砂漠の行進
「どこか……どこか安全なところはないのか」
灼熱の太陽のもと。砂丘以外の障害物がないからこそ千里先まで見通せるこの大地で、この男マルコは遭難しようとしていた。
生きとし生きるすべて干からびさせてやろうと太陽が猛威を振るっていたというのに、そんな影はなく。
砂嵐によって噴き上げられた砂塵によって周囲は闇に包まれた。
この脅威からどうにかして逃れようとマルコは這うようにして地面を移動していた。
世界で最も過酷と言われる競い合い。無謀、無茶。そんなありきたりな罵倒を通り越して狂気的とさえ言われる砂漠マラソン。
そこにマルコは一競技者として参加していた。
妻からは死傷者すら出しているこんなレースに参加するのはばかげていると常々文句を言われており、娘からもわざわざ海外まで行ってそんな過酷なレースをするよりも近場でフルマラソンなりトライアスロンでもやったほうが効率的だと思われているのを知っていた。
それでも参加している理由は本人のみぞ知るというよりも本人ですらうまく言語化できないでいた。
できないからこそ家族からはなおさら理解が得られずに対立が生まれるという悪循環となっているのだが。
そんな状況になっていても彼はこの場所に導かれるようにやってきていた。
だからこそ、この一寸先すら見通すことができない闇にかち合ったのはいったい誰のせいかと言われれば自分のせいだというほかない。
まるでマシンガンの様に一粒一粒が自分の体を削っていく。
最善策はレースの道筋から外れないようにただただその場で耐え続けるべきだというのはもうわかっていた。
だが、あまりにも激しく砂粒交じりの風が自分に吹き付けてくるものだから手で鼻や口をおさえればどうにか息をすることくらいはできるものの真綿で首を絞められているかのような息ぐるしさを感じてしまう。
「こ、このまま手をこまねいていれば酸欠で死ぬ」
ただ身をかがめてうずくまるだけでは隙間から砂が呼吸器に入り込んできてしまいまともに息ができない。
どこかに風よけがあればいいのだがそんな都合のいいものがこんな砂漠の中にあるはずもない。
仕方がないので、風に逆らうのではなく、風に流されるようにゆっくりと風下に歩いていくしかなかった。
運がいいのならばどこかに身を守る場所があればいいとは感じるも、そんな都合のいい場所など見つかるわけもない。
これがのちに禍根となることはわかり切っているというのにそれでも動かざるを得なかった。
「そういえば爺さんが言っていたな。砂嵐に遭遇したのならばとにかく身を隠せる場所を探せって」
砂漠。燃え盛るような太陽と砂しか存在しない不毛なる大地としか思われていないだろうが、地下水脈やオアシスといった命をはぐくみ水は存在している。
この状況だ。贅沢は言わない。
「木、いや、草でもあったらいいんだが」
今欲しいのはほんの少しでも身を隠す場所だった。それだけあれば最低限の呼吸くらいなら問題なくなる。
こうして、草葉の陰に身を隠してはそこが砂にうずもれてしまい、また新たな場所にふらふらと移動していく。そんなことを何度も何度も繰り返し、空高く太陽が昇っている刻から太陽が西の空に沈み時分となった時。あたりには全く未知の光景が広がっていた。
砂漠は流動性の高い砂で構成されている。
風をはじめとした自然現象で風景そのものが変化してしまう。
発見された遺跡が砂に埋もれて発見が不可能となったり、砂の中に埋もれた遺跡が地形の変動によって姿を現したりすることもある。
そう、一度砂嵐が発生するだけで砂漠というのは地形そのものが一変してしまう。
「ここはいったいどこだ」
必死になって地図を広げるもここは何の目印もない砂漠のなかだ。
周囲を見渡すも地形が一変しているせいでどこに何があるのかなんてことがわかるはずもない。
念のためにともってきた方位磁石があるおかげで大体の方角は見当がつくものの今どのあたりにいるのかがわからないのだから宝の未持ち腐れ以外の何物でもありはしない。
「ここからどこか目立つ場所に」
そういってどうにか歩き出そうと足を進めようとして、どうしても歩き出せない。
それほどまでに砂嵐による体力の消耗はマルコの体力を奪い去っていた。
砂漠の特色。それは全く水分が存在しない環境だ。
水の保温能力があるからこそ、気温の変化は緩やかになる。
暖かいコーヒーを飲んだ時十分くらい経過してもまだ温かいまだというのはよくあることだ。 身近な物質の意外な真実として水野保温能力は全物質の中でも群を抜いて高い。
水がないからこそ、砂漠には保温能力が存在せずに夜になれば気温は氷点下以下にまで低下する。
とはいっても水分の補給のめどが立たないこの環境の中では夜分に移動することが最善策となるのだが、あまりの疲労にもはや動くことができないマルコは少しでも体力を解放させようと動き出すよりほかにない。
あまりにも重くのしかかってくる疲労感。手や足はもはや鉛のように重くなっており最初のころはただじっと空を眺めることしかできなかった。
それが太陽が完全に西の空に沈むまでずっと同じことをしていたのだが、いよいよ太陽が沈むという段階になった時、マルコは慌てて風よけ代わりに使っていた枯れ木や草を集めたかと思えば火をつけ薪とした。
「そういえば昔爺さんと冬のキャンプをやったな」
その時は冬、寒い星空の下でともに流れ星を見ようという話だったのを今思い出していた。
薪を囲んでいながらも、寒い寒いと話を言いながら震えながらいたのをマルコのおじいさんが見かねて一つの措置をしてくれた。
今は食事の席。
このマラソンではルールによって水とテントはゴールまたは休憩に存在しているのだが、食料の供給は存在せずに各々が食料を持参しなければならない。
不幸中の幸いと言っていいのかどうかまではわからないものの、マルコはこうして食事にありつくことができていた。
食事を口に運ぶ前まではもはや指一本すら動かせないと感じていたのに一口口にものを放り込んだだけで手が止まらなくなった。
ただただ無心に用意された分の食料を放り込めばほんの少しだけ昔のことを思い出した。
これから自分がやるのはあの時と同じことだ。
燃え盛る焚火に砂をかけ沈下した後、ちょうど自分の体と同じくらいの間隔に広げていき、端に残していた砂をかぶせる。
こうはいっては何だが人の体を温めるのに炎なんてものはあまりにも火力が過剰だ。
家の中で部屋を暖めるのであればそれでもまだ足りないということもあろうが、野外、星空の下ではいくら炎の勢いが強かろうが足りるということはありはしない。
ならば炎の勢いを弱くして温まれる時間を伸ばそうとしてこの方法が編み出されたのだとマルコは考えていた。
初め、ただただ冷たいと感じられた砂も、地面の下から熱を発する炭の余熱によってじんわりと温まり氷点下以下の外気にさらされるマルコの体を芯から温めてくれていた。
「見渡す限り砂漠しかないな」
朝目を覚ますとともに。マルコは大きな砂丘の上から周囲を見渡した。捜査の手がここまで伸びているのかもしれないと考えたからだ。
そうでなくとも、欲を言えばオアシスなどの水源。太陽の光から逃れられる岩場、最悪でも草や木といった植物があればいいと考えていた。
結局彼の望みが叶ったのは最後の項目だけだったが。
「やりたくないなぁ!!」
重い重いため息一つ。水が当分手に入らないことを確信してしまったマルコはある決定をした。
精神的な嫌悪感から絶対にやりたくないという思いがあるのだが、それでも背に腹は代えられない。
マルコはズボンを下ろして小便を自分が持っているペットボトルの中に入れることにした。
尿というのは水分とともに排出される老廃物だ。
体に不必要なものを輩出しているのだから有害物質の塊だ。
とはいっても、緊急時の水分補給には選択肢の中に入る。
その際に必要なのは水分で希釈する必要がある。
「この分だと次かその次が限界だろうな」
水で割るといっても肝心の水が底をつきそうだったし、尿の量自体も重要だった。水分が少なければ成分そのものが濃縮されてしまい、最後の最後には人体の濃度よりも高くなってしまい口に含んでも海水のように喉が渇くだなんて結末になりかねない。
もうすでに水が尽きる未来は見えていた。
「さてと、これ動いてもいいのかな」
もうすぐ日が昇ってしまう。この環境で考えなければならないのが、ここから動くのか救助を待つかだった。
動く。
この選択を選んだ時、ネックとなるのは自分が今どこにいるのかわかっていないということだ。
なんとなくではあるがゴールの位置はわかる。
捜索隊が動くとなれば間違いなくマラソンのコースを中心として探索するだろう。
歩いていける距離なんてものはたかが知れるが、動けばさらにコースから離れてしまう可能性があるのだ。
動かない。
この選択肢を行った時、ネックとなるのは水の消耗だ。
この場所で太陽にさらされ続ければ脱水症状に苦しむこととなりどれだけ持つか分かったものではない。
どちらの選択肢にもそれなりの利点が存在しており、どちらの選択にも苦難の道が存在している。
「熱い、ああ熱い」
マルコは太陽を恨めしそうにに睨んだ。
こんな競技に参加する身だ。自分の選択肢だから今まで太陽に対して何の感情も抱いてはいなかった。
なのに今はこの太陽がどこまでも憎かった。
お前の輝きがほんの少しでもいいから弱まっていれば自分はここでただ救助を待っていたのにと、そんな恨み言を思わずに口にしてしまう。
「そもそも俺はいったいなんで妻や娘の忠告を無視したんだ。
こんなことならもっとあいつらの話に耳を傾けるべきだったなぁ」
後悔先に立たず。
マルコは今更になって家族の忠告に従っていればと後悔していた。
「こんな大会に参加したんだ。渡航費なりいろいろと金をかけたし、小言の類も無視してきたからな帰ったら絶対怒られるぞ」
明日を迎えられるのかどうかもわからない、こんな状況で思い出せることは家族のことばかり。
もちろん口に出して体力を使うなんてばかばかしいから声には出さないで頭の中で思うだけだが。
そんな思いを口にすればするほどに家族に対する思いが強まっていく。
こんな状況だったからこそ、家族の言葉が自分のことを思っての言葉だったんだなと身に染みる思いだった。
「!! なんだ」
そんな中、足に感じたわずかな違和感。
一体なんだと手に取れば蛇の死体だった。もう死んで時間がたっているのだろう。乾燥しミイラとなっていた。
「そういえば爺さんは言ってたな。自然というのは誰にとっても平等だと。だからこそ誰にだって見方するし誰にだって敵対する」
そんな哲学的なセリフを口にした祖父にマルコはただはいはいと相槌を打つだけで真剣に話を聞いていなかったのを今でも覚えていた。
サボテンにも木にもそして先ほど干からびていた蛇にも情け容赦なく太陽は降り注いでいる。
こんな状況のなかであったとしても彼らが生き抜いていけているのはひとえにこの環境を味方につけているのであって、この環境の中で自分が死にそうになっているのはこの環境になじめていないからだ。
「理屈としてはそうなんだろうが、生物の進化を考えれば人間が砂漠で中で生きられないのはある意味で当然なんだよな」
つまり、何もかもが自分が悪いのだ。
家族というのは無条件で自分に味方してくれるのに、自然というのは自分の力で味方につけるしかない理不尽さを持っていた。
「日陰だ、俺は絶対に日陰を見つけてやる」
日蔭壮日影がいいな。それも外からとびっきり目立つやつだ」
喉の渇きとそこからくる疲労のせいでマルコはそのあたりで見つけた木の棒で体重を支えなければまともに歩けないほどに衰弱していた。
それでも、その眼には生気が満ち溢れており、絶望的なこの状況の中でも打開策を打とうと動き続けていた。
結局一日中歩いても、日蔭はもちろん水も救助も目にすることができなかった。
脱水症状が進み、目の前の光景も歪んで見えてくる。
一歩一歩前に進むだけでもありったけの気力を振り絞ってやっとのありさまだった。
「帰る、帰るんだ」
体が疲れ切っていれば当然脳のほうも疲れ切っている。
最初のころは爺さんとの楽しい時間を思い返すていどには余裕があったというのに、今では片言の様にただただ短い思いを口にすることで精いっぱいになっていた。
特につらかったのは就寝時だった。
喉の渇きよりはましだと、夜間無理をして歩いていたのだが。もう体力の限界と歩みを止め寝入ろうとしても眠れない。
人というのは疲れていればすぐに眠りに入れるというのは経験則で知ってはいるのだが、この時ばかりは違った。あまりにも蓄積された疲労によって鋭敏に研ぎ澄まされた感覚はほんの少しの異常事態にも敏感に反応してしまいかえって眠りを妨げているのだ。
さらさらと流れてくる砂の流れが身体をなめまわすかのような不快感を与えてくる。
キンキンに冷えた空気が肌をナイフで切り裂くかのような痛みを与えてきた。
だからこそ、最初にその光景を見たとき幻覚だと感じた。
だが、本物であると確信するとマルコはこれまでつかれて死にそうであったのが嘘のように走り出していた。
そう、今はボロボロになっており壁しか残されていないものの建物を見つけたのだ。
とっくの昔に朽ち果てているせいでそれがいかなる建物であるのかなんては分からない。
もっとも、マルコにはそんなことはどうでもいい。壁があり周辺から目立つということがわかればそれでいいのだ。
「勝った、勝ったぞ。俺はこの状況に打ち勝った」
嬉しさのあまりに叫びをあげたものの、渇きによってカラッカラになっている喉のせいで痙攣を起こしてせき込んだ。
そんな苦しい状況の中でも笑い声が止まることはない。
もしも、この状況を誰かが目にしたのであればこの状況のせいで気でも狂ったと疑われただろう。
とはいえ、マルコは今急場しのぎが可能になっただけで、根本的な問題が解決したわけではない。
ここには緑が存在している。
これでどうにかして水を得ようとマルコは動きだした。
先ずは穴を掘る。
その穴の中心には何かに使えるかもしれないと考えていた食事の袋を置く。
周辺にはサボテンや草、葉っぱといった植物を。
その上に寝巻として使っていたシートを広げ、ちょうど袋の上に小石を置いた。
これで後は待つだけで植物から蒸発した水分が袋にたまるだろう。
もう一つマルコが行ったのは蝙蝠の捕獲だった。
この暑い砂漠の中、ゆっくりと休める場所は少ない。
特に、こんな日陰は生きていく上で最重要の休憩地点だ。
昼間ということもあって眠っている蝙蝠を捕獲するのは困難でも何でもない。
蝙蝠を手につかめばその首をねじ切り血を飲んだ。
血液には水分ミネラルエネルギーと生きていくために必要な成分が多く含まれている。
一口飲むたびに身に染みわたる思いだった。
日蔭と水分を手に入れたからこそ、マルコはここで籠城することにした。
動かずに待つ。
それは今考えているよりもじっとりと精神力を疲労させていく。
どれだけ待てるのかが今後を左右する。
丸一日が経過したときそれはおこった。
「お~い!ここだ、ここだ!!」
マルコ自身、自分の声が飛行機に聞こえるなんてことは思ってはいない。
それでも叫ばずにはいられなかった。
大慌てで、自分の持ち物を引っ張り出して、火を放つ。
最初はいらなくなったごみの類、それでも全く気づかれないのでまずは服を一枚。それでも気づかれない。
「こ、これ以上燃やしてもいいのか」
このマラソンのルール上、無駄なものを持っていく余裕なんてものはどこにもありはしない。
とっさのことというのもあって、所持品を景気よく燃やしたが、たった二つ燃やしただけでこれ以上燃やしたらこれから先の生活が不可能になるほどの窮地に追い込まれた。
今自分は建造物という目立つ場所の横にいる。
そのままじっとしていれば見つけてくれるのではないかという淡い期待を抱いてしまう。
「よし、燃やすか」
抱いてしまったが、ここで見つけられなければどっちみち死を待つほかない。
どっちみちこの場で助けを呼び込めながらも得られるものは何もありはしない。
マルコは覚悟を決めて全ての荷物を火にくべた。
後は待つだけだ。
神に祈るような思いでマルコは火の前にひざまずいた。
結果。飛行機はマルコに気が付くことなく飛び去って行った。
一度捜査した場所にはもはや捜索にくることはないだろう。
全ての装備を使い果たした。もはや夜を明かすことができるのかも怪しい。
その真実を目の当たりをしたマルコから生きようという気力が抜け落ちた。
そのままそばにあったナイフを手に取ったのかと思えば、自らの手首を切り裂いた。
もう何もかもがどうでもいいとそのまま横になって死を待つことを決定したというのに一向に死ぬことができない。
それどころか血が止まってしまった。
理屈で語るのならば、脱水症状によって血液濃度が高まったせいで、血液の流出が防止されたのだが、マルコにはそんな事実分かるわけもなく。神が歩き続けろと自分を後押ししているように思えた。
もう仕方がないと歩いたマルコはそれから三時間後。遊牧民と遭遇した。
軽い手当と、水を受け取ったマルコは助かったという安どとともに今まで自分が歩いてきた砂漠を眺めた。
あれほどの困難をかいくぐり憎しみの念をも感じていた砂漠なのに、今は黄金のように光輝いて見えた。
言語化できない達成感が全身を駆け巡り。今までのことを思い返すと、こんな目にあったのにこのマラソンに参加したことを一切後悔していないことに気が付いてしまった。