【ノクターンと変態男】
―平日の真っ昼間の公園で、缶ビール呑みながら泣いてる喪服姿の男なんて、端から見たらよっぽど変態に見えるだろうな。―
灰色の低いグラデーションが頭上一面にもくもくと、どこまでも続いていく2月の暦。
霊園墓地から少し離れた、都市部の閑静な住宅街にある小綺麗な【クヌギが公園】は、木曜日の12時を少しまわったところだった。地域住民の誇り…というほどでもないこの公園は、「“クヌギ公園”でよくね?」という、無駄に「クヌギが」と「“が”どうしたんだよ?」とつっこみを入れたくなるのは、少数派の人々。この公園ができる時に、ネーミングについて議論が巻き起こった…とまではいかない“少しざわついた”程度の話があったらしく、数年前にこの公園のベンチで、隣に座った60歳を過ぎているであろう白髪交じりの小太りな男性に「役所の人間の考えることはよくわからん。」と勝手に文句を言われても…なぜだか突然話しかけられたことを、なんで今あのおじさんの話、思い出したんだろ?【クヌギ公園】でも【クヌギが公園】でもどっちでも良いけど?と、変態男は謎の思い出の1ページに、右の口角をあげ首をかしげた。
その名の通り、クヌギが何本も植えられているから【クヌギが公園】のこぢんまりとした園内は、
ゴォーッと地鳴りのような音をたてたかとおもえば、ピューッと口笛のように落ち葉をさらい、「こんな寒い日に外にいるヤツは変態」と人を寄せつけないほどに二重奏…三重奏…の空っ風が吹き鳴らされ荒れていた。
まるで「魔界の演奏会にようこそ」と無理矢理引きずり込まれて、へたっぴぃな重低音がめちゃくちゃに響くのを聴かされているかのような耳障りな不愉快な振動が、ありがたいことに頬を耳をと撫でるように、爪を立て引っかきまわしてくれているので、皮膚がチクチクと痛む。
―相変わらず、じいちゃんの脚みてぇな木だな。―
強風を浴びて、少し赤らむチリチリする頬をさすりながら、カラカラに乾燥したクヌギの木に、母方のグランパ【万次郎 Manjirou】の地黒な健脚を連想しつつ、そっと置かれた気の利いたありきたりな、木製の横長ベンチの左側に寄ってストンとお尻を落とす。
べつに音楽に詳しくもないくせに、風に踊る木の葉を音符のように見立て、前かがみの姿勢で両ヒジを太ももについた人差し指を「ド・レ・ミ」と硬くぎこちないタッチで、舞い踊る枯れ葉の楽譜を読んでみる。
彼の名は【佐伯翔平 Saiki Syouhei】
―あっ。ツマミ買ってくんの忘れたわー…。―
お酒はハタチを過ぎてから、【クヌギが公園】のご近所さんにあるコンビニエンスストアに立ち寄るようになっていた。買い込んだ缶ビールや缶チューハイのたくさん入ったレジ袋をガサゴソ…あれー?と覗くが、酸っぱいイカのツマミを買うのを忘れてしまったようだった。けど、なくてもまぁいーや。と、持ち前の適当な…ではなくて、柔軟な思考をお持ちの翔平は、少し顎をあげて、黒いネクタイの絞め技をグイグイッと右手で緩めると、その勢いのまま、慣れた手つきで指パッチンのように小気味よく第1・2とYシャツと俺のボタンを愛する心のため外してホッと安堵を灯す。
喪服の上に“薄くて軽そうに見えるけど、実は結構暖かい”の謳い文句で「それは良い。」とまんまと衝動買いした黒いダウンジャケット姿の翔平は、雪を感じさせるどんよりと冷え込んだ極寒にも関わらず、やっぱりなんだか絞められるような感覚が苦手で、マフラーを巻かないその首には無数のポツポツが粟立っている。
要するに鳥肌。←普通に書け
冷たい強風という名のスタイリストは、黒髪で柔らかそうな短髪をせっせせっせと無造作ヘアにセットし続けている。
手袋もつけていない真っ赤な…というよりは、もはや紫に凍えて震えるカサついた左手に、キンキンに冷えた缶ビールを握りしめると、プシュッと呑み欲をそそる音が、冬の公園に響き渡る余韻を、ゴォーっと北風が華麗にさらっていく。ゴクゴク喉チンピーを上下させながら勢いよく1本目を流し込むと、ぷはぁーっ!とアルコール息を撒き散らして、翔平はぶるぶるっとバカ丸出しで身体を震わせた。
震える手って、アル中じゃない。←寒さです
ただの呑兵衛じゃないの。←あなたです
―ここでウイスキーボトルとかをグイッと呑んだら、洋画みたいでサマになるんだろうな。―
170cmを少し超えるとおもわれるその体格は、筋肉隆々のムキムキとしたガタイに抱かれたi…とは程遠い、
同じ名を持つ野球青年とは比べものにならない、いわゆる“普通”のモヤシ体型で、ウイスキーよりも缶ビールが似合ってしまう。
ドーベルマン…いえいえ、懐っこい豆柴の親しみやすい素朴なお顔ってよく言われますよぉ~!の翔平は、
意味のわからん自分の理想像に男前の顔をしてみる…が、あ、やっぱなんか違うかぁ!と、豆柴のつぶらなレンズで仕切り直すと、また左手の缶ビールをグビグビその普通体型のカラダに流し込んだ。
―げぷっ。―
Excuse me.
―俺らも30になっちゃったね―。―
12年前の今日、翔平の高校時代の大好きな【彼女】は、自分の宿命に絶望し、18歳というあまりにも青い人生という独奏会の幕を自ら下ろしてしまった。
翔平は、如月に亡くなった彼女の命日には必ず魂の供養に会いに来る。まぁ、そうではなくても事あるごとに「そこにいるの?いないんでしょ?風になって飛んでるの?」酔っ払った変態男は、幾度となく墓石に会いに来てはいたのだけど。
彼女を失った痛みに神経が鈍っていたのか元来の性格なのか、ある時は「寒いとトイレが近いわ!」と女子のようなことを言って、丑三つ時に、霊園墓地の公衆トイレの仏様に会いに行くことも屁とも思っていなかった。
あれから12年も経ったなんて、全然思えないな。あっという間すぎちゃって。
なーんも、仕事しかしてきてねぇけど、年だけは勝手にとっちゃうみたいっす。
そんな独り言を頭にポリポリとかいては、またビールを豪快に呑み干して、クチャッとその缶をつぶした。
月日の流れは早いものだなとしみじみ感じつつ、その速度は年々あがる気がする30歳の節目のこの年は、
彼女の13回忌の法要がひっそりと催されたのだった。
―「命の繋がりを感じる」…か。あの坊さんの話、良かったな。―
「…お墓というのは、我々がご先祖様に感謝をして生きるための記念碑なのではないかと思う次第でございまして。手を合わせることを大切にすることで、その方との命の繋がりを感じるのではないかと思う次第でございます。」
法要の時に、お坊さんが最後に説法をしてくれるけど、中々どうしてあまり真剣には聞いていないもの。
翔平はとくにそれどころではなくて、彼女との想い出をひたすら想い返しては、シクシクメソメソ嗚咽嗚咽と3回忌も7回忌もひたすらに泣いて泣いて飲まれて泣いてと女々しく泣いているばかりで、導師様の大切な“人としての道理”的なお話も全然頭に入ってこないでいた。13回忌のこの年、30にもなって少しは落ち着いた大人の顔ができるようになってきた翔平は、おすまし豆柴顔で貼り付く想い出を遠くから眺めていた。
だけど、くりくりお目々が印象的なツルッピkaおじいちゃまご住職のありがたいお言葉が、突然翔平の頭に燦々と降り注いで矢のごとく全身を射抜かれると、遠方で宙を彷徨う魂が強烈に揺さぶられた。
“その命を大切に生きてかなきゃね”
この言葉を何度聴いたことだろう。
そのたったひと言で、堰を切ったように翔平は声を押し殺して、うう゛っ…う゛っ…閉じ込める声をもらして身体を震わせる。
「翔平くーん。落ち着いてー。」
彼女の叔母【本田百合子 Honda Yuriko】が、少し三重のようなシワが重なる、しらけた横目の呆れた棒読みで声をかける。「小柄」という言葉はこの人のためにあるというくらい、喪服パンツスーツ姿のその人は、年を重ねても相変わらず女帝オーラを放つ美魔女でいることに、翔平はうちの母ちゃんのような“染みついた庶民感”とは全然違う、“身に染みついた美意識感”に会うたび驚かされてきた。
「もう12年経つのよ?まったくぅ。それじゃ7回忌の時と変わらないじゃない。」
「すんませんっ…!3回忌の時もこうでしたっ…!」
「自分で言うな。あの時はそんなもんじゃなかったわよ。大体ねぇ、そんなんじゃ死んだもんが浮かばれないじゃないの。ねぇ住職?」
きっつい言い方。「本田家の女はたくましいのよ」って、彼女も言ってたっけ。さすがは血筋ってやつですかい。なんて変に関心しながら、翔平はグッ…グッ…と鼻を鳴らしながら堪えていた。
「笑ってるの!?」
「泣いてるの!」
確かに笑いを堪えてるのと同じような音が虚しく響くと、坊さんがあんぐりという表情をおもわず浮かべてしまう、3人だけのご供養はひっそりと始まり、またひっそりと済まされた。
翔平は【クヌギが公園】にたどり着くと1人、その会話をしみじみ思い返していた。
“大切な人が守ってくれた命を大切にして生きる”
俺、何を聴いてたんだろ。何ひとつ学べてなかったんだな。
宙に浮かせた言葉を思いきり吸い上げながら、キリッとしない抜け感のある奥二重の瞼をキュッと閉じると、「ふぅーっ!」頬をハムスターにしながら大きなため息に「何やってんだよ俺!」を乗せて一気に吐いて強風にぶつける。再びその豆柴な瞳を静静と開けると、ぶつけて跳ね返ってくるような突風が、顔面を「しっかりしろよ」「耳かっぽじって聴け」「学習能力なくね」これでもかと喝を入れながら通りすぎていく。
―この遠慮のなさがたまらんですな。…て、寒いっ!―
清々しいほどの爽快感を憶えると、翔平はダウンジャケットの中に右手をつっこみ、お腹のホッカイロをブルブルとこすった。
住職に悟りを教えられながら、わかってるつもりで全然理解していなかった、"自分の心の中を整理しなさい"と言われているようで、12年もの間ひたすら封印してきた彼女との黒い過去に、翔平の望遠レンズはピントを合わせ始めていた。
斜めがけの黒いボディバッグから、小さな黒いボイスレコーダーを取り出すと、指でイヤホンのケーブルをスーッと伝わせ、イヤーピースをムニッとつまんでから耳にあてた。もう何度も見てきて慣れたはずなのに、たった1曲しかない画面に並ぶタイトルの文字を見つめると、すぐに霞んでぼやけてしまう。愛おしい想い出は、いくらでもそのスクリーンから溢れ出すように映し出されてしまうから。
翔平は眉をひそめ、唇をグッと結んだ。
『ノクターン 千歌』
同じ高校に通う彼女と初めて出会った1年生、蝉がうだる汗を大志を抱いて大合唱する1学期の7月。
音楽室にある年季の入ったグランドピアノで、ショパンの『ノクターン第2番』を冷えた無表情で奏でていた彼女のことを、薄汚れたドアの小窓からコソッと覗き見ていた、衝撃的な物語の1ページ目を忘れた日など1度もなかった。
―『ノクターン』が1つじゃないことも知らなかったんだよな、俺。―
翔平は、鎮痛剤を打ち込むようにボイスレコーダーの再生を押すと『ノクターン2番』にそっと瞳を閉じた。
シーソー…心地良いピアノの高音が優しく歌い始めると、その場の雰囲気はガラリと変わり、まるで、穏やかな湖畔に音の粒が浸透していくような心の平穏にたどり着く。
透き通る湖の水面に木の葉が落ちた時のような、そっと静かなピアノの子守唄が、鼓膜を通じて全身に響き渡る。
「…そもそも『ノクターン』ていうのは『夜想曲』のことで、もちろんショパンに限ったものではなくて、リストやドビュッシーの名曲も有名なのは言うまでもないの。だから、「ノクターン弾いて」って言われたら、どれ?ってなるわけ。」
棒読み。『ノクターン』について説明してくれた時、俺、音楽にまったく精通してないから唖然としちゃったんだよな。さぞマヌケ面だったことでしょう。笑うわ。
自分のアホーな感覚を取り戻す翔平は、「冷てぇ言い方…」と、当時の2人の会話を思い返すと、嬉しそうに薄ら微笑んだ。
「『夜想曲』は字の如く、『夜の曲』なんだよね。だから、月明かりに“1人で集中して…”それぞれの曲の表情や光景を瞼の裏や月夜に思い浮かべながら…噛み締めながら…歌う。夜空に散りばめられた星たちが、漆黒の闇に月光と共にジワッ…と滲んで光放つ…!そんな感じかな。」
いくらでも、一語一句を逃さずに些細なことまでハッキリと覚えている。
瞳を閉じ、夜空に星をジワッと両手で散りばめて、うっとり話した彼女の微笑みをナノレベルで忘れていない。
―音楽2の俺にはわからん世界よ。―
夜空でキラキラ光るお星様を想像するくらいはできたけどさ。
「ショパンの『ノクターン』は、全部で21曲もあるんだよ。」って教えてくれたね。
「…じゃあ、どうやって分けてんの?『ノクターン』って言ったら色々あるわけでしょ?」
「うん。まぁ一般的には翔平くんが思うように『ノクターン』といえばショパンの『2番』を指すくらい、もはや有名すぎるんだけど。音楽に詳しい人の間では、例えばショパンの『ノクターン2番』なら『9-2』って、作品番号で呼ぶの。」
「きゅうのに。業界用語って感じっすねぇ~。」
「『9-2』は技術的には難しくないけど、だからこそ、歌い方や音のコントロ―ルが難しい曲って言われてるの。まぁ『ノクターン』に限らず、ショパンの曲は技術ではなく歌心重視…そんな感じ。」
「ほぇ。うたごごろ。」
なんてマヌケ顔の豆柴くんは、その後の会話も『9-2』の美しすぎる旋律に乗せて聴いていく。
「ショパンはさぁ、39歳ていう若さで…肺結核で亡くなっちゃったんだって。」
「さんじゅうきゅう!?」
「うん…若すぎるよね。でもさぁ、200年前の人の曲が、今でも輝き響き続けてるって、凄いことだよね。翔平くんでも知ってるんだもんねー。」
「翔平くん“でも”って。失礼しちゃうわねぇ~。て、すげぇなぁ~200年かぁ!なんか果てしないな。」
「ねぇー。本当に…果てしない昔。もっと生きてたら、もっともっと素晴らしい歌が生まれてたよね…。」
たくさんのショパンの名曲を頭に浮かべてるんだろうな…200年前を見て微笑んじゃって、本当に可愛いな~。笑みが伝染しますわぁ~。
「たぶん本当は、一人孤独を感じていた繊細なショパンが、祖国を思いながら切ない夜に紡いだ曲なんだけど、私は『9-2』の感じ方がチョット違うんだよね。」
「ふぅ~ん?どんな?」
「うん。子守唄…。」
「こもりうた?」
シーソー…彼女は右手で『ノクターン2番』を奏でる。
「お母さんの腕の中で、赤ちゃんを「寝んね」って寝かしつけるあったかい手のひらが“トン…トン…”てする時みたいな優しいタッチで…。高音の柔らかいメロディが、鍵盤を軽やかに撫でていく。…そんな?」
ファーソファーミ…本当に“トン…トン…”とするように鍵盤をタッチする。
なんて思いやりが滲む表情で情緒的に話すのか。翔平は心を筆先でくすぐられるような、くすぐったいこそばゆい気持ちになって聴いていた。
「あぁ!俺もそれはわかる!ゆりかごに揺られた赤ちゃんが子守唄を聴きながら、うつら~うつら~と夢の中へ誘い込まれる、まるで怪談朗読の帝王のような心地良さで…。そんな感じでしょ?」
「え?」
は?
終盤に初めて低音が強調して押し寄せてくるフレーズは、湧き上がる生きとし生ける生命の喜びに、温かい涙がホロッと胸をしめつけて、“何が起こっても大丈夫”と、優しくて力強い愛情に守られて、「花びらがキラキラヒラヒラ舞う歌声を聴きながら、安心してお眠りなさい」と心を満たしてくれる。そんな響きがカラダを穏やかにくるんでくれているような、とめどもない愛情が降り注がれるような曲だと話したくれたよね。
今にして思えば、ショパンの曲を語る時は、いつも頭の中の弦と話してるのかとおもってたけど…違ったな。
あれは全部、記憶なんだよな。
実際に体感したお母さんとの少しの記憶を辿って、必死に忘れないようにしがみついてた。
「まぁ、ショパンの“子守歌”って曲もあるんだけどね。それも良いよ~。凄い優しすぎる歌。」
静かで暖かい晴れた日に、お母さんのぬくぬくしたお布団で一緒にお昼寝をしていると、心地良いリズムの子守唄が、ふわっと身体を風に乗せてくれる。逆らわずに身を任せて…どこまでもどこまでも吹かれていく…。ふいに目を覚ましたら、そこでお母さんも眠りに落ちていて、“あぁ良かった、お母さんが隣にいる”って安心して、穏やかな顔にホッとして、またウトウト吹かれていく。
「…なんか、そんな歌。まぁ、コレはただの私の感想だけどね。」
―音楽家ってのは、みんなうっとり語るもんなのかな?―
「あっ!それ先生がこないだうっとり話してた!”もう1曲弾いてくれない?”ってリクエストしたら“子守歌”弾いてくれたって!」
「うっとりって…。ん?そんなことあったっけ?覚えてないや。…て、先生と翔平くんてそういう話するの?」
「えぇ!?覚えてないんだ?や、全然そういう話はしないし、たまたまなんだけどさ。…あ、じゃあ“子守歌”!明日は“子守歌”弾いてくれる?」
「お母さんが…」ポソッと囁き程度の声に、
「お母さん?」地獄耳は聞き逃さない。
「ううん。そんな気分だったらね。弾くかもねぇ~?」
「頼んます!」
ショパンが39だろ?あなた18っすよ、およそ半分に満たない。
月が綺麗だなっておもう夜に、お酒を嗜みながら、『きゅうのに』をしっぽり聴いちゃったりする今ならわかる気がするよ。ショパンに自分を重ねてたのかなって。故郷から逃れて。孤独を感じて。
本当はいつも怯えてたんだよな。誰にも言えなくて…1人で我慢して、ピアノの音にだけ感情をぶつけて。
いつもどっかでお母さんの愛情を求めて、どんな曲も頭の中の弦をお母さんに繋げて。ずっと、もがき苦しんでたんだよな。だから、“大好きなお母さんが大好きだった曲に自分が包まれているような気持ち”と言いたかったんだよね。きっと。
どうして守ってあげられなかったんだろ。
どうして一緒にいなかったんだよ、俺っ…!
俺が、そうさせてしまったんだろ。
そこに産まれた小さな恋を、丁寧に大切に育んでいた、純粋すぎる切なすぎる高校3年間の想い出のすべて。
それは何年経っても決して色褪せることなどなく、行き場のない感情を押し殺すはずなのに、『ノクターン第2番』の曲と共に、想い突き動かされる彼女のすべてに、抜け殻のレンズはジュワーッと湿地帯のごとく干からび乾くことを教えない。
うるうると霞む視界をスクリーンにして、彼女との愛おしい日々が、手を伸ばせば届きそうなほど間近に映し出されると、想い出のひとつひとつが翔平の頬を“出会い”“きゅうのに”…“3話”“4話”とボロボロ伝う。
12年前、納骨がされたという彼女が眠る霊園墓地からの帰り道に、この【クヌギが公園】を偶然見つけて、ベンチで一人、大切な人を失った悲しみに打ちひしがれ、「どうして!」「なんで!?」とクシャクシャッと丸めて潰した譜面のような泣き顔を歪ませて、涙にまみれながら、小刻みに短く荒い呼吸で、ヒックヒックハァッハァ身体を揺らしながら「嘘だって言ってよっ…」と泣き荒れたあの日。とめどもなく溢れる記憶は、30歳の変態男の顔を突然、「う゛っ!」と込み上げる顔を落下させて簡単に崩す。
同時に、2人で笑い合った嬉しそうで楽しい声が翔平の頭をつつくと、
その時を想っては、溶けてくロウソクのように、ヘラヘラ~と上昇させては、笑いこむ涙を流しながら微笑んだ。
そんな忙しい感情をコロコロと変化させる、変態と変質者の合わせ技のような翔平は、“彼女を失ったあの日”から、呼吸を繰り返すだけの空虚な毎日を繰り返してきた。
そのボルテージは、激しく強いフォルティシシモからデクレシェンドと、年々音を弱めてきてはいるものの、
翔平にとっての彼女の死、それはショパンの『ノクターン第20番 嬰ハ短調「遺作」』のように、ほとばしる愛別離苦。静かで暗い絶妙な陰影のメロディとして流れるようになった。
「ショパンの曲は世界的に愛されてるからね。映画とかテレビCMとかでも使われてるんだよね。」
「へぇ~そうなんだ?例えば?」
「んー…急に言わるとな。例えば、胃薬のCM?」
タンターンタンタンッタンタッタンタタンタターン…
そのフレーズを彼女が弾いてみせる。
「あ、知ってる!聴いたことある!これショパンなの?」
「でしょ?そうだよ。これはショパンの『ノクターンの「遺作」』ていうチョー有名な曲なのですよ。戦争映画でも使われたチョーチョー有名な歌!」
「あぁ!その映画見たよ!…けど、この曲だった?忘れちゃったなぁー。」
「嘘でしょ!?こんなインパクトのある曲なのに。」
「素人なんてそんなもんだよ。え?弾いてくれる?」
「やめとく。」
「なんで?」
「お昼休み終わっちゃうから!」
「あぁ!もうこんな時間だったんだ!?」
「午後の授業に響くからね…。」
と言いつつ、さわりから少しだけ奏でた『遺作』の切なすぎるメロディ。
なんて哀愁漂う…。出だしの音で悲しい怖さのある曲だと、素人を恐怖に似た感覚が襲う。心臓をギューッと極端に静かにわしづかみにしていくような鈍い感触に、おもわず涙がジワりそうになる。見てはいけないものを見るような。感じたくないはずの人間の野蛮さを感じてしまうような。ポツリポツリと迫ってくる漆黒の黒い涙。それこそ“葬儀の参列”を思わせる。すると曲調が少し変わる。あ、知ってるフレーズだ。これか胃薬のCM。もっと明るい曲だとおもっていたのに、こんなに悲しみが、うねり押し寄せてくる曲とは全然知らなかった。
2度目の同じフレーズの“CMと違う下がった音色”を弾くと、彼女は手を止めた。
「すげぇ寂しい曲だな…。胸の奥が…息苦しいっていうのかな?」
「わかるの凄いじゃん。」
「バカにしすぎだわ。…そりゃ、わかるよ。こんなに伝わってくれば。」
聴いた瞬間、ぶわぁっと視界が霞むほどの静かな物悲しさが込み上げて、突然に深くて黒い沼の底から、悲愴感が万感胸に迫るほどに身体を締め付けられ、魂を激しく揺さぶる歌だった。
―俺が死んでも大好きな想いは変わらないよ。―
翔平は今年も彼女が眠る霊園墓地からの帰り道にある、自宅から電車で3時間半離れたこの【クヌギが公園】のベンチに座り、まるで流れてしまった想い出の雫を補うように、キンキンに冷えたアルコールを紫のブルブル震える唇で、バカ丸出しにして呑み続けるのだった。傷口に塩を塗り込むように『ノクターン2番』の旋律にどっぷり浸かりながら。
―冷蔵庫がいらないんだぜ。―
寒い…寒気の空の下、内臓が凍りそうなほど冷えたアルコールをまた1つ呑み干すと、クチャッと缶をつぶす。
忘れることなどない。忘れるはずもない。返答などあるわけもない。答えが出るなんてありえない。
―俺なんかに出会わなければ…っ!―
そんな黒い想いが、グルグルと大きく大きく渦巻いてきた。次第に巨大化した自分の手ではどうにもできない密かな闇を大切に抱えたまま、翔平は毎日“あの頃の想い出”の中で、廃人のように生きているのだった。
―会いたいよ。…痛いくらい。―
心に悲しみが突き刺さるのは、“失くしたこと”を本当はわかってきてしまっているから。
身体がすくむような鈍い音階にうずくまるのは、“真実を受け入れようとする全部”を拒絶しているから。
“わからないふりをしてきたこと”を認めるのが無理だったから。
そんな真っ黒な絵の具で、真っ黒に塗りつぶされた、真っ暗な巨大な渦に飲み込まれ、酸素が足りないヒドイ耳鳴りが、変態男を冷たく優しく包みこんでいた。
ずっと教えてくれてたのに。見ないようにしてた。
ずっとわかってたことにフタをして、心を閉ざしてきてたんだ。
ごめんね。
翔平の心の中と同じくらいに荒れた突風が、まだまだ豪快に【クヌギが公園】に吹き巻いている。
茶々黒い枯れ葉がおでこにペタリと貼り付くと、右手の小指でペッと払った。
風邪ひかないようにね。