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真珠湾と情報漏洩

作者: 板堂研究所

1.概観


(1)陰謀説


 太平洋戦争開戦のきっかけとなった真珠湾攻撃に関しては、次の様な「陰謀説」が知られている。

1941年初頭までに、米国のローズベルト大統領は、チャーチル英国首相から、欧州におけるナチス・ドイツとの戦争に、是非とも参戦するよう、強く要請されていたが、米国では第1次世界大戦以来、厭戦気分が根強かった。(その象徴が第3国同士の戦争に巻き込まれるのを防ぐため、1930年代に制定された中立法)従って対ドイツ参戦は、世論の反対から容易でなかった。

 然るにローズベルト大統領は、日本の真珠湾攻撃計画を事前に察知する事となった。彼は「渡りに船」とこれを利用し、米国として欧州戦線を含め、確実に参戦する目的で、知らぬふりしながら対日経済制裁を強化し、日本が「奇襲攻撃」するよう誘導したに違いない。

 そして1941年12月の真珠湾攻撃を受け、米国は、国内の厭戦気分に関わりなく対日宣戦布告し、反射的に日本の同盟国ドイツ・イタリアが、対米宣戦布告。米国もドイツ・イタリアに宣戦布告し、欧州戦線にも加わる事となった。


(2)真珠湾攻撃計画とグルー駐日大使の報告


 実は米国の駐日大使だったグルー氏が、1941年1月27日との早い時点で「日米関係が決裂した場合、日本が真珠湾を攻撃するのでは、との噂がある」旨ワシントンに報告し、日記にも記していたが、これは何と、山本五十六連合艦隊司令長官が、真珠湾攻撃計画の立案を部下に命じた直後だった。時系列的に振り返れば、次の通り。


1940年11月下旬 山本五十六連合艦隊司令長官、及川海軍大臣に口頭で作戦内容を意見具申。


1941年1月


(7日)山本長官、及川海相に書簡を送り、真珠湾攻撃の必要性につき働きかける。


(14日頃)山本長官、第11航空艦隊参謀長・大西瀧治郎少将に書簡を送る。


(26~27日頃)大西少将、有明海にて戦艦長門(連合艦隊の旗艦)を訪問し、山本長官からハワイ奇襲作戦の立案を依頼される。大西は、鹿屋にあった司令部に戻り、前田大佐を呼び、作戦の可能性につき討議したところ「水深が浅すぎる」との反応。


(27日)グルー駐日米国大使、日記の中で「最近、巷では、日本が米国と関係決裂に至った場合、真珠湾を攻撃するのではないかとの噂が流れている」と記述。この内容は同日、ワシントンに打電、報告されたが、この情報は、ペルーのリカルド・リヴェラ=シュライバ-駐日公使に届き、在京米国大使館のクロッカー一等書記官に伝達された由。


(参考)この様に有明海で戦艦長門にて、山本長官から大西少将にハワイ奇襲作戦の立案を依頼した直後に「真珠湾攻撃の噂」が市井に漏れたとすれば、その原因につき(根拠もなく憶測するのは不謹慎だが)次の様なシナリオさえ思い浮かぶ。

 山本長官から大西少将に伝達したハワイ奇襲作戦に関しては、その突飛さゆえ、戦艦長門の将官クラスから必然的に周囲に伝わり、乗組員約1300名のほぼ全員が知るところとなった。彼らは長門を下船した機会に仲間内で論じたが、実現可能性低しとの見方が大勢を占め、保秘の配慮が不足しただろう。例えば温泉などに浸れば口も軽くなるだろうが、男湯に仲間しかおらず、ハワイの話が始まった時、すぐ隣の女湯で誰か、静かに湯に浸かっていたら如何だろうか。


1941年2月  


(7日)イーデン英外相、重光駐英大使を呼び「日本は東亜全域を支配しようとして、領域を拡張しているが、クレイギー駐日大使よりの報告によると、日本は今にも驚天動地の一大事件を起こそうとしているらしい」と問いただす。


(11日)野村吉三郎、駐米大使としてワシントンに着任。(注)


(14日)チャーチル英首相、ローズベルト米大統領宛て書簡で「この数週間または数カ月内に日英戦争は必死の形勢である」と記す。


(注)開戦に至る日米交渉に携わった、野村吉三郎元駐米日本大使は、その回想録「米国に使して」(岩波書店。昭和21年刊行)の中で、次の様に記している。


「余は1941年即ち昭和16年1月23日東京を出発、赴任の途についた。そして2月11日にワシントンに着いたが、その前後の模様を日誌に従って記す」としてハワイ到着時の厚遇につき、次の内容(現代語訳済)を記しているが、米国はこの時点で、既にグルー大使の真珠湾攻撃の噂に関する報告に接しており、テンションが高かった可能性があろう。


「1月30日、ホノルルに着。入港前には自分の乗船した鎌倉丸に対し駆逐艦2隻が出迎え、又昔、東京で語学将校だったレートン海軍少佐が、ホノルル滞在中、自分の副官として遣わされた。ホノルル入港時には、太平洋艦隊司令長官リチャードソン大将、ハワイ軍司令官ヘーロン中将、知事代理、商業会議所代表等が来訪した。次いで自分が旗艦『ペンシルバニア』に答礼に赴いた時は、リチャードソン大将の外に、鎮守府司令官ブロック提督も来会し、ホテルにて午餐の時には、新任司令長官のキンメル大将も同席した。キンメル大将は年齢未だ若く、体躯強壮、英気溌剌に見えた。儀礼は至れり尽くせりと言うべく、リチャードソン司令長官の厚意は謝するに余りあったが、これは中央からの指令もあった事と思われた」


(3)暗号の解読


 日本の暗号は、1940年に遡り、既に解読されていた。


〇1940年半ば以降、チューリング(後にコンピュータ開発に貢献)を中心とする英国の暗号解読班が、ナチス・ドイツの暗号機Enigmaによる暗号文解読に成功。


〇1940年9月、米国陸海軍の暗号解読班が、日本の大使館等に設置された暗号機「97式欧文印字機」(外務省の費用で日本海軍が開発)のコピーとして「パープル・マシン」の作成に成功。日本の外交暗号と共に、海軍の暗号もそれなりに解読可能となった。


〇1941年3月、真珠湾における米艦船の停泊情報を東京に報告する任務の工作員(吉川猛夫海軍少尉)がホノルルに到着し、活動を始めた。彼の回想録によれば12月2日、東京から在ホノルル日本総領事館宛ての電報により、真珠湾上空に阻塞気球を上げてあるか否か、戦艦に防雷網を装備しているか否か等、照会してきており、彼は、海軍は真珠湾を狙うのではないかと疑った由。この電報が米側に傍受・解読されていた可能性があろう。


〇1979年、米カーター政権下で行われた情報公開等を元に、ロバート・スティネットは、次の様に主張している。

 米連邦捜査局(FBI)は、1940年10月21日、米国海軍が日本海軍の暗号解読に成功した事を確認している。この為、山本五十六海軍司令長官や南雲中将指揮下の日本海軍機動部隊との間の通信傍受により、米国は1941年11月20日から12月6日までの間に、日本のハワイ戦略を把握するところとなった。


〇 ハル国務長官の回想録では、1941年の日米交渉を振り返り、次の内容が記されている。


 11月5日付けの東郷外相発野村駐米大使宛ての電報が傍受され、そこに11月25日までに日米交渉を妥結させる事が必須である旨記されていた。

 この訓電の意味は明白だった。日本は既に戦争マシーンの車輪を回し始めており、11月25日までに米国が日本の要求に応じない場合には戦争をも辞さない事を決定したのだ。


(注)11月5日の御前会議では、武力発動の是非を決める対米交渉の期限を12月1日午前零時に設定していたが、上記電報では、11月25日との若干早めの交渉期限を野村大使に通知した模様。そして連合艦隊は11月26日に単冠湾をハワイに向けて出発した。出発のタイミングについては、毎年、年明け以降、流氷が少しずつ択捉島の周囲に至るので、作戦の邪魔になる事を惧れ、年内の12月に単冠湾から出撃する計画が練られ、これがクリスマス等と共に交渉の期限を規定する要因だった可能性があろう。

 何れにせよ米国は「ハル・ノート」を提示したのは11月26日(日本時間27日)との微妙なタイミングで、(日本として受け入れ不能と見込まれた)中国からの撤兵等の要求を行い、意図的に武力発動に追い込んだとも解釈可能か。


(4)直前の動き


〇 真珠湾攻撃(日本時間12月8日、米国時間同7日日曜日)の10日前(11月27日木曜日)、スチムソン陸軍長官は、日記に次の趣旨を記述している。


 ローズベルト大統領が言うには「来週の月曜日(12月1日)辺り、我々は攻撃を受けるかも知れない。日本人は奇襲攻撃を行うので悪名高く、問題は、どうするかだ。我々にあまり危険が及ばないまま、如何に彼らが第一撃を加えるよう、誘導するかの問題だろう」


〇 1941年も12月に入ると、ホノルルのFBI関係者が、1週間以内に攻撃される旨、現地の警察に漏らしていた。


〇 真珠湾攻撃計画が実行された12月8日、真珠湾に通常、停泊している空母(サラトガ、エンタープライズ、レキシントン)が、3隻とも湾を離れていた。


2.詳論


(1)米国は日本の大陸進出に対する対日経済制裁として1941年6月に石油の輸出許可制度を導入していたところ、1941年6月22日、独ソ戦が始まった。日本は同年4月に日ソ中立条約を締結しており、対ソ参戦せず、もはやソ連の満州侵攻はあるまいとの見通しから「南進論」が力を得るきっかけとなった。そして7月28日、日本の南部仏印進駐に至ったが、米国は直前の7月26日に日本の在米資産を凍結し、8月1日には石油の対日全面禁輸を行った。

 米国から見れば石油を全面禁輸された日本軍は、今後、蘭印インドネシア等、東南アジアの石油資源を狙う筈であり、これを阻む必要があった。仏印の南はシンガポールやマラヤの英国領で、英国が陥落していない以上、日本軍の更なる南下は日英開戦を意味し、その場合、日米開戦が想定されただろう。


(2)真珠湾に停泊中の艦船を空から攻撃する場合、水深が浅すぎて、従来の航空機と魚雷では攻撃困難だったが、8月中に帝国海軍は、水深が10mと浅い鹿児島湾で航空魚雷攻撃の練習を積み重ね、安定器を備えた91式魚雷改2の開発に成功した。従って攻撃計画の実現性が俄かに高まった筈である。


(3)日米関係の危機的な事態を踏まえ、近衛首相は、日米首脳の頂上会談を米国に提案したが、事実上、ローズベルト大統領に断られてしまった。この様な顛末から10月18日、東条英機内閣の成立に至り、日本は石油備蓄の限界を踏まえ、対米開戦へと駆り立てられた。


(4)この様な陰謀説に関し、種々憶測可能だろう。最終的には70年以上も遡るので、正確には確認出来ないだろうが、取り敢えずの論点次の通り。


(ア)仮にローズベルト大統領がワケ知りながら、あり得べき日本の攻撃に対して、十分な備えをしていなかったとしたら、ハワイ島民との関係は配慮されなかったのだろうか。日本の奇襲攻撃さえ実現すれば、日独伊に対して宣戦布告する世論工作として十分なはずであり、備えを行わないのはおかしい。


(イ)他方、奇襲攻撃させるには、計画を察知している事実を、ホノルル総領事館関係者を含め、日本側から徹底的に隠蔽する必要があったに違いない。日本が、米国への漏洩を疑う結果、真珠湾攻撃を変更・中止したら、全てが水泡に帰すかも知れない。また米側の情報入手経路に捜査が入り、関係者が逮捕される惧れがあっただろう。「敵を騙すには、味方から」の論理が働いたのかも知れない。


(注)他方、仮にローズベルト政権首脳部が、真珠湾攻撃計画を事前に察知しながら、日本に第1撃を加えさせる為、敢えてこれを防ぐ準備をしなかった場合、事後的に、真珠湾に停泊していた海軍関係者をはじめ3000人ものハワイ在住者を無駄に犠牲にした、との深い罪悪感に悩まされたに違いない。

然るに「Remember Pearl Harbor」には特別の屈折した感情がこもり、日本の本土攻撃が可能になった後、米軍の空襲は、その罪悪感を打ち消そうとするかの様に、一般市民の犠牲をも顧みない、一段と徹底したものとなり、これが広島・長崎の2回の原爆投下の背景事情となったのでは、と想像される。

 そして終戦後、GHQによる統治時代が始まると、この様な顛末を意識するだけに、日本に対して寛大な政策が打ち出され、サンフランシスコ平和条約による日本との講和も、寛大な内容となった可能性があろう。


(ウ)ローズベルト大統領は、日本が真珠湾攻撃を中止して仏印から更に南進し、東南アジアの英国領に侵攻するシナリオでも差し支えなかった。だから南部仏印進駐の直後に石油の禁輸措置に踏み切ったのでは、と議論する事も可能。日本が触発されてインドネシアの石油を求め、取り敢えずシンガポールやマラヤの英国領に侵攻すれば日英開戦となり、そうなればハワイ島民を犠牲にせずに米国の対日参戦の道が開ける、と計算したかも知れない。

  他方、真珠湾攻撃を回避するためには、攻撃計画を察知している事が日本に漏れる様に取り計らい、現地防衛体制の万全を図る方法があっただろう。


(エ)ロ大統領の側近にはソ連のスパイがいた。日本が米国の最後通牒と受け止めた1945年11月の「ハル・ノート」は、起案者が財務省のハリー・ホワイトとも言われるが、彼は後にソ連のスパイと発覚した人物。従って1941年1月、米国が真珠湾攻撃計画を察知した時点で、ソ連も耳打ちされただろう。

 特に1941年6月の独のソ連侵攻以降は、米国がソ連支援に加わる為にも、ソ連は、ホワイトを通じて日米交渉をとん挫させ、真珠湾攻撃による日米開戦、そして米国が連合国として欧州戦線に加わるシナリオを描き、誘導工作を展開したに違いない。


(オ)更に、日米開戦を望む強力な動機を持った国として、日中戦の最中の中国について十分理解する必要があろう。

 1941年11月、戦争回避の為の最後の日米交渉の際、日本は「甲案・乙案」を提示した。これを受け、米国は戦争準備を視野に入れながら、時間稼ぎ目的の調整案(Modus Vivendi)を検討し始め、中国、英国、オランダにも打診した。

 中国の蒋介石総統は、当時、重慶で日本の爆撃に耐えながら抗日戦を指揮していたが、「そんな時間稼ぎしていたら、その間にも中国は壊滅する。是非再考願いたい」旨米国に回答の上、チャーチル英首相にも同様の根回しをした。その結果、米国は調整案を廃案とし、替わりにハル・ノートが出された由。


(5)終戦後の1945年9月、米議会で、真珠湾攻撃を調査する為の両院合同委員会が設置され、何故十分な備えが出来なかったのかを焦点に調査が行われ、駐日大使だったグルー氏や国務長官だったハル氏も証言した。1946年6月に報告書が出されたが、明確な結論は得られなった模様。


(6)日本に真珠湾攻撃計画があったからこそ、ローズベルトが知らぬふりしたのではないか、との陰謀説が論じられるのであり、攻撃計画がなかったら成立しない議論である。

 帝国海軍の都合から言えば、(艦船の動きに直接影響を与える)米国の石油全面禁輸を背景に、1941年8月に真珠湾で使える航空魚雷の開発に成功し、その後、攻撃計画の実施時期を策定。そして年明けから流氷がオホーツク海から千島列島方面に南下する事、また米国のクリスマス・シーズンも勘案し、「年内に」との判断に傾いたと推測される。従って日米交渉の期限も、これに適合するタイミングで設定されたに違いない。

 なお米国による石油全面禁輸をもたらしたのは、帝国陸軍の南部仏印進駐であり、この様な米国の反応が十分予想されたにも関わらず、海軍は陸軍を止める事ができなかった。しかし南部仏印進駐の動機付けが、東南アジアの石油資源確保への布石だった場合には、海軍として反対論を唱えにくかっただろう。海軍の発想は、とにかく石油資源が枯渇する事への恐怖を中心に展開したに違いない。


(7)上記の通り英国、ソ連、中国等、ほとんどの連合国が米国の支援と参戦を望んでいただろう。従って仮に、ローズベルト大統領に日本から第1撃を打たせる発想があったとしても、それは当時の国際情勢の強い圧力を受けたものであり、時代の空気を反映した方針であり、彼だけの判断だったとは言い難い。


(8)なおこの様な分析を踏まえれば、3国軍事同盟に強く反対していた山本五十六が、1940年9月にこれが成立すると、何故、急に方向転換し、真珠湾の奇襲攻撃との極論に走ったのか、疑問かも知れない。

 1937年7月の日中戦争開始以降、日米関係が悪化し、1940年1月には日米通商航海条約が失効。その後、米国が少しずつ対日経済制裁を導入し、1941年7月に日本軍が南部仏印に進駐すると、8月には石油の対日全面禁輸に踏み切った。

 1939年に山本は海軍次官から連合艦隊司令長官に就任して部隊に移り、海軍中央の方針に従わざるを得ない立場となった。そこで「米国の次なる施策は、対日軍事攻撃に違いない」との憶測から「どうせ対米開戦になるなら、緒戦を少しでも有利に戦うべし」との考えが推測される。


 2.クロノロジー


 〇1939年


(8月) 山本五十六、海軍次官から連合艦隊司令長官に就任。


 〇1940年


(6月) パリ陥落。ペタン政権、独に降伏。


(9月) 北部仏印進駐。日独伊三国軍事同盟。


(11月)米大統領選 (ローズベルト再選)。

 山本長官、及川海軍大臣に対し、ハワイ攻撃の必要性に言及。


 〇1941年


(1月)


 7日     山本五十六連合艦隊司令長官、及川海軍大臣に書簡を送り、

 真珠湾攻撃の必要性につき働きかける。


 14日頃   山本長官、第11航空艦隊参謀長・大西瀧治郎少将に書簡を送る。


 26~27日頃 大西少将、有明海にて戦艦長門(連合艦隊の旗艦)を訪問。山本長官からハワイ奇襲作戦の立案を依頼される。大西は、鹿屋にあった司令部に戻り、前田大佐を呼んで、作戦の可能性につき討議したところ「水深が浅すぎる」との反応。


 27日 グルー駐日米国大使、日記の中で「最近、巷では、日本が米国と関係決裂に至った場合、真珠湾を攻撃するのではないかとの噂が流れている」と記述。この内容は同日、ワシントンに打電、報告されていた。


(爾後、ハワイの日本総領事館は、米側が対日情報収集を工作する上で、重要なポイントになったに違いなく、また当時から日本の外交暗号が「パープル」として米側に解読されていた事まで勘案すれば、相当な情報が得られたものと推測される。他方、ワシントンでどこまでその内容を信用し、高い優先性を付したか、については解明困難)


(2月)   


7日 イーデン英外相、重光駐英大使を呼び「日本は東亜全域を支配しようとして、領域を拡張しているが、クレイギー駐日大使よりの報告によると、日本は今にも驚天動地の一大事件を起こそうとしているらしい」と問いただす。


14日 チャーチル英首相、ローズベルト米大統領宛て書簡で「この数週間または数カ月内に日英戦争は必死の形勢である」と記す。

米国大統領令8682にて、太平洋中央部の米領土に、海軍の防衛地帯の設置を決定。 


(3月)     米国「レンドリース法」を導入。

 英国と中国に対する支援が始まる。


(4月)     日ソ中立条約締結。


(6月)  米国で石油の輸出許可制導入。

 22日 ドイツ、ソ連に侵攻。


(7月)  

 4日  米国、「2週間以内に南部仏印進出」との新聞記事に関し、野村大使に事実関係を照会。

 23日 野村大使、来る南部仏印進出の趣旨説明を行い、その場合でも石油禁輸を控えるよう進言。

 26日 米国、日本の在米資産凍結令を発する。(英国、オランダが追随)

 28日 南部仏印進駐。


(8月) 

 1日   米国、石油の対日全面禁輸。

 28日  野村大使を通じ、日米首脳頂上会談(近衛・ローズベルト)を提案


(海軍は、真珠湾を想定し、水深が10mと浅い鹿児島湾で航空魚雷攻撃の練習を積み重ね、8月中に安定器を備えた91式魚雷改2の開発に成功)


(9月)

 3日  ローズベルト大統領、日米頂上会談提案に対し予備会談の開始を要求。(野村・ハル交渉の延長)

 6日 御前会議 (昭和天皇は開戦に反対し、外交による解決を命じた)


(10月)

 18日   東条英機内閣が成立。

 19日  「作戦が認められない場合、山本長官は辞職する」との伝言を受け、海軍軍令部総長の永野大将、作戦実施を認める。


(11月)

 1日    軍令部鈴木少佐、ハワイに到着。日本総領事から真珠湾の艦艇等、米軍兵力に関し(ハワイの領事館員として送り込まれた日本の諜報員による)調査結果を受け取り、日本に情報を持ち帰る。


 5日    御前会議(武力発動の時期を12月初旬と定め、対米交渉が12月1日午前零時までに成功すれば、武力発動を中止する事とされた)


 軍令部総長、参謀総長、拝謁し、武力発動を12月8日とすることにつき上奏し、裁可を得た。


 18日   連合艦隊、択捉島の単冠湾に向かう。


 26日  (日本側「甲案・乙案」に対し)米側、中国からの全面撤兵等を要求する「ハル・ノート」を提示。連合艦隊、単冠湾を出発。


 27日  スチムソン米陸軍長官、日記に次の趣旨を記す。


 ロ大統領が言うには「来週の月曜日(12月1日)辺り、我々は攻撃を受けるかも知れない。日本人は奇襲攻撃を行うので悪名高く、問題は、どうするかだ。我々にあまり危険が及ばないまま、如何に彼らが第一撃を加えるよう、誘導するかの問題だろう」


 同27日   米軍、ハワイと日本との間に位置する

 ウェーク島とミッドウェー島に対する増援を検討。


 28日   ウェーク島に米空母エンタープライズと3隻の重巡洋艦と

 駆逐艦隊を派遣。


(12月)


 1日   御前会議(対米交渉は成立に至らなかったとして、開戦が決議された)


(日本の諜報員は、攻撃直前まで真珠湾の艦艇の動向を調べ、その内容は、暗号電文で総領事館から海軍に伝えられていた。米側に傍受され、解読されていた可能性が高いだろう。彼の手記によれば、真珠湾に停泊する艦船が多いのは、第1、第3日曜日だった由)


 初旬   ホノルル警察のバーンズ諜報局長、FBIホノルル支部長のシバーズから内々に「我々は、1週間以内に攻撃される」旨の通知を受けた。(バーンズは、後にハワイ州の初代知事となり、オーラルヒストリーの中で記録している)


 4日   米空母レキシントン、重巡洋艦3隻と駆逐艦と共に、ミッドウェー島に向けて真珠湾を出港。(米空母サラトガが、サンディエゴ入りした事も有り、真珠湾から空母がいなくなった)


 6日   東京から在米日本大使館に「帝国政府の対米通帳覚書」が打電された。


(米側が傍受し、解読していたが、開戦日時や場所は特定されていなかった)


 8日(米国7日) 連合艦隊、真珠湾に奇襲攻撃/

 野村大使、ハル国務長官に対米通帳覚書を手交。


(米空母エンタープライズは、当時、ハワイ帰還に向けて航行中で、次の夜、ハワイに寄港した)



(参考) 太平洋戦争の背景要因



 1.米国の西太平洋進出


 1989年,アメリカ合衆国はハワイを併合し,同年の米西戦争勝利をきっかけにフィリピン,グアム,ウェーク,サモアを併合し,太平洋国家となった。


 1899年,中国に関し「門戸開放,領土保全,機会均等」を求める。


 2.日露戦争(1904~1905年)


 米国の仲介によりポーツマス講和条約が成立。


 3.第一次世界大戦(1914~18年)


(1)日本は日英同盟を理由に、ドイツに宣戦布告し、ドイツの租借地だった中国の山東半島の青島や太平洋の赤道以北の島々を占領した。

 1915年には中国に対し「21か条要求」を行い、概ね受け入れさせた。


(2)ドイツの権益を手中にした日本と、東アジアで権益を伸ばすことができなかった米国とは、1919年のパリ講和会議で対立した。結果的に、日本の新たな権益はこの会議で是認され、米国は日本を西太平洋におけるライヴァルとして意識するようになった。


(a)太平洋赤道以北の島々は、米国の権益であるハワイとフィリピンとの連絡に対する潜在的脅威。


(b)山東半島の権益は、中国分断への一歩。


 4.ワシントン会議(1921~22年)


(1)海軍軍縮条約(1922年調印) 米、英、日の海軍主力艦の保有率が、5:5:3と定められた。


(2)中国に関する9カ国条約(1922年) 中国の領土保全、門戸開放が成文化され、日本は山東半島の権益を中国に返還することに合意した。この条約の成立に伴い、日英同盟が解消された。


 5.関東大震災(1923年)

 日本経済は、大きな打撃を受けた。米国から多量の援助物資。


 6.排日移民法(1924年成立)


 日本人の米国への移民を廃止するものであり、日本で対米感情が悪化するきっかけとなり、この雰囲気は米国にも伝播した。


 7.世界恐慌(1929年)


 米国は、日本で生産される生糸の重大な輸出先だったが(総輸出の40%以上を吸収)、ニューヨーク市場で値段が半減。翌1930年には日本産品(生糸以外)への輸入関税が大幅に引上げられた。

 日本経済は大きな打撃を受け、大量の失業者が発生した。


 8.ロンドン軍縮会議(1930年)


 海軍の補助艦の制限が目的。全体的に日本は対米6.975を確保したが、海軍内部では不満として反対を唱える向きもいた。1932年には海軍青年将校が「五・一五事件」を引き起こし、これをきっかけに政党内閣が暫く途絶え,軍人や官僚出身者が首相となる時代に。


 9.満州事変(1931年)


 1931年9月,関東軍は,柳条湖で満鉄の線路を爆破し,中国側の仕業だとして,満鉄沿線都市を占領,全満州の主要部を占領した。


 1932年に関東軍は満州国を建国し,溥儀を皇帝の地位につけた。同年,国際連盟はリットン調査団を派遣し,報告書において日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。


 1933年、日本はこれを不服として国際連盟から脱退した。


 10.海軍軍縮条約の破棄・脱退(1934年、36年)


 1934年 日本はワシントン海軍軍縮条約を破棄。

 1936年 ロンドン海軍軍縮会議脱退を通告。


 11.二.二六事件(1936年)


「天皇親政」を目指す陸軍の青年将校が1400人余りの兵士を率いて首相官邸等を襲撃,高橋是清大蔵大臣などを殺害。首謀者は厳刑に処されたが,この後,陸軍大臣と海軍大臣には現役の軍人しかなれない制度が復活し,陸海軍の支持しない内閣は成立困難となった。


 12.日中戦争と米国の対日制裁措置


 1937年 7月 廬溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まる。

 1938年11月 近衛文麿首相、東亜新秩序の建設を声明し、日本・満州・中国を統合した独自の経済圏建設を示唆。


 1939年7月 米国、日米通商条約を延長しない旨通告。

 1940年1月 日米通商航海条約失効。これ以降、米国は航空機燃料、くず鉄、工作機械等の

 輸出制限を順次導入した。


 1940年9月 北部仏印進駐。(ハイフォンから昆明への援蒋ルート遮断)日独伊三国軍事同盟締結。

 1941年3月 米国「レンドリース法」を導入。英国と中国に対する支援が始まる。


 1941年4月 日ソ中立条約締結。

 1941年6月 ドイツ、ソ連に侵攻。


 1941年6月 米国で石油の輸出許可制導入

 1941年7月 南部仏印進駐。


 1941年7月 米国、日本の在米資産凍結令を発する。(英国、オランダが追随)

 1941年8月 米国、石油の対日全面禁輸


 13. 1941年以降の米国の対日経済制裁措置には、「ABCD包囲網」のメンバーたる英国やオランダも連携し参加したので、その効果は一層徹底された。

 1941年7月の南部仏印進駐後の在米資産凍結令は決定的となり、これによりニューヨーク(とロンドン)にあった日本政府の貿易決済用の在外資産が凍結された。また8月の石油全面禁輸により日本経済が更に追い詰められ、石油備蓄の限界もあり、対米開戦論がにわかに強まったものと見られる。


 14.1941年10月には東条英機内閣が成立した。11月5日、政府は御前会議で決定した「帝国国策遂行要領」にて、対米交渉期限を11月一杯とした。  

 交渉において日本側は「甲案・乙案」を提示したのに対し、米側は中国からの全面撤兵等を要求する「ハル・ノート」を11月26日に提示した。日本側はこれを最後通牒と受けとめ、12月8日、真珠湾攻撃により対米開戦に至った。


(参考文献)


 Joseph Grew, 「Ten Years in Japan」(Simon and Schuster, New York, 1944)

 John Toland, 「Infamy」(Doubleday,1982)

 千早正隆「日本海軍の驕りの始まり」(並木書房。1989年)

 豊田穣「海軍軍令部」(講談社文庫。1993年)

 ロバート・スティネット「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」

  (妹尾作太男監訳。文芸春秋社。2001年第1刷、2013年第8刷)

 須藤眞志「真珠湾『奇襲』論争」(講談社選書メチエ。2004年)

 太平洋戦争研究会編「図説 日米開戦への道」(河出書房新社。2011年初版、2015年2刷)

廣部泉「グルー」(ミネルヴァ書房。2011年)

 平塚柾緒「太平洋戦争裏面史 日米諜報戦」(ビジネス社。2016年)

 拳骨拓史「日本の戦争解剖図鑑」(エクスナレッジ。2016年)

 吉川猛夫「私は真珠湾のスパイだった 新書版」(毎日ワンズ。2018年)

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