。かなり多いな。人の割に荷物が少ない......嫌な予感がする」
「沼ノ守に伝えてきます」
バードンの嫌な予感は的中した。何十人もの人がオルファネージにやって来た。オルファネージの中はすぐいっぱいになってしまったから代表の数人にだけ入ってもらって他の人は外で待ってもらうことにした。沼の臭いを濃くした臭いと長く洗っていない体特有の小便臭い臭いが服の中を埋め尽くしていた。
「それで?」
「話の分かんねぇオヤジだなぁ! 王都から追われて来て俺達にゃ帰る場所もねぇんだよ! ここまで言われたら分かるだろ! ここで匿ってくれっつってんだよ!」
バンッ! と大きく机をたたく音が鳴った。二十代ぐらいの若い男だった。沼ノ守は微動だにせず男を睨みつけている。若い男がたじろぐ。初老の男が後ろから出てきた。
「やめなさい、ガル。すみません、若いのは血気盛んで。ですが私からも頼みます。昨今の日照りのことは知っているでしょう。あれで食料が減り、自然と我々ルーザーにヘイトが集まるようになったのです。我々は住む場所を失い、食べるものも無く......どうか、お願いです! この飢饉が収まるまでとは言いません。せめて我々の旅立つ次なる場所が見つかるまでここに置いていただけないでしょうか?」
初老の男は鬼気迫る表情で沼ノ守にそう訴えた。実際、ここを追い出されれば死ぬしかなかったのだろう。だが、あまりにも真剣な様子すぎて、幼かった俺の目にはそれがなんだか演技臭いもののように見えた。
「それで? それと我らが何の関係がある?」
「何の関係がって......あなたは多くの孤児を救ってきた。すなわち弱い者を助ける人間でしょう?」
「同じく弱い者だから自分達も匿ってほしい、と? その優しさに付け込めると思って、食い扶持を奪いに来たというのか? 生憎、万人に分け与えられるほどの資材は持っていない」
「そんな......殺生な......」
沼ノ守はきっぱりと断った。ここまで懇願する人間の要求を突っぱねるなんて、沼ノ守には人の心がないのかと思ったものだ。だが、今から思えばその選択は正しかったのかもしれない。人には面倒を見ることが出来る範囲とそうでない範囲があるのだ。
しかし万人に分け与えられるほどの優しさを持った人物がそこには居たのだ。
「少しだけならここに置いてあげても良いではありませんか」
「シャルロット。そういうことはここの状況を鑑みてから──」
「鑑みましたよ。数日分なら食料も賄うことが出来るでしょう。そのかわりルーザーの方々にはここの建て替えでも手伝ってもらうのはどうでしょう? ちょうど人手が足らなかったところですから」
「お前......」
沼ノ守は頭を抱えた。実のところ彼もシャルには頭が上がらなかったのだ。シャルは沼ノ守の最愛の人で、長い人生の中でも唯一惚れ込んだ人だったからだ。もちろんシャルも彼のことを愛していた。普段、愛を囁くことなんてないから俺達孤児は彼女に恋心を抱いていたけれど、静かで強い愛がいつもそこにはあったんだ。
後から分かったことだが、俺もそんな愛に助けられた一人だった。彼女は捨てられた孤児を見ると放っておけないらしく沼ノ守に保護を求めるらしい。俺達もそうして拾われて来たのだ。
「......分かった。ただし数日でここを出ろ。それ以上の面倒は見ない。そしてこの約束を破ればお前たちの命も保証はしない」
ルーザーたちは大喜びだった。夕食にはパンが一人一つだけ振舞われた。彼らはそのパンを涙を流しながら食べていた。パン一つでここまで涙を流せるものなのかと俺は驚いていた。ルーザーと俺たちの共同生活が始まった。
しかし、そんな日は長くは続かなかった。
「なんだと!? もう出ていけってか!? まだ次の行先は決まっていない!!」
「もう貯蔵庫の食料が尽きかけている。このままだと我らも死ぬ。道連れにはされたくない」
「じゃあ俺たちに死ねってのか!?」
「そうだ」
沼ノ守は淡々とそう告げた。それは死刑宣告のように残酷で非情で、極めて冷静だった。
「そんな殺生なことを言わんでください。我々はルーザーですが、利用価値ならあります。今は食い扶持を消費するだけでもいずれは自分達で作物を賄えるようになります。何なら今すぐ仕事をすることも出来ます」
初老の男性は沼ノ守ににじり寄り耳打ちする。
「そこの子供を匿うよりもよっぽど利用価値があると思われませんか?」
沼ノ守はギロリと初老の男性を睨みつけた。そして汚らわしい虫でも払うようにその男性を突き飛ばす。
「失せろ。その下衆な提案を二度と口から発するな」
「酷いですなぁ......」
よろよろと立ち上がりながらそうつぶやく。沼ノ守は今にも怒りが沸点に達してしまいそうだという顔をしていた。
若い男が急に孤児たちに近寄ってくる。そして女の子の胸倉を掴んでぐいっと引き上げた。血走った眼。容赦ない力強さ。およそ大人が子供に向けるべきではない力だった。
「要するに、こいつらが死ぬか俺たちが死ぬかってこったろう!? ならそういうのは俺たちの手で決めるべきなんじゃねぇのか!?」
このままでは殺されてしまう。俺はそれを止めたくて必死に走った。だが俺の力では何も止められないことも分かっていた。
男は少女を掴んだまま腕を振り上げた。
「死ね」
一瞬の出来事すぎて何も見えなかった。その言葉だけが聞こえた。
男の頭が放物線を描いて飛んだ。木の扉にガコンとぶつかってコロコロと床を転がった。
沼ノ守は腕からピッと血を払った。その手刀からは黄金色の光が舞っていた。
7の呪い 老衰の呪い
常人よりも早く老化が進む。人によって個人差があるが、平均的に見ると三倍の早さで老化が進むと言われている。また老化による影響も受けやすく老いるとまともに体を動かせなくなることが多い。
著:リブリース=ウルライト『持影大全』より