90 Quistador
「どうでしたか」
マーサが尋ねると、クレアは笑みに苦いものを僅かに混ぜた。
「列車、動くみたい。ザックとテリーによろしくね」
クレアが起きた時には、隣のベッドは空っぽだった。彼らの半乾きの服と「服は洗って返す」というメモだけが寂しく残っている。
「……テリーにさよならって言いそびれちゃった」
「おはよう、ネイサン。寝起きで悪い。だけど、早く目を覚ました方がいいんじゃない?」
にっこりと朝の挨拶を済ませたザックが寝ぼけ眼をしたネイサンへひらひらと左手を振った。右手には銃を持ち、彼に向けている。
「さあ、何を企んでいるのか、全部吐いてもらおうか。――テリー、片付けを頼んだ」
ザックが言い終わるよりも早く、テリーは寝起きの混乱にいる男たちに飛び込んだ。
「はッ! とっとと言わねェと喋るお口がなくなっちまうぜェ!」
「マーシー、調子はどうだ」
淡々とした声に反応し、動かない表情を持ち上げたのはマーセイディズだった。
マーセイディズ。愛称、マーシー。
四大感情の一つ、楽しさを亡くしたハートルーザーである彼女は「別段、何も……」と無気力に呟く。何かを楽しむことをすっかり亡くした彼女はつまらなさそうな顔で窓の外へ顔を向けた。ぼさついた長い黒髪は昨日結われたままで、指を通せばギシギシと音を立てそうだ。黒い瞳には影が入り、何を映しているのかも分からない。
「アハハハハ! そんなこと聞いたってマーシーは毎日毎日おんなじことしか言わないヨ! ノーマンも飽きずによくやるヨネ!」
そのマーシーと向かい合う位置に座っていたルースは机の上に乗せていた踵を勢い良く床へ下ろした。ずれたニーハイソックスを人差し指と親指で摘んで持ち上げる。
「健康管理に興味がないのなら俺が面倒を見るのか当然だ」
そう答えたのは壁際にある机に資料を広げたノーマンだった。
ノーマン。
キスタドールのトップに立ち、ルースやマーセイディズだけでなく所属するハートルーザーたちに指示を出すのは彼の仕事だ。力仕事とは全く縁がなさそうな細く白い指で、広がっていた付箋だらけの地図を畳む。四大感情である喜びを亡くした彼は、硬い表情がこびりついた顔を上げてルースを見た。大きくはっきりした茶色の瞳の下には取れない隈が張り付き、そのせいか整った顔はいつでも不機嫌に見える。
「お前の調子はどうだ、ルース」
「元気すぎて調子狂っちゃうヨ!」
踵に体重を乗せて立ち上がったルースは空いたスペースでくるりと回る。
「あーア! 下っ端を行かせるなら俺様がテレンスをぶっ殺した方が早いのにナ!」
「殺すのが目的ではないんだ。ゼカリアを殺せとは指示されたが、テレンスには手を出すなと言われたのを忘れたのか」
くるりくるりとご機嫌に踊りながら、ルースは机を挟んでノーマンの前へ立つ。
「面倒くさいナ。あんなのと手を組む必要ないんじゃなーい? モニカも結構引き抜いたんだし、残りを奪うにしてももう知れた数だヨ。ノーマルは邪魔になるだけだしサ!」
ルースがばんっと勢い良く机に手を突くが、ノーマンはも動じない。
「しょぼいハートルーザーなんかが戦うくらいなら俺様がその分戦ってやるヨ!」
「リストを見る限り、まだハートルーザーは多い。まとめてハートルーザーを手に入れるには願ってもない好条件の組織だ。手に入れるまで我慢していろ」
ノーマンのつれない態度にルースはげらげらと大笑いし、机にある資料の一枚を引き抜く。そこにはセミチェルキオとリネアに属するハートルーザーの名前が乗っていた。
名前の横にはチェックが入っていたり、打ち消し線が引かれているものもある。
「セミチェルキオのハートルーザーは尽く殺してるじゃないノ。ぜーんぜん引き抜けてないゼ! リネアの方は……ちょろいナア! アハハ! 結束力がないっていうノ?」
線を引かれた名前の殆どがセミチェルキオ側のリストだ。逆に、リネアにはチェックが入っている名前が多い。
「その結束力があるセミチェルキオのハートルーザーを手に入れるのが目的だ。――自身の組織をすぐに裏切るような奴らより遥かに強くなる」
ノーマンが立ち上がり、ルースの手からリストを奪い取った。リストの一番上、チェックの入ったネイサンの名前をなぞる。
「――こういう、真っ先に裏切るようなやつは信用出来ない」
「アハハハ、アルみたいにイ?」
笑うルースに、ノーマンは肯定も否定もしなかった。ただ、ちらりと彼女を見やる。
「……マーシーの影で従えたとしても、支配が解けやすいしな」
「それで真面目で忠誠心の強かったモニカが便利なんだもんネ! アハハ! かつての敵に操られて、用済みになったら殺されるなんて! あア! 可哀想なモニカ!」
ルースが楽しそうにステップを刻むと、ツインテールが軽やかに揺れる。陽気なダンスでマーセイディズの後ろまで移動した彼女は、相変わらず外をぼんやりと見ているマーセイディズを上から覗き込んだ。
跳ねるような声がすとんと沈む。
「なア、マーシー。モニカが駄目んなったら俺様に譲れヨ。俺様が殺すんだからサ」
「お好きにどうぞ……。私、彼女に興味も愛着もありませんの」
マーセイディズはルースには一切目を向けず、空の雲が流れていくのを見ていた。大きな塊が二つ、三つと分かれ、形を崩していく。
ルースは暫くマーセイディズの真顔を眺めていたが、それにもすぐに飽きた。彼女が座る椅子の背もたれに手を突き、ぴょんぴょんと兎のように飛び跳ねる。
「アハハ! モニカも早く戻ってこないかナ! そのゼカリアってやつもさっさと死なないかナ? あア! 俺様が行ったらあっという間に殺してきてやるのに! 相棒を目の前で殺したら、テレンスはどんな顔するんだろうナ! 想像するだけで楽しいヨネ! あのテレンスの相棒かア! ひと目でも見たかったナ! アハハハハ!」
椅子に手を突いたまま跳ばれ、マーセイディズの体が揺れる。しかし、彼女は相変わらず雲を見上げていた。
「ゼカリアが死んで、リネアと手を組んだら――! そオしたら、今度こそテレンスと戦える! アハハ! 全部吐かせて、ゆっくり殺してやる! あア、どうやって殺せば楽しいかナ? ――そオだ、マーシーもテレンスと戦えば楽しくなるかもヨ」
「興味ありませんわ」
マーセイディズのつれない返答を無視したルースは子供のようにはしゃいで笑う。そして、壊れた人形のように動きをぴたりと止めた。
服の下へずるりと手を入れ、幾つも出来た傷の一つをなぞる。
「――まずは、同じだけ穴を開けてやるヨ。テレンス」
「お喋りご苦労さん、サンドバッグちゃん」
ご、とテリーが踵を落とすと、倒れていたネイサンが蛙を潰したような声を出して白目を向いた。
「急いでマーサに連絡しよう。――黒だとした時点で覚悟なんてとっくに決めてるんだ」
「ああ、マーサ! 朝はありがとう。でさ、クレアさん、まだそこにいる? ――ああそう、列車が。はあ、逃げられたかな。これが良いことなのか悪いことなのかは分かんないけど。――うん? ああううん、ちょっとこっちで調べたことがあってさ――」
【キスタドール】




