85 Comfort Zone
ザックは持っていた鍵を植木鉢の下に隠し、立ち上がった。触った形跡を隠すために全体の雪を散らし、先程までいた倉庫を振り返る。その冷たい扉にテリーはもたれてしゃがみ込み、ぐったりと俯いていた。
「テリー、大丈夫? 動ける?」
夕日はすっかり沈み、周囲の窓からは灯りが漏れている。
「んェ、吐きそォ……」
昨日の大暴れの末、サングラスを紛失したテリーは金色の瞳を夕闇に晒しながらなんとか立ち上がる。
ジョイントの開放感も安定剤の効果も消えた後、残ったのは幻聴と幻覚、そして吐き気に頭痛だった。テリーは最悪の気分を潰すように拳を握る。血を大量に吸って固まったバンテージから赤褐色の欠片がぱらぱらと落ちた。
「もう少し耐えて。――地下に潜ったら幾らでも吐いていい」
ザックが血の破片を雪と泥で隠しながら、浅く早い息を続けるテリーの背中をさすった。他の誰かがいないかを気にしながら、背中を押して歩き始める。
「……あんなとこ、こうでなくたって吐いちまうぜ、くそったれ」
ぐらぐらと動き出したテリーが今から潜るところを思って顔をしかめた。
ズワルト孤児院の裏庭に通じる扉を開けたのはマーサだった。彼女は身に凍みる寒さに一度震えたが、壁際にある薪小屋へ向かった。薪に雪はかかっていないが、空気の冷たさは変わらない。真っ白な息を吐きながら薪の束を抱え込む。
薪を抱えたマーサが室内へ戻ろうとした時、ばさりと何かが落ちる音が背後から聞こえた。屋根の雪でも落ちたのかと振り返ると、そこには高い塀を乗り越えてきたテリーの姿があった。
突然のことに、マーサは薪を全て下へ落とす。
「――テリーッ!」
「うるっせェ! 近づくな!」
声と共に駆け寄ろうとしたマーサを制したのは、テリーの怒声だった。重く腹に響く声に驚き、その場で硬直する。
テリーは動きを止めたマーサを見て表情を引きつらせ、もごもご「悪ィ」と唸った。そして、彼女から視線を外し、すぐ後ろの裏口の鍵を内から外す。それを待っていたかのようにザックがするりとこちら側へ入り込んできた。テリーが怒鳴ったのが聞こえていたのか、鍵をかけなおしてすぐにテリーとマーサの間に身を滑り込ませる。
「ごめん、事情は後で話す。ちょっといろいろあって。――温かい飲み物をくれない? あと、シャワーも貸してほしくて」
ザックが手を後ろに回し、テリーの腕を掴んだ。
浅い息を何度も繰り返すテリーが「あと、予備のサングラス」と注文を付け加えると、マーサはこくりと頷いた。薪を放置したまま孤児院への扉を開く。
「中へどうぞ。う、……先にシャワーの方が良さそうですね」
マーサはすれ違った二人の匂いに顔をしかめた。何とも言えない、雑巾を湿気ったまま放置したような匂いに加え、テリーは室内の灯りにさらされて大量の血痕をまとっているのが見えた。
ザックは自分たちの状態に生気のない笑みを浮かべる。
「ごめん。すぐ近くまで下水道を通ってきたんだ。誰にも見つかりたくなくて」
「いえ、大丈夫です。すぐにお湯を用意するからシャワールームに行って。……その、テリーは大丈夫?」
うるさいと怒鳴られたからか、マーサはテリーではなくザックへ尋ねる。
しかし、ザックは僅かに笑うだけで、答えを差し出さなかった。
テリーよりも先にシャワールームを出たザックは、そのまま扉にもたれかかった。
シャワールームには幾つもシャワーが設置されているが、今は広いそこにテリーしか入っていない。本来ならザックもゆっくりと熱いシャワーを浴びて気分も温めたかったが、早々にそこから脱していた。何かあった時に動かなければならない、とざわつく心を押さえ込むように腕を組む。
着替えの服はマーサが男性スタッフから借りてきてくれたものだ。血や汗、下水道独特の匂いがぎゅっと染み込んだ服は洗ってもらっている。
乾く前に出ていくことにならなければいいのに、とザックが考えながら目を閉じた。
「――ああ、ザック。もう出たの? しっかり温まった?」
ザックが立ったままうとうとしていると、様子を見に来たマーサの声で目覚めた。何度か瞬きをしてからぼんやりと微笑む。
「うん。ありがとう」
「とりあえず、院長と最低限のスタッフ以外には急なお客様と言って二人のことは伏せてあります。いつもの部屋を開けておいたから、テリーが出たらそこを使ってね。ちょうど子供たちも夕食の時間だから今のうちに部屋に入っちゃえば見つからないと思うし、服は暖炉の近くで乾かしてもらえるようお願いしておきました。あと、これ」
マーサが差し出したのはテリーのサングラスだった。何も事情を聞かずに必要なことをしてくれるマーサに感謝しながらザックはサングラスを受け取る。
「……ねえ、テリーの右腕。ギプスってもう外れるの?」
「本当言うとちょっと早い。だけど、腕を吊ったままでいる方が不安だったみたい。後でテーピングを貰えないかな。一応、少しでも固定しておきたくて」
テリーの性格を重々承知しているマーサは呆れたような息をつき、「後で持ってきます」と苦笑を添えて頷く。そして、彼女は少し考えてから話を変えた。
「……あの、実は」
マーサがシャワールームのテリーを気にするよう扉を見た。水音はいつの間にか止まっている。
「クレアさん、今ここにいるんです。列車が動きだすまでは部屋を貸していて」
予期せぬ名前にザックが瞼をぐっと持ち上げた。
「クレアが? ――ああ、良かった。無事だったんだ……」
ザックのほっとした声にマーサが微笑んで頷いた。
「二人に連絡がつかなかったってずっと気にしてたんです。クレアさんにも二人がここにいることを伝えても大丈夫?」
すぐに肯定を返せなかったザックが悩むように目を伏せると、後ろの扉が動いた。慌てて背中をどけると、テリーが姿を現す。目は閉じたままだが、まるで見えているかのようにザックの隣へ立つ。
「あんの馬鹿女、死んでなかったのかよ」
「テリー、そんな言い方!」
ザックが声を抑えて叱るが、テリーは鼻を鳴らすだけで反省した様子はなかった。
そんなテリーの様子を見ながら、マーサは不安を浮かべてザックを見上げる。
「それと、詳しくはまた話しますけど、今朝はハルも二人を心配してこっちに来てくれて。後で連絡だけでも入れていいですか」
「ハルにでも馬鹿女にでも、言いてェなら言えばいいだろ。僕は構わねェぜ」
テリーの投げ捨てるような言葉に、マーサは気まずそうに視線を彼に向けた。ザックはため息をついて、テリーにサングラスを手渡す。
「二人とも伝えて。ただ、クレアが会いたいって言っても……少し、テリーが落ち着いてからにしてくれる?」
尖った空気をかろうじて包む優しいザックの声にマーサは少し安堵しながら頷いた。
「分かりました。――飲み物を持っていくね。少しでも休んで」
【安全地帯】




