【ノクターンと乗り込み男】
俺は“ある決心”を胸に秘めている。…と言っても、大した決心ではないけど。
ただ、音楽室“以外”で【田中幸子】に会ってみたい!話してみたい!だから、どうしたらいいかずっと考えてたんだ。
見たい!聴きたい!←懐かしい!
やっぱチャンスは放課後だろうな。
田中さんが下校するタイミングを見計らって、いそいそ近づいていく。
「一緒に帰ろう?」
翔平は優しい豆柴スマイルで言った。
華麗なる無視。田中さんのいつも通り。
気にしてたまるか。スルー上等だぜ。翔平は気にせず並んで歩いた。
少し早歩きになる田中さん。負けずに早歩きになる豆柴。
もっと早歩きになる田中。まだまだ負けずに早歩きになる忠犬。
「何?」と、彼女は急に立ち止まって怪訝な顔で翔平を見て言った。
「だから!一緒に帰ろう?」
「ヤダ。」
「どうして?」
「必要ないから。」
「冷てぇな。」
すると田中さんは、ふんーと鼻でため息をついた。
「あ、ごめん。迷惑なんだよね…?」
「うん。」
「即答すぎ。もうチョイためらわんかい。」
また、ふんーと鼻でため息をつく。
「もういい。じゃあね。」
と言って、後ろのマンションに入って行った。
―はっ!?―
「ここなの!?」
翔平は思わずチョット大きな声で田中さんの去りゆく後ろ姿に言うと、
彼女は、去り際にニコッと口角を上げてイタズラなスマイルで消えて行く。
―近すぎだろ!?―
翔平の驚きは無理もなく、そこは学校から百メートルもないくらい近距離のマンションだったのだ。
―全校生徒、憧れのマンションやん。―
近いからね。
そのマンションはスタイリッシュな最新のデザイナーズマンション…なわけはなく。それでもエントランスにはいくつかの木々が植えられていて、ここらの中途半端な田舎町の治安の良さを表すような佇まいだった。
キンモクセイの香しい自然の香水が、強烈に鼻の中に飛び込んでくる。スイーツのような甘さをスッと飲み込むと、翔平は来た道をトボトボと引き返した。
帰り道じゃないんかーい。
そして、だから、俺は決心したのだ。
「よしっ!!おーしっ!!決めた!!」
自宅に帰った翔平は、頬を両手でパンパン叩き、パチパチパチパチと気合液は塗るのではなく叩き混むのです!の勢いで、ムダな気合を入れた。
―こうなったら手段は1つしかなさそうだ。―
どした。
学校では音楽室“以外”で口を聞いてくれない。
放課後は田中さん宅があまりにも学校のご近所すぎて話す隙がない。
ならば…。
「失礼いたします。サチっ…【サチさん】です。」
ん?ボーイさんがクスッと笑ったような気が…まぁいいか。
ようこそ!【CLUB Lily】にご来店いただき誠にありがとうございます!
挙式が始まるような“非日常”の厳かな気品あるお店の雰囲気に、翔平少年は内心震えるほどの緊張と懐の心細さに縮こまってしまっていた。
さっちゃんはね、【サチ】という源氏名で働いてるよ。
黒服の照井が、【サチ】こと【田中幸子】を翔平の席に通した。
綺麗なパステルピンクのキラキラ光るドレスに身を包み、大人なメイクを施した【サチ】こと【田中幸子】のお姫様スタイルが、翔平の前に立った。
が、その表情は…完全に“変質者”を見る死んだ安売り鮮魚の目そのものだった。
まぁ、そうだろうな。突撃特攻だから、そりゃそうなるわな。
「…何やってんの?」
田中さんは、いつもの冷えた無表情の低い声で、翔平を見くだ…見下ろしながら言った。
「話しがしたいから、来た。」
そう、翔平少年は田中さんが働いているであろうお店に乗り込んできたのだった。
「バカじゃないの。」
「俺は、客だよ?」
「バカじゃないの。」
「バイト代全部持ってきたし。…大丈夫でしょ?」
「バカなんじゃないの。」
「バカバカうるさいわよ。早く座りなさいよ!」
「ヤダよ。」
「指名だよ?」
「何が?」
田中さんはハッとして、黒服の照井を見た。ニヤニヤと愉快に笑ってる顔を見られた照井は、すっとぼけた顔をそらした。
「…照井さん、からかわないで?」
さっちゃんは、てるちゃんに“もうぉ~!”の顔で言った。
「ごめんごめん。なんか可愛かったからさ~。」
黒船テルーは、大人な笑顔で言った。←誰がご来航じゃ
「もう…本当何かと思った。」
田中さんは、呆れた顔と声で言った。
そして彼は…
な、なんだ…?翔平少年は、そのやり取りの状況が飲み込めず、忠犬銅像のように固まって座っていた。くぅ~ん。
すると、さっちゃんは翔平に向き直って、珍しく少し大きな声を出した。
「私はピアノを弾いてるだけなの!」
彼女の指差す先には、お店のお高級そうな黒くピカピカ輝やきを放つグランドピアノが。
「へ?ぴあの…?」
良いアホ面です、翔平少年。
白を基調とした上品なカサブランカの飾られた教会のような広々とした【CLUB Lily】の店内は、シャンデリアがキラキラとジュエリーのように麗しく輝く夜の光。
【サチ】を指名すると言って入店してきた翔平少年だったが、どう見ても学生さんのフレッシュ幼い顔。
しかも「サチ…?さちこ?」と、挙動不審。
「本来なら「年齢確認をさせていただきます」て応えるんだけどさ。彼が豆柴みたいな顔で「サチ…?さちこ?」って、なんかキョドってたからさぁ、あっ【田中幸子】の同級生とか?って、ピンときた俺、天才!」
まだ早い時間でお客も少なかったので、テルーがからかったとのことだった。
まわりにいた数名のキャストの綺麗なお姉さんたちも、
「照井さん意地悪ぅ~♪」
「可愛いぃ~♡」
と、うぶな青春に喜んで、楽しそうに笑っていた。
翔平は「きやー…やめてぇー…!」という真っ赤な顔面を少女のように両手で隠しながら、指の隙間からその様子を見ていた。
「バーカ。わかったら帰ってくれる?」
「は…はい。」
裏返った声の翔平は、まだ真っ赤な顔面を手で隠しながら、
「すいません…なんか…本当すいません。」とペコペコしながら退店していった。
まだ恥ずかしい気持ちのまま外に出た翔平は、田中さんのいる雑居ビルを振り返った。
―明日、海に沈められ…―
可愛いね、しょうちゃん。
「なんだよ、そんな楽しい青春ドラマなら俺も見たかったぞぉ!」
「石井さん、残念!もう本当に可愛かったですよぉ♡さっちゃんの彼氏!顔真っ赤にしちゃってぇ~!」
「そうそう!豆柴みたいな子犬ちゃん♡」
「ふぅ~ん。」
だぁーから『小犬のワルツ』ってわけかい。左肘をテーブルについて前かがみに方杖をつく石井という年配の男は、でっぷりとしたお腹をベルトのバックルに乗っけて、グランドピアノに腰掛けるサチを見つめながら密かに懸念を抱いた。
天才肌はピュアだからな。恋をすると歌心が変わってしまわないかねぇ?なぁ~んて思ったけど、いや、むしろ増したか。青い恋心はそのままに…上手に歌いあげますなぁ~。
「サチのショパンは相変わらず良いなぁ~。さっきの『ワルツ』といい、得意の『9-2』ときたか。」
石井は、たぬきのように蓄えられたほっぺたでニコニコと孫の発表会でも見る祖父のように熱視線を浴びせて言う。
「あれ?石井さんは、ショパンよりもラフマニノフとかの方が好きじゃなかったでしたっけ?」
「そうですよぉ!さっちゃんにもショパンよりリストとかリクエストするイメージだしぃい。」
「ショパンは甘すぎちゃってあんまり聴かないけどな。あの女神の微笑みで月夜に『Esdur』をじんわり染み込ませられちゃったらよぉ、男はみぃーんなダメになっちゃうよなぁ~!どんな大男だろうが一瞬でヘロヘロのクラクラに魅了されちゃうっつぅのかなぁ~。眠りに落ちそうになるのに“起きて聴いてて”って、なんか誘うのよ。わかるかなぁ~わかんねぇかなぁ!」
祖父。
音楽業界で働くこの【石井敏行 Ishii Toshiyuki】という人物は、コンサートを手掛けるコンサートプロデューサーだ。
一時の勢いは衰えたらしいが、中々名のあるご老人だという。以前からお店のママと親しくて、ここいらで行われるコンサート会場の下見に訪れる際には顔を覗かせに来る。
今度自分がスカウトした天才少年の地方リサイタルが行われるそうで、このところはちょくちょく来店していた。
「『ペトルーシュカ』をサチのできる限りのトップスピードで弾いてほしいんだ。心ではなく技巧で。いいかな?」
「ストラヴィンスキーですか。お店で弾く曲じゃないですよぉ。それも9度の連続をトップスピードって…鬼じゃないですか。どうしたんですか?」
「悪いなぁ~さっちゃん。もちろんママには許可とった。営業時間前に30分だけ時間もらってるんだ。
今度うちの天才くんを連れてくるからさぁ、魅せつけてあげてほしいのよぉ~。その小ちゃい手で言い訳せずに弾きこなす健気な姿をさぁ。女は海よ。」
「海って…。」
「そのあとにカンパネラ。これはサチが想うままに心のままに弾いてくれたらそれでいい。」
「2曲もハードすぎで…」
「悪いなぁ~さっちゃん。頼んますわぁ~。ありがとうねぇ~!あ、今日のところは『ラヴェルの水の戯れ』あたりを聴かせてもらいたいなぁ~。いやぁ~サチは本当に最高だなぁ~!」
―や、全然悪いとおもってないですよね?―
私の返事聞いてくれてます?そのリクエストすらめんどくさい!のに、がははー!と、一方通行で通り過ぎていった石井の拝み倒す姿に、めずらしく心がつっこんだ。
私なんかで魅せるとかできませんよ…。石井さん何を考えてるのか。まぁいいけど。
石井さんて、もはや店の幹部の貫禄あるわ。待機してるとこに頼みにくるんだから。謎なおっさ…おじ様だわ。まぁいいけど。
「サチさん、いいかな?御老公。」
―もう帰って寝たいですぅー…―
「あ…、はい。」演奏を終えたらさっさと帰りたいんだけどな。明日も学校だし。まぁ、御老公じゃ仕方ないか。
常連のお客様の中には、【サチ】の演奏を楽しみに来ている人もいた。
【御老公 Konomondokorogame…】と呼ばれる常連さんは、【サチ】ファンの一人。「挨拶がしたい」と言われるようになってから、演奏が終わると御老公の席に「感想を伺いに行かなければならない」もはや強制、義務のようになっていた。
「こんばんは。御老公、いつもありがとうございます。」
「いやぁ~今日は一段と素晴らしかったよ『水の戯れ』。30年前のうちのドラ息子の演奏を思い出したよ。」
「む、息子…さん。」
―男らしいですかね…私。―
「あ、ありがとうございます。いつも聴きにきてくださって、とっても嬉しいです!」
「うちのドラ息子も演奏家を夢見てたが…まったく努力もなんもせんでね、結局社会にのまれた…。あなたのように、何にも縛られない音を出せたら…窮屈に閉じ込められた自由な心を表現できたら、矛盾を開放できたなら…現代なら、いや…200年前なら…夢を叶えられたのかなぁ?と、あなたの演奏を聴くたびに、不思議なノスタルジックな世界を見させてもらっています。ありがとう。」
「窮屈な…自由。御老公は、表現がまた独特で勉強になります!ありがとうございます。」