素足のリズ
エリザベス・コルベットは足が不自由なため、子供時代からずっと屋敷にこもりきりだった。母はすでに亡く、片田舎の領地で、自然に囲まれながら静かに本を読み、暮らしていた。
エリザベスは満足に歩くことができなかった。見た目では問題がない様に思えるのだが、靴、特に貴婦人が履くような踵の高い靴を履くと、どうしようもなく足が痛むのだ。そのため、彼女は家の中では常に素足で過ごしていた。
彼女の生きた時代は、女性が脚を出す事がはしたない、とされていた時代。きらびやかな靴でダンスができないエリザベスは、貴族社会から隔絶されていた。
父ヘンリーは手広く商いをしており、ほとんど家には戻ってこなかったが、エリザベスは父の愛情を疑った事は無かった。好きなだけ本を買い与えてくれたし、帰宅した時にはたくさんのお土産と、抱擁をくれたからだ。
初夏のある日、ヘンリーは風変わりなひとりの男を引き連れ、屋敷に戻った。
男は、黒に近い焦げ茶の豊かな髪と、真っ黒な瞳を持ち、褐色とは言えないけれど白くもない肌の色をしていた。
「この男は、色々面白い経験をしているそうだ。お前の暇つぶしになると思ってね。」
青年の名は有馬惟光と言った。有馬が家名だと言う。
遠い遠い東の果て、異教徒の国を超え、絹の道を超え、さらに海を越えた先に、小さな島国があると言う。惟光はそこからやって来たのだ。
故郷ではそれなりの家系だが、惟光には兄弟が11人おり、その全員が病や戦乱に倒れる事なく成人しているそうだ。惟光は仲睦まじい夫婦から産まれた末の子供だった。多少の土地を分け与えられ、のんびりと暮らしていく事は容易いが、それではつまらないと、親元を離れ見聞の旅に出たのだと言う。
「惟光は12歳で家を出て、今年で8年になるそうだ」
まず船で大陸に渡り、そこから絹の道を旅しながらこちらの文化圏までやってきた。そして、隣国で色々なことをやっていて、ひょんなことからヘンリーが出資している会社の船に乗ることになったが、その船が難破した。なんとか船員たちで力を合わせて無人島で生き延びていたが、この度めでたく通りがかった漁船に発見され、生還した。船員たちは戻ってきたものの、積荷は完全に失われ、ヘンリーが出資した金は文字通り水の泡となった。そこで、せめて元を取ろうと話の種になりそうな惟光を連れて帰って来たのだと言う。
「それは、大変な事でした」エリザベスは落ち着いた声でそう告げた。
その言葉は父への労いでもあるし、惟光への同情でもある。
そうして、有馬惟光はエリザベスの話相手としてコルベット家に雇用された。
彼は非常に流暢に、まるで産まれた時からこの国にいたかの様に言葉を操った。
惟光は自分の事以外にも、様々な物語をエリザベスに伝えた。国を滅ぼした美女。農民から、一国の主に成り上がった男。財宝を手に入れた、心の美しい青年の話。人を惑わす妖の話。巨大な鯨に襲われた話。惟光の話はどれも、エリザベスの本棚には無いものばかりだった。
エリザベスは毎晩、次の日に惟光が何を語るのかを楽しみにしながら眠る様になっていった。しかしそのうち、エリザベスが惟光を特別視しすぎていることに気がついたのか、はたまた単に様々な異国の言葉を使いこなせるからなのか、ヘンリーは惟光を連れて仕事へ向かう事が多くなった。
それがエリザベスには大層不満だった。自分も二人について行き、舞台を見たり、本を選んだりしたいと思い始める様になった。しかし、外の世界は、裸足のままで使用人に抱きかかえられながら生活しているエリザベスの生きていける場所ではなかった。エリザベスは、履きもしないのに買い換えられていく自分の靴に目を向け、おそるおそる小さな足を納め、靴紐を締めた。メイドの手を借り、立ち上がってみたものの、部屋の中でさえろくに歩く事が出来ず、情けなさにエリザベスは泣き出した。メイドは泣きじゃくるエリザベスを見ておろおろしていたが、屋敷に到着した馬車の音を聞きつけ、飛び上がって部屋を出て行った。
やがて、メイドに右手を引かれ、左手に小包を抱えた惟光がエリザベスの元へやって来た。少女の足元を見て、彼は状況を理解した。エリザベスが泣き止むのを待ち、彼は語り始める。
「私の故郷では、この様な頑丈すぎる革靴は履いていません」
惟光は何気ない口調で語る。彼の言うところによると、はるか東の国では藁を編んだ靴や、木の簡素な履物で暮らしていて、どんなに身分の高い人間も、家の中では素足だと言う。だから、エリザベスを見ても、何とも思わなかったと言うのだ。
「立って、少しでも歩けたのでしょう?旦那様が言うには、足の骨も、筋も、何も問題はないと。一番はじめに足に異変があったのは間違いないと思いますが、今はもう運動不足や、精神の問題だと私は思います」
「そもそも、向こうでも、こちらでも、裸足で生活している人なんて大勢いますよ。そんな歩く事を放棄した様な靴ではなくて、もっと履きやすいものから始めるべきなんですよ」
惟光はいつもより少しぶっきらぼうに語り、小包を開いた。中身は、羊毛や布、藁で作られた、彼の故郷の履物だった。エリザベスに合う靴を作りだそうと、ヘンリーと二人で相談していたのだと言う。
次の日から、エリザベスは歩く練習を始めた。
なにせ、練習が終わらない限り、惟光は物語を紡がなくなったのだ。
そのくせ、舞踏会や観劇に行ったことは自慢してくるので、エリザベスは腹を立てながらも必死に訓練した。惟光は見慣れない薬草をどこかから持ってきて、湿布を作ったり、羊毛で靴の中に敷くクッションを作ったりして彼女を見守った。
やがてエリザベスは、杖をついて歩き始め、一年後には一人で森を散策できるまでに回復した。
外を出歩くようになってから、エリザベスは森の中で奇妙な獣を見かけるようになった。
茶色と黒の毛を持った犬ほどの大きさで、尾は長く、毛はふさふさとしており、耳が丸く、鼻は尖っており、目の周りが黒い。どこか愛嬌のある顔をしている。
いつも1匹でおり、エリザベスが近づくとサッと逃げるが、たまにこちらを見ている事があった。使用人の誰に聞いても、そんな生き物は見たことがないと言うし、頼みの綱の惟光がいる時に限って、その丸くてふわふわとした生き物は現れなかった。本で調べてもわからず、捕まえてみようとしたが、餌付けも罠も効かなかった。どうしても、その『毛玉』と名付けた獣が気になるエリザベスは、一芝居を打つ事にした。そう、自分自身を餌にしたのだ。
作戦決行の日、エリザベスはいつも通り散歩をし、森の中の開けた場所に出た。
ぽっかりと空いた木々の隙間に、まるで絨毯としてあつらえたかのように短い草が生い茂っている。エリザベスはその場に寝転がり、倒れたふりをした。
日差しが心地よく、このまま眠ってしまうかと思われた頃合いに、ガサガサと草をかき分ける音がした。エリザベスはじっと、『毛玉』が近づいてくるのを待った。獣は倒れている少女を見つけると、駆け足で近くに寄り、まるで脈を測るかの様に、湿った鼻で手に触れた。その瞬間、エリザベスは全身全霊の力を込め、『毛玉』に飛びかかった。
「ぎゃっ!騙したな!エリザベス!!」
獣は人間のようなうめき声をあげ、エリザベスに押しつぶされた。彼女にはその声に聞き覚えがあった。
「惟光?」
そう、謎の獣の正体は惟光その人だったのだ。
惟光は嫌々ながらも、エリザベスの追求に負け、自身の半生を語り出した。
彼の母はこの『タヌキ』と呼ばれる獣の姿を借りた精霊の眷属だと言う。
その昔、祖父がやっと授かった一粒種、すなわち惟光の父が病に倒れた時、
精霊に百の夜、祈りを捧げる事にした。雨の日も風の日も彼はやって来た。
とうとう気の毒に思った精霊が、最後の夜に、自分の眷属を赤子の姿に変え、祈りを捧げる彼の前に置いた。目を開いた祖父は、捨て子がいる事に驚き、悲しみ、または憤慨して、屋敷に連れ帰り『たね』と名付け、同じく子に恵まれない家臣の養女とした。『たね』がやって来たその日から、もう長くはないと言われた跡取り息子の体調はみるみるうちに回復し、一族は喜びに包まれた。
やがて二人は結ばれ、子を産み育てながら数多の戦乱を乗り越え、一族を繁栄させていった。12人産まれた子のうち、11人は普通の人間だったが、運命のいたずらなのか、惟光だけが母の血を色濃く受け継いでおり、変化する事が出来た。
母の正体を知っていた父も、兄弟たちも別にその事を重く受け止めてはいなかった。しかし、ある時事件は起こった。
父と兄が、妖に取り憑かれた僧を退治した時、その怨念が幼い惟光の身に降りかかり、彼は呪われし身となってしまったのだと言う。
『この子は、ひとところにはとどまる事が出来ず、人生を七度繰り返しても足りぬほどの困難に見舞われるでしょう』母のたねはそう告げ、涙にくれた。
自らの意思に関わらず、様々な事件を引き起こす体質になってしまった惟光は、これ以上家族に迷惑をかけられないと、幼い身の上で出奔した。その後の人生は大まかにエリザベスに語った通りだと惟光は言う。
「何が本当で、何が作り話なのかわからないわ」
エリザベスはふわふわとした毛を撫でながら考え込んだ。
精霊や呪いの類は、全て作り話だとエリザベスは信じて生きてきた。しかし、目の前の『タヌキ』は惟光の声で喋っている。
「まあ、そうでしょうね。私も冗談であればいいなと思いますよ。お嬢様には言っていませんが、ここに来てからも色々ありました」
そう惟光は告げると、そのまま草むらへ消えてしまった。エリザベスはそのまま居なくなってしまうのではないかと心配したが、帰宅するとちゃんと人間の姿の惟光がいた。彼女は黙っていなくならないようにと、何度も何度も念押しをした。
その後、順調に回復したエリザベスは、とうとうヒールのある靴を履き、ダンスを踊れるようになった。その姿を見て父ヘンリーは涙した。これで社交界にデビューできると。エリザベスは社交界に興味がなく、ただ惟光に褒めて欲しい一心で練習に取り組んでいた。しかし、エリザベスのエスコートをして欲しいと言う願いを、惟光はきっぱりとはねつけた。彼は、ただ「行けば分かりますよ」と悲しげに微笑んだ。その日から、彼は時折覗かせていた素の表情を一切表に出さなくなった。
エリザベスは、社交界にデビューしたものの、馴染めずにいた。惟光の言っていた意味がわかったのだ。やはり、自分には田舎暮らしが性に合っている。婚約に関する打診の手紙が毎日の様に届くが、彼女の興味を引く人物は一人もいなかった。このまま独身の女領主として生きるのも悪くないと思った矢先、惟光の故郷がこちらの国々との国交を絶つ、との噂が流れてきた。外国の船を、港に入れないのだと言う。惟光はその話を聞き、暇を願い出、故郷に帰りたいと告げた。
ヘンリーは、残念そうな、ほっとしたような顔で了承した。
父はとうの昔にエリザベスが惟光に強く惹かれていることに気がついていたが、
惟光は優秀ではあるものの、貴族ではないだけでは済まない、違う世界の人間だ。彼はこちらの文化を理解し、取り入れようとしているが、貴族社会にはそうでない者の方が多い。その経歴から、きちんとした人間として扱われないであろう惟光に、彼はエリザベスを預ける気にはなれなかったのだ。
エリザベスは泣き、すがったり、癇癪を起こしたり、部屋に立てこもったりして惟光を引き止めようとしたが、彼の決意は固かった。故郷に戻った惟光が、再びこの地に訪れる可能性は無に等しい。退職は、そのまま永遠の別れを意味する。
惟光は別れ際、エリザベスに微笑みながらこう告げた。
「泣くのはおやめなさい。あなたは、この家を出て、自分の足で、もっと広い世界を見るべきだ。全ての人が、出会いと別れを繰り返し、生きてゆく。これから先、沢山の楽しいことがある。そうすれば、私の事などすっかり忘れてしまいますよ 」
惟光は去っていった。エリザベスはずっとその後ろ姿を見つめていたが、彼はとうとう一度も振り返らなかった。
エリザベスは泣いた。泣いて泣いて泣いて、体から水分が無くなってしまうのではと思われるほどに泣いた。次の日の早朝、泣き疲れたエリザベスは布団の中で、惟光の言葉を反芻していた。
『楽しい事があれば、私の事などすっかり忘れる』
その、惟光の諭すようでいて投げやりにも聞こえる言葉が、からからに乾いたエリザベスの魂に火を付けた。彼女は自分の感情を、若気の至り、気の迷いだと、一笑に付されたような心持ちになったのだ。彼女にはどうも、それが納得できなかった。
エリザベスは、感情の赴くまま、惟光が語った冒険譚を参考にして身支度を整え、父に置き手紙を残し、出奔した。エリザベスに足りないのは気合いだと、貴女はその気になればもっとすごい事が出来る。惟光は、昔そう言って発破をかけた。今がその時なのだ、とエリザベスは見えない力に突き動かされるように進んだ。
男装をし、馬車を乗り継ぎ、港へ出る。惟光が乗る予定の船はすぐに見つかった。何しろ彼は特徴的な男だ、足跡を辿るのはたやすい。ひとり分だけ残っていた乗船券を買い、エリザベスは船に乗り込んだ。甲板に出ると、まさしく懐かしい惟光の姿があった。
エリザベスはそっと、ひどく寂しげな惟光の背中を見つめる。
出航を告げる汽笛が鳴る。
船がゆっくりと動き出すと、惟光は過ごした日々を懐かしみ、最後に目に焼き付けておこうとして振り返った。彼はそこに、穏やかな日々の象徴であったはずの少女の姿を捉える。
「何故ここに?」
少しの沈黙の後、惟光はぽつりと呟く。その声は、エリザベスがいつも求めていた、使用人としてではない、『有馬惟光』その人としての色を持っていた。
「別に。自分の足で、世界を見て回ろうと思って」
人生、何度目かの波乱が到来した事を知った惟光は膝から崩れ落ちた。
エリザベスは笑った。大きく口を開け、腹が捩れるほど笑った。
惟光は、最初は泣いていたが、エリザベスがあんまり笑うので、最後には自分も笑い出した。
手すりに止まっているカモメと、他の乗客達は訝しげに二人を見ていたが、やがて二人から視線を離し、それぞれの船室に戻っていった。
船はゆっくりと、大海原を進む。
後にエリザベスはこう語った。
「色々な事があったけど、あの時の顔が一番面白かったわ」と。




