16話 沼の孤児院
馬車が目的地に近づくごとに異臭が強く、より濃くなる。町の中でも漂っていた生臭さが湧き出しているように思えた。その臭いの元凶に目を凝らすと紫色の流体が石造りの洋館を囲い込んでいた。
「あれが、鬼殺しの沼......」
「そう。恵みの大地を汚す魔獣の牙の傷跡であり、300年前の魔獣抗戦の名残だ」
沼の前まで来た時、馬車がガタンと揺れた。馬がこれ以上進むことを拒んだからである。馬を操る御者がこちらを見て苦笑いしたのでそこで馬車を降りた。痩せた中年の御者は降りた自分達に小さく頭を下げて馬車を歩かせた。止められる場所を探すらしい。
沼の周りを歩きながら洋館に行けそうな道を探す。沼の中にはところどころ陸地があるものの、とても渡れる気はしない。広大な沼の周りを歩きながら洋館の様子を確認するが、洋館の周りに人の気配は無くこちらを警戒している気配もない。朝早くとはいえこの静かな空間で馬の闊歩する音が響けば、何かが来たことぐらいは気づいていてもおかしくないだろう。
沼のほとりを歩き洋館の正面まで来ると、沼から突き出すように渡れるかどうか分からないぐらいの飛石が配置されていた。沼に触れているところの石の表面だけいびつな形をしていた。どうやらこの沼が石を徐々に溶かしているらしい。
「渡れそうですか?」
ソレイユがダクの顔を覗き込む。ダクは先ほどまで眠っていた自分の体と相談する。
「ごめん。ちょっと厳しいかもな」
「そうだと思います。よいしょっと」
ソレイユはダクの体をお姫様抱っこで抱きかかえる。ダクの顔が微妙な表情になっているのを見てソレイユは噴き出すように笑った。ソレイユはそのままひょいひょいと飛石を渡ると、同じようにドレイクも抱えて軽々と行き来する。
洋館の真正面まで来たダクは呼び鈴を探す。それらしいものが見当たらないのでドアをノックするが返事はない。ドレイクは左手で重そうな扉を押し開ける。
「許可は要らん。元より、ここの主は外の人間とのつながりを好まない」
そう言ったドレイクはまるでその場所が自分のテリトリーかのように部屋の隅にある椅子に座る。ドレイクが目を瞑った時、奥の部屋から誰かがやって来た。
その男性は見たところ50代手前の顔つきをしていた。だがその顔に見合わず体つきはがっしりとしていてまるで厚い装甲板のような筋肉を纏っていた。ふわりと祝福が香ったのが分かった。男性は七三に分けられた白髪を指でなぞると顎で奥の扉に入れと促した。ダク達は促されるままに中に入る。
「これは......」
そこには多くのベッドが敷き詰められていた。小さめのベッドで寝ているのは小さい子供だった。
「ここでお前たちが守らなければならぬことは二つ、孤児に危害を加えぬこと。それと──」
男はさらに奥の部屋を指さす。男の体からすると使い勝手の悪そうな小さな扉だった。
「その部屋には絶対に入るな。その掟を破るなら政府の人間だろうが反乱軍だろうが出て行ってもらう。それ以外は好きにしろ」
それだけ言うと男は名乗ることもこちらのことを聞くこともなく外に出ようとした。ドアノブに手をかけたその男にドレイクが近づいていく。そして何かを耳打ちした。男の目が見開かれる。そして踵を返し速足でダクに近づきまじまじとダクの体を見つめる。
「貴様は......本当に500年前に死んだ王の兄なのか......?」
ダクはその様相の変わりように驚いてたじろぐ。ダクがこくりと頷くと、額に手を当て何やら考えているようなそぶりを見せたのち、再度部屋を出て行こうとした。そこに話しかけたのはソレイユだった。
「あの、何か手伝えることはありませんか」
「別に必要ない」
「でも、これだけの人数の朝ごはんを作るのは大変じゃないですか? 私、宵橋教会でシスターをやっていたので結構、腕に自信はあるんですよ?」
「......好きにすると良い」
「ありがとうございます!」
ソレイユは明るい笑顔を振りまき男の後ろを着いて行く。その姿を見ながらダクは感心する。ダクも何か出来ることはないかと探してみるが、何も思い当たらない。思えばこれまで誰かのために働くという経験をしたことが無い。こんな時に何もできないことを心の中で恥じていると、不意にズボンを引っ張られるような感触がした。
「おにいちゃん、だれ?」
「うおっ!?」
下に目線をやると年端も行かない少女がズボンを掴んでいた。
「あの、えっと......」
「おっ、レジスタンスのおじちゃんたちだー! また逃げてきたのか!?」
「おみやげ! おみやげ!」
ダクが答えに言い淀んでいる間にぞろぞろと子供たちが起きてくる。ハタヤはニコニコしながら相手をしているがナキはあまり子供が得意ではないようで子供を避けるようにすり足で後ずさるも子供の波に流されて結局相手をすることになってしまっていた。ドレイクは寝顔を指でつままれても微動だにしていない。さすがと言ったところである。
ある程度、相手をしたところで向こうの部屋からソレイユが顔を覗かせた。
「皆さん! 朝ごはんが出来ましたよー!」
子供たちはわぁっと声を上げて走ってソレイユの方へと走っていった。彼女なら自分たちのように子供のおもちゃにはならないだろうなとダクは静かに笑った。
朝食を食べられないダクとハタヤはその場に残った。そしてダクは疑問に思っていたことを口にする。
「一体ここはどういう所なんだ?」
「ここはオルファネージ。様々な理由から親を亡くした子供たちをあの人が連れ帰って育てている、いわば孤児院みたいな場所だ。運営費は孤児院を出て行った者からの寄付と政府の援助で成り立っているらしい」
「なら、なんでわざわざこんなところに......? 王都に近い方が利便性も高いだろうに。ましてこんな沼地の中なんて......」
「むしろここに建てているからこそ成り立っているんだ」
「どういうことだ?」
ダクは疑問符を浮かべる。こんなところに建てる理由なんて政府の干渉を受けないためとしか考えられない。政府と敵対していないのであればこんなところに居る必要は無いはずである。
「ここでしかできないこともあるということだ。指近衛の持影は黄泉の塔から離れれば離れるほど弱くなるとされている。ここまで来ると指近衛の持影係数は大体7~8まで落ちる。そしてあの人の持影係数は7。沼を知り尽くしているから、ここでなら彼は指近衛と互角に戦える。政府からの援助はそんな彼の脅威に対して支払われているものなんだ」
「指近衛と互角......」
ダクの脳裏に槍の男の顔が思い浮かぶ。ドレイクの命を奪おうとし、自分の全力の不意打ちも一度は受け止められた。あの相手とあの男が互角に戦えるとはにわかに信じがたかった。
「あの人の名前は?」
「名前は誰も知らない。まぁ、呼ばれない名前を名前と言えるのかは微妙だけどね。そういう意味で言えば彼の名前は本名とは別にある」
ハタヤは指を立ててダクを見つめた。
「沼ノ守。それが彼の名前だ」
ドアの向こうで沼ノ守の姿がチラリと見えた。その無表情はダクには少し恐ろしく見えた。
オルファネージ
鬼殺しの沼にある孤児院。沼ノ守によって運営されている。鬼殺しの沼というギフテッドに不利な立地、沼ノ守の力によって王からも手出しができない状態となっている。現状、オルファネージをつぶす方法は唯一王が直々に出向いて戦うしかないと思われているが、それは王国の維持を考えると不可能に近い。オルファネージは王国に危害を与えていないため、両者のやり方に口を出さないという条約を結び治安を維持している。ゆえにオルファネージは王国にとっての不可侵領域と化しており、ルーザーにとってのセーフルームと化している。逃げ込んだルーザーに対しては資金的援助をすることはないが、数日泊めさせるぐらいの援助はする。
ある男の手記より