96 Greeting
「ようこそ、リネアへ。列車が雪崩に巻き込まれなくて良かったねぇ」
ライラが細い煙草を灰皿でひねった。灰が潰れ、乱れた紫煙が彼女にベールをかける。
「あたしがボス、ライラだ。――歓迎するよ。あんたが協力を惜しまない限りはね」
ベールの奥、真紅の口紅で三日月を作ったライラは右手を差し出した。
「条件を果たせず申し訳なかった。……キスタドールのノーマンだ。よろしく」
差し出された右手を取ったのは、慣れない寒さに鼻先を赤くしたノーマンだった。
「ふん、果たせるなんて思っちゃいなかったからねぇ。どうってことない。――で? そっちの小娘は見たことがある顔だ。直接お目にかかるのは初めてだけれど」
くつくつと笑ったライラはノーマンから手を離し、一歩詰め寄った。指先を伸ばし、彼の斜め後ろに立つモニカの顎を人差し指ですくった。
「うちの構成員共を随分と誘惑してくれたそうだねぇ。美人なだけはあるかしら? 本当なら話の一つや二つでも吐かせたいのだけれど、今日は堪えてあげるわ」
すとんと指を落としたライラが応接室のソファに腰掛けた。にんまりと笑顔を貼りつけ、目の前のソファを手の平で示す。
「座りな。――先に言っておくけれどね」
ノーマンとモニカが席につくよりも早く、ライラは口を開いていた。
「あんたたちがうちのハートルーザーに手を出してくれたことは分かってる」
「ハートルーザーに関しては悪いことをした。ただ、こちらに打診する前の動きで、あれ以降は一切勧誘をしていない。この後、話をつけて彼らからもすぐに手を引く」
抑揚が小さく、訛りのない喋り方にライラは苛立って鼻を鳴らす。
「あぁら、まだ知らないのかしら。手を引くも何も、馬鹿な裏切り者が口を割ってくれたんで殆ど取り戻した。一番の馬鹿はネイサンといったけれど重要な駒だったかしら?」
ノーマンの表情がぴくりと動く。自分たちが移動するたった二日の間にネイサンを始め構成員の隠れ家を突き止め、取り戻すような組織とは思っていなかったからだ。下の忠誠心の低さに比べ、組織中心は十分に働いている。
「ネイサン、か。――そこまで期待はしていなかったな」
ネイサンはリネアを裏切ったには違いない。しかし、ウォリアーとしてずっと戦線で活躍してきた有能な青年だ。決して無価値とは言えない彼を軽く見た発言に、ジェフリーが拳に力を込めた。ラモーナはそれを咎めるようにちらりと彼を見たが、彼女が背負う空気もぴりりと張り詰めている。
「あらそう」
ただ、ライラだけは普段通り呼吸するように口を開いた。ポケットに入れてあった煙草ケースから一本抜き取る。
「その程度の評価で良かった」
ジェフリーが煙草の先に火をつけた。
「見せしめに処分したんだ。是非貸してほしいと言われたらどうしようかと思ったよ」
紫煙が空気を歪めた。ライラはその歪みのベールをまとい、ノーマンをぎろりと睨みつけた。
「次に勝手をやってみな。その時はどんな手を使ったってあんたを殺してやるよ」
「……あなたがテレンスさんですの?」
聞こえてきた声に、テリーが顔を上げた。
ザックとドゥーガルの話があまりにも長いので、眠気覚ましに屋敷の庭に出てきていたのだ。同じ場所を繰り返して踏み歩いていたため、彼の足元の雪は茶色く汚れている。
その汚れから少し離れたところに立っているのは、ふっくらとした体つきの女だ。
テリーは返事をしなかったが、顔を上げたのを肯定と受け取った女は「こんにちは」と挨拶をした。屋敷内にいるということは構成員か飼われている娼婦かとテリーは考えたが、彼女はどちらの雰囲気もなかった。
ぼんやりとした輪郭しか捉えられない中、彼女と目が合った気がした。同時に足元が揺れるような感覚が彼を襲う。なんだ、と眉間に皺を寄せると同時、彼女の背後に影が立ち上がっているのが分かった。ゆらりゆらりと揺れながらそれが近づいてくる気がして、テリーは視線を振りほどいて後ろへ下がる。
「……誰だ、お前」
女が目を伏せ、スカートの端を摘んで改めて会釈をした。
「マーセイディズと申します。――随分と目が悪いのですね。この距離で逃げられる方は初めてですわ……」
ぼそぼそと雪のように静かな声に、テリーはぞっとしてさらに距離を開けた。
ザックに言われていたことを思い出す。マーセイディズの影は直接心にまとわりつく、と。一度影にまとわりつかれれば、その影が望む通りに思考から操られてしまう、と。
「――キスタドール!」
名前と記憶が完全に結びついたテリーが吠えた。
感情の亡骸である影は実体を持つ以外に、稀に特殊な能力を持っているものもある。ドゥーガルの憂いの影が他人の影を支配する力を持つように、マーセイディズの楽しさ影もその一種――ただ、四大感情は実体としての能力も高く、規格外である――だ。
「あら……。私のことを知ってらっしゃるの……?」
おっとりとした調子でマーセイディズは両手の手袋を外し、小さなポシェットに丁寧に仕舞った。露出した肘下にある円が幾つも散らばったゲートから大量の影がこぼれ落ちる。まるで真っ黒な水たまりにマーセイディズが立っているように見えた。
テリーが拳を握る。ザックを呼ぶべきかと悩んだが、その考えをすぐに棄却する。
「そろそろおいとましますわ。……支配できないようなら撤退するよう言われていますから……。それに、あなたと必要以上に接触するとルースさんが怒りますの……」
マーセイディズはテリーの張り詰めた空気に気付いていないのか、無視しているのか、のんびりと自分のペースでここを去る理由を述べる。
「ああ……それと、ノーマンさんからの伝言があります……。明日、改めて招待状を出しますわ。――アランさんにも来て欲しい、と」
テリーが黙ってマーセイディズに殴りかかった。しかし、黒の水たまりに足が生え、にゅっと伸びて彼女を押し上げた。そのまま、彼女は一歩も動かず、影によって屋敷の屋根へ移る。
空を切った拳に、テリーが舌打ちをした。
「アランは僕が殺した! 会いてェなら勝手に死にやがれ! クソ野郎にはちゃァんと伝えろよ、ボケ!」
マーセイディズは伝言を受け取ったとでも言うように丁寧に頭を下げ、再び影に乗って彼方へ消え去った。
「テリー! どうしたの!」
テリーの大声に気付いたのか、ザックが大慌てで庭に出てきた。
「屋敷のいろんなところで、みんな、気絶してて――何があったのかと……」
「――マーセイディズが来た、つったら何があったか分かるか、くそったれ」
それを聞いたザックは顔色を悪くし、屋根の上を睨みつけているテリーを倣って同じ方向を見た。
「……テリー、目は見てない? 影には触られてない? 気分は?」
「うるっせェ。なんともねェよ。――ただ、超絶胸くそ悪ィ」
「……それなら、良かった」
険しい表情になったザックが下唇を噛んで俯いた。そんな彼の胸に、テリーが拳を押し当てる。
「そんな顔すんな。てめェのために僕がいるんだぜ」
【やってくる】




