88 Crack A Smile
ザックとクレアたちが情報を交換し合うと、ずっと黙っていたテリーがおもむろにマーサに近づいて腕を引っ掴んだ。ベッドに座っていたマーサが驚きの表情のまま立ち上がると、彼は彼女を軽々と抱き上げる。
「話は終わりだろ。――じゃ、僕はマティとイイコトして寝るからァ。後はお好きにィ」
「ちょっと! テリー! やだ、馬鹿ッ!」
マーサの抗議は聞き入れず、テリーは仏頂面のまま彼女を担いで部屋から出て行ってしまった。マーサが何度も訴えているのが廊下から聞こえるが、段々と小さくなっていく。
突然のことにぽかんとしていたザックとクレアがぎこちなく顔を見合わせる。
「……また戻ってくる、よね?」
「たぶん、戻ってこないと思う……。――君ってどの部屋に泊めてもらってる?」
「……マーサちゃんの部屋」
ザックが思い浮かべていた答えが正解だと分かり、彼は額を押さえた。「テリーめ」と呻き、彼女が座っているベッドの隣を指差す。まだ誰も座っていないためシーツがぴんと張っている。
「君はそっちで寝て」
呻き声の延長線上に出てきた言葉にクレアが理解に一拍時間を空けた。
「えっ! で、でも、その、私が隣で――!」
クレアの大慌てする声に笑いながら、ザックは今度は扉を指差した。
「俺は適当に教室で椅子でも並べて寝る。一緒に寝たいならそうしようか?」
同じ部屋、すぐ隣のベッドで寝ることを想像していたクレアは、顔をかあっと赤く染めた。それを隠すように慌てて立ち上がり、綺麗なベッドの方へ両手を向ける。
「ザ、ザックとテリーにって空けた部屋だし、その、ザックもあまり寝てないんじゃない? すごい隈だし、やっぱり、ほら、ザックが寝るべきだと思う! 私、一晩くらい椅子で寝たって全然平気だし、その、最近、風邪も全然ひいてない健康体だし!」
一気にまくし立てたクレアが「それじゃ!」とダッシュで部屋を出て行こうとするので、圧倒されていたザックは大慌てで彼女の手を掴んだ。
「待って待って。いいから、君が使って。俺こそ平気だし」
「私だって平気だから……」
もごもごとクレアが異議を唱えたが、ザックは聞こえないふりをして、クレアの手を引いた。
彼女が引っ張られるがままにベッドに腰掛ける。
「……私、本当に平気だし、これくらい寒くたって――へっくし」
「可愛いくしゃみ。寒いんじゃない? それとも風邪?」
ザックの呆れたようなそれでも意地悪な声に、クレアは一度だけ鼻をすすって「偶然出ただけ!」と居心地悪そうにそっぽを向いた。
分かりやすく表情が動くクレアから目を逸らし、ザックもベッドへ腰掛けた。二人の間にある寂しい空間からも視線を外し、背中を丸めて太ももに頬杖を突く。
「そういえば、事故に巻き込まれてなくて良かった。心配してたんだ。――電話、かけ直せなくてごめん。リンジーさんから話を聞いて、何度も後悔した」
「ううん、気にしないで。……朝一の列車に乗り損ねちゃって、次を待っていたら事故が起きたって駅員さんに教えてもらったの。これで運を使い果たしちゃったかもね」
苦笑したクレアが指に毛先をくるくると巻きつける。
「あのね、さっきは怖くて言えなかったんだけどね」
「うん? テリーを怒らせるようなこと?」
一本の毛先が二つに分かれているのを発見し、クレアはその先をぶちりと切った。別れた毛先が落ち、床に紛れて見えなくなる。
「ううん。テリーは喜ぶかも」
寂しそうに笑ったクレアが髪から手を離し、その細い指先を自身の太ももの下へ差し込んだ。
喜ぶかもしれない。
だから、怖い。
「列車ね、予定通りなら明日に動き出すんだって。――今日、二人に会えて嬉しかったし、ちゃんと笑ってお別れも言えると思ったんだけど……。テリーには嫌われたままなんだと思うと、なんだか、悲しくて」
伝えた時、テリーが嬉しそうに笑うんじゃないかと、怖くて。
滲んだ涙が玉を作って顎をなぞり、ぽたりと太ももに染み込んだ。
「向こうに戻ったら、もう会えないだろうから、余計に。……せっかく、お喋りも出来るようになってきてたのに」
クレアがザックに背を向けるように、体をひねった。零れてしまった涙を拭おうと両手で眼鏡を外したが、その涙を拭ったのは彼女の細い指ではなかった。
ザックは手の平でクレアの頬を押さえるようにして、涙の跡に触れる。
「――ごめんね。その、私、泣くつもりなんて、なかったんだけど……」
クレアが涙を溜めたまま笑うと、目の端から押し出された雫が滑る。
ザックがそれを親指でなぞると、クレアがふるふると頭を振った。ザックの手が離れ、クレアは自身の指で目元を拭う。化粧が滲んだ。
「大丈夫。本当に大丈夫なの。明日はちゃんと笑ってお別れするし、――もしかしたらまた雪が降って列車が動かなくなっちゃうかもしれないし」
例年より少ない雪は空を雲で覆うこともなく、今夜も冷え切った氷のような星を散りばめている。
ザックは下唇を僅かに噛んで、クレアとの間にあるスペースを埋めるように体を寄せた。身を引くクレアを引き止めるように優しく手を取り、意識して笑う。
「――最後になるなら、言っておこうかな」
クレアはたっぷりと潤んだ瞳で、ザックを不思議そうに見上げていた。官能的にも見えるそれにザックは唾を飲み込むが、衝動は内に秘めて目を伏せる。
「君が、好きだ」
細くて折れそうな指が、ザックの手の中で戸惑うように動いた。
「――もし、君が、……嫌じゃないなら」
ザックが手を離す。クレアは手を引いたが、距離は取らなかった。優しく大きな男の手が頬に触れ、クレアは唾を飲む。
「私……ザックのこと、嫌いじゃないし、その、ザックもテリーも好きだけれど、そういう意味じゃ、たぶん、なくって……ええと――」
「うん。ありがとう」
手が触れていた頬の反対側に、唇が触れた。
親密な挨拶にしては、甘く、切ない感触で。
すんなりと離れていくザックへ、クレアは両手を伸ばしてゆっくりと体を傾ける。
クレアの膝から、眼鏡が落ちた。
「おはよう」
ザックが部屋から出ると、廊下にはテリーが立っていた。
まだ朝日が顔を出さない廊下はきんと冷えていて、二人の口からは白い息が浮かんでいる。
「よし、行こうか。よく眠れた?」
「さァな」
空気の冷たさはこの場の全てを凍らせているように静かで、二人の声がやけに透き通ってみえた。
誰も起きていない、晴れた暗い朝。ザックとテリーは誰にも告げずにズワルト孤児院の外へ出た。
凍った道が、音をたてる。
「テリー」
「んァ?」
氷のひびが、足元から広がっていく。
「黒と決めて動く。――彼女、ハートルーザーだ。太ももにゲートがあった」
ひびが、砕ける。
テリーは鼻を鳴らし、首を傾げた。右頬が吊り上げる。
「はッ。なァに。最後の記念に脱がしてヤッたかァ?」
氷の破片を、ザックは踏み壊す。
そして、微笑する。
「――さあ?」
【ひび割れる】




