99 Short Hair
ザックがシャワーを浴びて着替えを終え、部屋のカーテンを開けた。
窓の向こうでは分厚い灰色の雲が空を覆い尽くしていて、暗い雲からは真っ白な雪が落ちてきている。
氷のように冷たい窓に触れると、水滴がつつつと垂れた。
「俺が行く必要はない、か」
そっと瞼を下ろしたザックが窓に額を押しつけた。冷たい氷が頭の奥に凍みて、ずきりと痛みを生む。
昨夜、突然出かけたテリーはザックがおおよそ予想していた通りの時間に戻ってきた。帰ってきたテリーは子守唄こそ歌ってくれなかったが、寝る前にザックの酒に付き合ってくれた。昔、仲が良かった兄貴分の墓へ行ったのだと、珍しく酒のつまみに思い出話を幾つかして、普段通り酔い潰れて眠った。
招待状という言葉を挟んだ手帳を見てから酷く緊張していたザックをよそに、テリーは普段となんら変わらない様子で濃い酒を飲み、どうでもいい話にげらげらと笑い、そのままの勢いで落ちるようにすとんと眠った。
次の日に面倒な仕事が待ち構えている夜のように。楽な仕事が続いて暇な夜のように。嫌なことがあってお互い自棄になった夜のように。
テリーは今までザックと何度となく繰り返した夜を、同じように繰り返した。
気が気でないのはテリーも同じだろうに、とザックは彼の下手な気遣いを労うように苦笑する。
「君はどこまで責任をひっ被るつもり?」
瞼を押し上げたザックが、窓から額と指を離した。白く曇った窓に映っている自身と目を合わせ、僅かに口角を上げて微笑んだ。
「それとも、俺に守られるのがそんなに嫌?」
「朝っぱらからうるっせェ。僕はてめェみたいな優男に守られるほど弱くねェぞ、ボケ」
ザックがゆっくりと振り返ると、扉に寄りかかったテリーが立っていた。布団から出てきたばかりらしい彼は部屋着を肩にかけただけで袖も通していない。
「おはよう。――責任云々には答えないんだ?」
「聞こえてねェもんに答えられるかよ」
ずっと立っていたくせに、とは言わず、見ているだけで寒い格好のテリーに近づく。頭一つ分下にある顔を見下ろすと、彼はあくびをしながら右手をザックの後頭部へ伸ばした。
短い髪を確かめるように触ってから、彼はふっと鼻を鳴らす。
「なに?」
「長ェと鬱陶しかったなァと思ってェ。……てめェはやっぱり短ェ方がいいな」
テリーが僅かに笑んだ気がして、ザックも微笑み返す。
「そう? ありがと。――今朝の運動はどうする?」
ザックが首を傾げると、テリーは手を離して背を向けた。
「シャワー浴びてくる。ルースでも片せばいつもの準備運動くれェにはなるだろ」
雪が降った日、初めてテリーと出会った日を思い出しながら、ザックは湯を沸かしていた。と、二階から電話のベルが鳴り響いた。そして、一拍開けてから一階の煙草屋のベルも重なって歌い始める。
ザックは火を消してから煙草屋の扉を開け、受話器を持ち上げる。
「はい、配達屋。――ああ、ケントさん。おはようございます」
電話の向こうはドゥーガルの側近を務めるケントだった。
昨日、リネアに対抗するために手を組むことを決めたばかりだ。急な電話にザックの背筋がすっと伸びる。
ケントは手短にと断ってから、昨夜から今朝にかけてリネアが動き始めていて、セミチェルキオがその対応に手を取られていることを説明した。リネアの動きやテリトリーへ侵攻具合からして、今日中に大きく仕掛けてくる可能性が高いとみているらしい。そのため、有事の際はすぐに協力出来るようセミチェルキオで待機してほしいとのことだった。
それに対してザックは自分たちの状況を簡単に説明し、その頼みは難しいと答えを出した。
リネアとキスタドールの関係はセミチェルキオにおおよそ伝えてあるが、自分たちがキスタドールと絡んでいる話は伏せている。今の状況も、テリーを狙ったリネアがこちらにもキスタドールを寄越したようだ、と盛大にぼかした話になっていた。
ケントは協力が得られないと分かって「分かった」と声を渋くする。何かあった時は臨機応変に動くことを互いに約束した後、その電話はすぐに切られた。
静かに受話器を置いたザックが煙草屋から出ると、シャワーを終えたテリーが廊下に立っていた。テーピングをした右腕でタオル越しに髪をかき混ぜながら、もう一方の手で玄関を指差す。
「お待ちかねのオキャクサマだぜ、ザック」
テリーがそう言うと、控えめにコツコツとノックが聞こえてきた。
ノックだけでは誰かと分からないはずだが、ザックもテリーもその主が誰だか分かっていた。招待状に書かれた時間より少し早く、本日の予約客だ。
ザックは自身を落ち着けるように深呼吸を一つし、覚悟を確認して小さく頷く。
「テリー、大事なお呼ばれだ。おめかししておいで」
そして、ザックは複雑な表情で微笑んだ。
「……大丈夫。彼女の方にはもう流されない」
苦しさや愛おしさがかき回されたような微笑みだった。
「おはよう」
「おはよう……ございます。ちょっと早くついちゃって、ごめんなさい。あの――私が、ここにいる理由は、その、分かってるんだよね」
ザックが扉を開けると、髪に雪を飾った彼女が顔を伏せてぽつりと立っていた。どこかから借りてきたのか、おんぼろの車が彼女の背後に止まっていた。
「うん、昨日は招待状をありがとう。と言っても君から手渡されたわけじゃない、か」
彼女の他には人影はなく、視界に入る範囲にも誰かがいるわけでもない。
「まだ朝飯を食べてないんだ。少し待ってもらえる? ほら、寒いだろ。中に入って」
普段通りの落ち着いた声を作る努力をしながら、ザックが扉を開けたまま道を譲る。
彼女はぽっかりと空いた通り道とザックを交互に見、泣き出しそうな顔になった。
「……入っていいの?」
「君みたいな美人さんを外に立たせてたら、ご近所さんに何してるんだって怒られるさ」
彼女は何度か瞬きをしてから、小声で「お邪魔します」と呟いて玄関扉をくぐった。
「眼鏡はどうしたの。また割っちゃった?」
ザックは彼女を招き入れながら自身の目元を指差した。
彼女は雪の乗ったコートを脱ぎながら、力なく困った笑みを浮かべる。
「目、本当は悪くないの。あれは――」
目は合わせられないまま、彼女は言葉の途中でザックの髪に気付く。
「……髪、切ったんだね」
ザックは後手で玄関の鍵をカチリと鳴らし、にこりと微笑んだ。
「俺は髪なんて伸ばしたことない」
「え?」
だってあんなに長かったのに、と彼女が思考を口にするよりも先に言葉は胃の中に落ちていった。視線も足元へ落ちる。
彼女の両足には細い影がそれぞれ巻き付き、廊下と彼女を縫いとめていた。
「――う、そ」
そのうちの一本がぶちりと千切れるように切れ、ザックの後頭部にそのまま大人しく馴染んだ。
「嘘じゃない。ほら、いつも通り。――影をずっと出してるなんて誰も思わないだろ?」
本物の髪の毛のように影を一度だけ撫で、ザックは彼女の方を指差した。細く滑らかな黒が呆然とした彼女の両手首を掴んで背中で優しく固定する。
「朝飯が終わるまでそうやって待っててくれる?」
「……あなたって、アランなの?」
彼女の震える声に、ザックは肩をすくめて頭を振った。
「アランはテリーが殺した。――俺はゼカリアだ」
【長い影】




