22話 眼帯は嗤う
その男は沼の上に立っていた。足には祝福をまとい、的確に祝福を送り込むことによって沼の呪いを打ち消し、あたかも地面の上を歩くように近づく。それはあまりにも繊細で滑らかな持影のコントロールで、まるでいつもその行為を行っているかのような動きだった。
「まさかここを沼に沈めるなんてな。因果なものだ。なぁ、ドレイク? ルーザーは自分が生きるためなら何でもする。これはそれの証明だろう」
天井裏に引き上げられたダクは意識を持っていかれそうになりながら眼帯の言葉を聞いていた。
「大丈夫ですか?」
「あぁ......まだ岩は抑えられてる」
ダクは腕に着いた沼の飛沫に自身の呪いを纏わせて紙のような形状にした後、べりべりと剥がす。腕がふっと軽くなるのを感じた。
「出てこい、ドレイク。ここが俺とお前の因縁の始まりだっただろう」
ダクはドレイクの方を振り返る。彼は聞いているのかいないのか口を閉ざしたまま目を伏せていた。ダクは眼帯に話しかける。
「どうしてこんなところまで来た? お前は王都の治安を守るのが仕事ではなかったのか?」
「もちろん。王都の治安を脅かすルーザーどもを根絶やしにするのが我々の務めだ。だから遠路はるばるここまでやって来たのではないか」
「それで罪のない子供たちまで巻き込んでこの場所を襲撃したということか」
その言葉を聞いて眼帯はクククッと笑いがこらえきれないという風に笑いだす。その笑みは邪悪でどす黒いものに見えた。
「巻き込むためにここにやって来たのはお前たちだろう。それに罪ならある」
ダクは後ろに居る子供たちを見た。自分たちにどんな罪があるのか思い当たることがないといった表情の子や、そもそも「罪ってなに?」と周りの子に聞いている子もいる。この子らが罪を犯しているようには思えなかった。
眼帯は大げさに両手を広げるとにやりと笑う。
「このオルファネージは引き取った孤児をルーザーにし、大量のルーザーを作り出している! たった一つのバカげた目的のために、だ!」
それがどういう意味なのか、すぐには分からなかった。しかし、この場所の年長者であるアスターからは確かに呪いの香りがした。アスターの方を見ると、目を伏せたままこちらと目を合わせようとしなかった。
その様子を見て分かった。
眼帯の言っていることは確かに本当のことだ、と。
だが何かが引っかかる。
「ドレイク、そろそろ降りてきたらどうだ? 俺と面と向かって話せないのか? 降りてこないのなら──」
バードンが祝福のこもった腕で呪いの沼を掬い上げる。掬い上げられた呪いの塊は一つの球体となった。表面に薄く祝福を纏わせて呪いを土の皮でコーティングしたのである。それを見てダクはこの男が何をしようとしているかに気が付く。
「降りて来させるだけだ」
そう言い終わると同時にダクは屋根裏を飛び出していた。しかしそれより速く眼帯は球体を投げていた。太い柱に球体が当たり中身を飛び散らせる。休息に呪いは柱を侵食した。
ダクは地面ごと床を一気にまんべんなく溶かすことで天井や柱を残したままオルファネージの高さを鬼殺しの沼よりも低い位置に落とした。柱が溶ければ天井を支えていたバランスが崩れる。すなわち──
「天井が落ちる......!」
このまま天井が落ちれば子供たちもこの沼の中に浸かってしまうだろう。そうなればまず助からない。
ダクは沼の中にざぶんと下半身を漬ける。そして沼の表面に手を押し当てる。
「固まれ......!」
呪いの形を変えて腕から払い落としたように鬼殺しの沼全体に自身の呪いを這わせようとする。しかし、沼に浸かった足から岩の棺桶が迫り来るのを感じていた。
とても間に合わない。
「クソッ!」
棺桶を払い除け、沼をコントロールするにはあまりにも時間が足りなさすぎた。天井が壊れる音にダクが歯を噛み締めた時、何かがオルファネージを出ようとしている眼帯に降りかかったのが見えた。
眼帯はそれを見て目をギラギラと輝かせ歯をむき出しにして笑った。
「やっとお出ましか!」
落ちてきたのはドレイクだった。眼帯の上半身に足を絡みつかせてがっちりと体を固定させる。
「沈めッ!!」
ドレイクは背中をのけぞらせた。重心が狂った眼帯は仰向けに倒れることしかできなかった。このまま倒れれば沼の中に沈むしかない。沼の中に沈みたくなければ祝福で体を沼に浮かすしかないが、この咄嗟の場面で易々と出来るほど繊細な持影のコントロールは簡単なことではない。
「チッ」
眼帯は背中に沼が触れた瞬間に大量の祝福を放出した。眼帯を中心に沼の表面が固まっていく。コントロールさえしなければ持影係数の高い眼帯にとって沼の表面を固めることは難しいことではない。ただ、それによって沼の中に落ちるはずだった天井は沼に沈まず地面に受け止められた。
「さぁ、みんな! あっちへ避難しましょう」
ダクは落ちてきた天井の隙間からソレイユの声を聴いていた。おそらく天井が落ちた衝撃からは守ってくれたのだろう。ダクは固まった呪いを溶かし天井に穴を開け体を押し上げる。
瓦礫の間から出てくるバードンとドレイクの姿が見えた。ドレイクは体についた土埃を片手で払いながら声を発する。
「もっともらしい理由。正しさを纏って場を支配しようとするクセ。そんな薄っぺらい化けの皮で自身の本当の目的から人の目を逸らさせる。お前は何も変わっていないな、バードン」
バードンは静かな口調でそう続けるが、チラリと見せた瞳にはバードンへの怒りや苛立ちのようなものが見えた。
「お前の本当の目的はこのオルファネージごと『お母さん』の忘れ形見を消すことだ。そうだろう?」
バードンはクククと笑う。
ガタンと向こうの方で瓦礫を押しのける音がした。そちらの方を見ると鬼の形相をした沼ノ守が立っていた。少し遅れて槍を構えたランが何事かとバードンを睨む。
「どういうことだ、これは」
「バードン! 何もオルファネージの孤児たちまで殺ることはなかっただろう! 何をしている!?」
沼ノ守は静かにバードンの胸倉を掴む。それでもこの状況がおかしいとでもいう風にクククと笑い続ける。
ランはこの混沌とした状況に眉を顰め、槍を構える手の緊張が抜ける。戦意がそがれてしまったようだった。
「もう、話すしかないでしょう。あの時のことを」
「部外者に説明する必要は無い」
ドレイクは沼ノ守に語り掛ける。しかし沼ノ守はその提案を一蹴する。ランは自分が除け者扱いをされていることに苛立ちを見せた。
きっと自分も知らなければいけないのだろう。
ダクは踏み出した。
「聞かせてくれ。ここで何があったのか。知らなきゃならない気がする」
沼ノ守はダクを睨む。ダクはその鋭い視線をまっすぐ見つめ返した。
沼ノ守はふぅっと息を吐いて空を仰ぎ見る。
それが許しだったのだろうか。ドレイクは昔の話を語り始めた。
沼ノ守
沼ノ守は自分のことを沼ノ守と呼べとしか言わない。私の中ではもうすでにお父さんだけれど、沼ノ守の中では自分の娘ではないのかもしれない。そう思うと少し悲しい。
ある少女の覚書