【ノクターンとドM男】
【田中幸子】は、“普通の女の子だ!”と翔平の気持ちが緩んだ昨日の音楽準備室のランチタイム。
翌朝、また田中さんを見かけた翔平はニッコリ近づいていった。
「あ、おはよう!」
今度こそ!豆柴スマイルで彼女の横顔を覗くと、冷えた無表情で翔平を見ることもなかった。
―え…?―
昨日話した豆柴です!覚えてるでしょ!?ねぇ覚えてるよね!?俺だよ俺、オレオ!←誰だよ
これじゃ、ハンギング・ロックの世界を体感してる気分ですよ。
オーストラリアの“女生徒神隠し事件”がモデルの映像が、豆柴レンズのスクリーンに上映されていた。
岩山で失踪した少女たちが助けに来た先生にいくら声をかけても叫んでも届かない。まるで見えない透明の壁に阻まれているかのような絶望感のあの話。まさにあの世界観じゃねぇっすか。
「そういえばさぁ、俺は3組の【佐伯翔平】。名前も言ってなかったなぁーと思って。」
にこやかに食い下がった翔平だったが、彼女は無表情ひとつ変えずに歩き続ける。
「…8組の【田中幸子】さんだよね?」
昨日の昼休みにあれだけ話したんだから、もう友達100人できたレベルでしょ?と思った翔平がまるで見えていないかのように、田中さんは行ってしまった。
―えー…?―
ピクニック…あっと…。
その後も廊下ですれ違うときに、「田中さ…」話しかけるが、清々しいほどの無視を決め込まれる。
「あのさぁ、俺って…見えてるよね?」
「はぁ?何言ってんの?」
優弥は“コイツ頭大丈夫か?”の顔で応えた。
「や、俺のこと見えてないのかなー…?」
翔平は、首を傾けながら独り言のようにつぶやいた。
「頭大丈夫か?てかさぁ、なんで田中に話しかけんの?」
「なんでって?」
「言ったろ?アレはダメだって。」
「ただの噂だろ?」
「火のないところにって言うだろ?やめとけって。」
「んー…、田中さんて、双子?」
「あぁん!?精神科行ってこいやぁ!」
一人で楽しそうに格闘家のモノマネで遊んで笑う優弥をよそに、翔平は小さくなっていく田中さんの後ろ姿を目で追っていた。
うーん…?自分でも何故だかわからない。何故だか追いかけたい、追いつきたい。思春期の好奇心だと思うけど、無性に惹きつけられる。また話したい。またあのピアノを聴きたい。ブラックホールに吸い込まれるような感じとでも言うのか。まさに中毒症状。
音楽準備室の狭い空間で楽しそうにしていた【田中幸子】は、まぼろしだったのかと思えるほど、まったくの別人のようで、謎は深まるばかりだ。
そんな謎を払拭したくてなのか、ただの興味か、怖いもの見たさのような…。もっと吸い込まれてみたいようなワクワクする気持ち。
あらヤダ、ドMね。←喜ばないの
お昼休みになると同時に、翔平は教室を飛び出し8組に向かった。
ザワザワとした教室から【田中幸子】が出てきた。が、翔平を見るでもなくスーッと横を通り過ぎた。
―ねぇ、みんなには見えてるのよね…?―
一瞬ためらったが後を追う。
「あのさぁ…今日、俺も一緒に行っていい?準備室。」
彼女は無言の冷えた無表情のまま歩き続けた。
「今日、暑いね?」とか当たり障りのないスモールトークを投げかけたりしたけど、やっぱり田中さんは何も応えてくれない。なんでなんだよ。
音楽室にも準備室にもまだ先生の姿はなく、
「さすがに先生は、まだなんだね?」
翔平が苦笑って言うと、田中さんは黙ってピアノを前に座った。
「先生待ってから食べるの?」
翔平が聞いても彼女はお人形さんのように黙ったまんま。
「俺…なんか気に触ること言った?」
そう聞いても彼女はマネキンのように微動だにしなかった。
―怖いんですけどー…。―
ロボッt…都市伝説を信じるか信じない…
「ピアノ…好きなんだね?」
翔平がめげずに話しかけると、田中さんは突然「あのさ」と翔平の方に向いた。
突然だったので、翔平は「はいっ…!」ビクンッ!となって、おもわず“気をつけの姿勢”に正された。
「話しかけるの…やめてください。」
「…え?」
「みんなの前で話しかけられるの…迷惑。」
べつに怒った口調とかではなかったが、ハッキリと言った田中さんに、
「あ…ごめん…。」
翔平はショボンと謝るしかできなかった。
「どうして?」と聞こうとしたその時、教室のドアが開き林田先生が入ってきた。
「あれ?佐伯くん、また来たの?」
「あ…今日は、俺も参加させてもらおうかなぁー…って。」
かなり気まずい小さな口調で翔平は言った。
「えー?どうしよっかな?」
先生は“冗談よ”の意地悪な笑いをする。
気まずい雰囲気のランチになりそうだなと思った翔平だったが、【田中幸子】と先生はまったく気にする様子もなかった。
「今日ね、甘くない卵にした。」と田中さん。
「えー?甘いのが好きなのにー!」と残念そうな先生。
「あ、でも美味しいわ♪ネギ入り卵焼きも良いね♪」
2人のほのぼの会話に入れそうもないな。翔平は、そっと自分のお弁当を出して食べ始めた。
「佐伯くん、お弁当なんだね?」と先生が聞くと、
「あ、お母さんが買い食いするなってうるさくて…。」と、翔平は照れ笑いした。
「良いお母さんだねぇ~!」
「親戚のおばちゃんか。て、で、なんで先生のお弁当、田中さんが作ってるの?」
「え?…だからぁ、それは秘密!」
「“だって料理できないから”。」
田中さんが先生の吹き替えのような口調で、かぶせぎみに言った。
「え?」と翔平は彼女を見た。
「チョット!言わないでよ!」
りんだは困っちゃって照れ笑った。
「もう言っちゃった。いいじゃんー!悪気はないよ♪」
「ウソつけー!」
「え?でもなんで田中さんが作ってるの?」
「ひとりも2人分も作るのそんなに変わらないし。」
「コソコソ…食材費は先生が出すってことで密約を交わしたのよ。」
「へぇー…すげぇな。」
翔平は、なんだかやたらと感心していた。
―か、会話だぞコレ!―
何に感心。
「だから、このお昼の時間は“先生と生徒”じゃなくて、友達?家族みたいな感じかな?でいようって話しにしたんだよね!」
「うん。」
そのハニカミに、翔平もほっこりと嬉しい気分になって笑った。
まただ。田中さんとりんだがピアノについてのなんちゃらトークを始めている。
「そういえば昨日先生ねぇ、無性にショパンの『舟歌』聴きたくなってさぁ!田中さんがこないだ弾いてたからかな?夏だからかな?」
「良ぃいーよねぇ!本当に黒いゴンドラで水の上をスーッて…そよっと吹かれる風を、少しひんやり感じながら進んでいく…舟歌を聴きながら…このまま大海原に連れ出して…って。」
「そうそう!水の都ヴェネツィアの大水路の上を…長いオール1本持ったゴンドリエーレが舟歌を響かせながら…軽やかに進んでいく…オールのポジションを変えながら、歌う心地よい歌声をなびかせて…。」
はぁ~うっとり…という仏の顔で、胸に両手を当てて遠くを見る2人は、間違いなく今ヴェネツィアでゴンドラに乗って、そよ風に吹かれてると思う。そんな錯覚すらさせる異様で近寄りがたい変質者のオーラに、翔平は目だけを右…左…と、キョロキョロ交互に動かしていた。
―乙女かよ。―
それにしても、なんでこの2人はピアノの話になると突然スイッチが入ったように、うっとり語るのかしら?と、つっこみたいけど、中々見られない面白い光景に、押し黙ってメトロノームに徹していた。
「まぁ、行ったことないんだけどね、ヴェネツィア。笑うわ。」
「私も。ただの妄想。」
「行ってないんかーい。」
りんだと田中さんのただのド変態っぷりに、3人は大笑いした。
「今日は『舟歌』弾こうかなぁ~。」
「良ぃいじゃなぁ~い!昨日聴いた動画、正直あんまり良くなかったのよね。なんか堅っ苦しい漁師のミニボートみたいな感じでさ。」
「それもある意味『舟歌』だね。」
「笑うわ。」
―ピアノ弾くのかな?―
翔平は、最初の出会いの『ノクターン2番』を弾いていた姿を頭に浮かべて、ポカンと田中さんを見つめた。
さっさとバッグに片付けをした田中さんは、ピアノへと歩き出した。先生のニコニコした目が「またね」と言う。
その様子に、え、突然何なに?状態でキョロキョロしてしまう翔平。
「田中さん、昨日は佐伯くんがいたからなのか遠慮してたみたいだけど、ご飯食べたあとは必ず1曲だけ弾いていくのよ。」
「へぇ。あ、こないだ『ノクターン』弾いてるの見た!」
「ん?『ノクターン』?」
一瞬考える顔をした先生に、ん?と翔平もキョトンとする。
田中さんは『ノクターン』はよく弾くけど、最近弾いたのはなんだっけ?
あ、音楽に詳しくない佐伯くんが言うんだから…?先生はコンマの間に考えをめぐらせた。
―あ!『9-2』か。私の閃き大したもんだわ。笑うわ。―
「そうそう!こないだ最後まで弾かなかったんだよね?珍しいなと思ったけど、人の声がしたから誰かと話してるのかな?と思ったけど、佐伯くんだったのかぁ!」
「話したわけじゃないけど…。てか、“邪魔しただけ”みたいになっちゃってるじゃねぇっすか。」
あの時の感情が湯水の如く湧き上がる。神々しい姿が思い浮かぶ。また聴けるんだ!
もう一度あの感動を味わいたい!だけど、弾いてるのを見たいけど、仁王立ちで見つめるのもどうかと思うよな。どうしたらいいかわからない翔平は、開けた準備室のドアから覗き見する“刑事ドラマの張り込みシーン”かのようになってしまった。
田中さんは、そっとピアノを撫でてから、長椅子に静かに腰掛けた。
そっと鍵盤に両手を置くと、ふっと瞳を閉じる。先生が言っていた“ゾーンに入る”がわかる気がした。
8分の12拍子が、オールを漕いで一気に水路に揺れだすショパン『舟歌』。
―またこの感覚だ。―
翔平が最初に感じた衝動が再び全身を駆け巡っていく。麻酔銃を打ち込まれるような感覚。
笑ってる。いや、冷えた無表情だ。違う、完全に笑っている。もうわけがわからん。
どうしても矛盾する田中さんの表情は、本当に優しく穏やかな笑顔が無表情から滲み出るように見える。
その顔は、ピアノを弾いている時にしか覗かせないらしく、キューンと胸をしめつける。
波動を描くゴンドラを左手の伴奏に進ませ、右手でオールを漕ぐゴンドリエーレの美しいカンツォーネの旋律を歌いあげる。
おもわず翔平は柄にもなく豆柴のつぶらなレンズを閉じてしまう。
俺にも見える気がする。水路の上をスーッと…。俺も感じる気がする。風が頬を通り過ぎていくのが…。
田中さんと先生がうっとりするのが少しわかった。気がする。なんつぅ滑らかで優雅な水の都。
ゴンドリエーレが『舟歌』をドラマティックに歌い終えると、小さな余韻が響く中、田中さんはさっさとバッグを持って引き上げようとしていた。
「あっ…!」
ヴェネツィアまで行けてたかはわからんが、夢心地になっていた翔平は我に返ると、自分の荷物をパパっとしまい、先生にペコリとした。
先生は、“いつもこんな感じ”というような大人の優しい表情で、何も言わずに笑って頷いた。
「田中さん!」
翔平は慌てて追いかける。
無言で歩く田中さんの横に追いつく。
「あのさぁ、ここでなら…ここに来て話すのはいい?」
「え?」
「ここ以外で話しかけないから、ここに来て話すのはいい?」
「…?うん。?」
彼女は、翔平の“何、その変な提案は?”に少し笑って曖昧に答えた。
「よかった!じゃあ、先に行くね!」
翔平は嬉しそうに笑って去っていった。
つくつくが、ぼうしぼうしと汗にしみいる夏の声。