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僕はナイフを持っている飯田先輩をチラチラと見ながら横歩きで刑事に近付く。
「動くな! 中村和人さん、あなたもです!」
それは予想外だった。
「なんで僕も?」
両手を顔の横に上げながら問うが、刑事は答えずに懐から携帯電話を取り出した。
視界の隅で飯田先輩が動いた。ナイフを胴体目掛けて振ったが相手は刑事。紙一重でかわし、彼女の腕を取り体重をかけて地面に押し倒した。
おそらくそれで意識を飛ばす、最低でも身体に力が入らない状態にするつもりだったのだろう。しかし飯田先輩は苦し気な呻き声を上げながらも意識を保ち、力を緩めなかった。
だから僕は容易く、刑事の背中にナイフを刺すことができた。
刑事の動きが止まり、小刻みに震え始める。そして飯田先輩を下敷きにしてうつ伏せに倒れた。
どかそうと身体に触れると、ヒューヒューと口から漏れる息に混ざって小さな言葉が聞こえてきた。
「分かってたんだ。お前ら二人が共犯だってことは。だが連絡手段が分からなかった。会っていたという確証を見付けることができなかった」
飯田先輩は服の汚れを払いながら立ち上がり刑事を見下ろす。
「会ってないからね」
「……いつから」
「高校生の時。詳しい日時までは覚えてないけど」
「じゃあなんで……まるで指し示したように……」
飯田先輩が僕を見る。だから僕は刑事を見た。
「彼女が小林さんを殺したから」
「……意味が……」
目を見開き、腹部を上下させて先程より激しく呼吸を繰り返す。それ以上喋る気力もないようだった。何より僕らも長居はしたくない。
「雨も降りそうだしそろそろ行きませんか、飯田先輩。僕の家、すぐそこなので」
「ん。じゃあお邪魔しようかな」
青く点滅している信号を見て走って渡る。速度を緩めて歩くと、先程までの変わらない静寂がそこにはあった。
答えが出なかった。大抵のことは考え続ければ何かしら納得できる答えが出るのに。
だから小林さんが殺されて飯田先輩が疑われていると聞いたとき、それが答えなのだと確信した。
だから天野を殺した。
僕も忘れていない。あなたは一人じゃないという想いを伝えるために。
飯田先輩は宮長を殺した。
返信だ。僕の考えが間違ってないことを知らせるための。
次は篠原を僕が殺すーーーー筈だった。
目を開けると彼女の顔があった。しばらく眺めてから身体を起こして時刻を確認する。
午前六時。
随分早く目が覚めたがちょうどいいと言えばそうかもしれない。死体が見付かればいつここに警察が来るかも分からない。
もう一度彼女に目を向ける。毛布をそっと取って痣や火傷痕が残っている背中を撫でた。
ピクリと瞼が動き、そっと開く。
「おはよう、中村君」
「おはようございます、飯田先輩」
彼女は上体を起こして部屋を見回す。
「まだ六時です」
「そっか」
短く答えてから僕の肩に頭を乗せて、右手で胸に触れた。
「なんでだろう」
僕は答えなかった。
「高校生の頃はただ二人でいるだけでも心臓ドキドキだったのに。あの夜のドキドキはなんだったんだろう。確かめないまま終わっちゃったからもう分からない。確かめた方がよかったのか、確かめなかったからよかったのかも分からない。でもすごく気持ちよかった」
「……そうですね」
「大人になったってことなのかな」
「そんな曖昧な表現じゃ納得できませんよ」
「そうだね。ねぇ、もし捕まらずに済んだらどうしようか」
ふふ、と笑う彼女を見てから立ち上がり、テーブルの上に置いていたナイフを持つ。
「飯田先輩、そろそろ終わりにしましょう」
彼女は小首を傾げる。
「……終わり、って?」
「小林さんを殺して、天野を殺して、宮長を殺して、篠原を殺した。あとは僕を殺せば終わりです」
ナイフの持ち手側を向けて差し出すが彼女は手を動かそうとしない。
「殺さないよ。中村君は別だもの」
「別じゃないですよ。僕は忘れてない。ずっと忘れられなかった。全部忘れるためには死ぬか、殺すしかない」
「……忘れずに生きるのは駄目なの?」
「辛いでしょう、そんなの。僕もあなたも」
「そっか」と彼女は困ったように笑い、
「じゃああなたが私を殺して」
まるで抱擁を望むかのように僕に向けて両腕を広げて見せた。
「そういや中村の奴離婚したらしいな」
その言葉が耳に入って脳に届いてそれを理解するまで何秒かかっただろう。それくらい私の頭は愚鈍になっていた。
ただ家事をして、夫の気分で殴られたり煙草を押し付けられたりする、人間の形をしたお手伝いストレス性欲発散ロボット。それが私だった。
でも今は頭の一部がスーっと透き通る感覚がある。その一部をフル回転させて理解する。夫が口にした言葉の意味を。
そして答えを出した。
今なら一緒にいられるんだと。
あぁでもこんな身体じゃ。
傷を消そう。手術でもなんでもして。
元凶も消そう。私の身体をこんなにしたこの男。それから、あと三人。
そしたら一緒になれる。
でも彼は受け止めてくれるかな。
まぁいいや。とりあえず消さなきゃ。
驚き。彼から返事があった。嬉しい。
すぐに返事をしなきゃ。
返事まだかな。
まだかな。
ちょっと見に行ってみようかな。
思ってたよりドキドキしないな。
でも、なんでだろう。
ずっと一緒にいたいって思うよ。
あぁ、そっか。
あなたも消さずには生きられないんだ。
仕方ないよね。
人間、辛いことほど忘れられないし。
答えが出ても解決するとは限らないし。
それでも私はあなたと一緒にいたいから、これは最後の賭け。
あなたが私を殺せるならあなたは救われる。
あなたが私を殺せないのなら私が救われる。そしてあなたも救って見せるから。
声に出さずに叫ぶよ。
やめて、って。




