79 Trigger Of Relief
ザックは顎を砕く衝撃がこないと気付いて、薄く目を開いた。僅に通る空気を必死に飲み込みながら、拳の行方を探す。
先刻まで拳を振り上げて反っていたテリーの背中が丸まっていた。その下がった肩から腕へ、肘へと視線を滑らせていくと、拳はザックではなく真横の地面に押し付けられているのが分かった。
「テ、リー……」
殆ど音の出ない呼びかけに、テリーがぎくりと体を反応させた。同時にザックの首を掴んでいた指から力が抜ける。
ザックはその機を逃さず、テリーの手を振り払った。咳き込むようにして、体に空気を巡らせる。
「げほっ! テリー! 俺だ! 分かってるんだろ、やめて!」
喘ぐような懇願にテリーが地面に押しつけていた拳をほどいて、両手の平をザックの顔の横へ突いた。覆い被さるようにして、彼は眩しそうにそろそろと瞼を持ち上げる。
「――止め、て」
掠れた願いを零したテリーは、曲げていた背をぐわりと伸ばす。再び目を閉じた彼は息を荒くしながら指を曲げて関節を鳴らした。
「あれ。外れ、たなァ……。あは、は。次は外さねェ……! 殴らせろよォ!」
ザックがズボンのポケットに手を突っ込み、ピルケースを掴もうと身をよじる。しかし、テリーの膝が邪魔で指先に触れるそれが取り出せない。
「テリー! そこを、どいてッ!」
ぺったりとザックの胴に座り込んでいるテリーはけらけらと笑いながら、左手をザックの目の前に伸ばした。人差し指と中指を伸ばし、まるで銃を模すように。
「ざ、く――たすけて」
その手で、テリーは指を鳴らした。パチン、パチン。
次の瞬間、ザックは舌打ちをして一気に影を吐き出した。地面から立ち上がった影がテリーを突き飛ばし、ザックも慌てて体を起こす。
「くそッ! 言われなくても助けてやるさ! 手荒でも文句言うなよ!」
ザックは周囲に誰もいないのをざっと確認し、尻もちをついて何かを堪えるように耳を塞いで背中を丸めているテリーを指差した。足元を蠢く影がそれに従って彼へ伸びる。
伸びた影がテリーを掴む寸前、彼はそこから飛びのいた。目を閉じた彼は大笑いをしながら「面白くなってきたァ!」と勢いよくザックに向かってくる。ザックはそれを影の壁で防いだが、テリーは出来た死角を利用してすぐに回り込んで来る。
テリーのブーツがザックの腹に埋まり、体がくの字に曲がって大きく下がった。背中が後ろの壁にぶつかって唾液が散り、目を白黒させる。それでもなんとか影を消さないよう維持し、テリーに距離を取らせようと影で前方を薙ぎ払う。しかし、彼はそれを容易に飛び越え、影の内側へ入り込んできた。そして、腹を押さえたザックへ拳を握って狙いをつける。ザックは自分に被さるように盾を立ち上げようとしたが、相手が相棒である躊躇いが僅かにそれを遅くさせた。
駄目だ、とザックが唾を飲む。
何が駄目なのか。彼自身も理解出来ないとても長い一瞬の後、ザックはぎゅっと眉を寄せて顔を歪めた。
「テリー! いい加減にしろ!」
殴る場所を咄嗟に変えたのか、テリーの拳はザックが背を預けている壁にぶつかっていた。壁を思い切り殴ったテリーが、ふーふーと肩で息を繰り返している。
ザックはその伸びた手首を掴み、もう片手でピルケースを開けた。幾つかの錠剤が零れ落ちたが、気にしている余裕はない。
「もうやめろ! 落ち着け!」
「あァ! なんで! 殴れば、気持ちいいだろォ! 知ってんのに! ああァッ!」
手を振りほどいたテリーが両耳を押さえ、ふらついて下がった。何かを追い払うように頭を振っている。
「頭、痛ェ……! なんで、なんでェ! 殴りてェの! 殴りてェ殴りてェ殴りてェ! 殴らねェと、殺さねェと! 僕が、僕が殺さねェと! 銃声が、聞こえて――! ボスが――!」
ぐらぐらと下がっていくテリーの背が、ザックが予め用意していた影に触れた。その瞬間、影が反応してテリーの両腕に巻きついて彼を地面へ引き倒す。受け身を取れなかったテリーが後頭部を地面にぶつけて短い悲鳴を上げた。
「そんなに殴りたいなら自分でも殴ってろ!」
先程とは正反対に、ザックがテリーにまたがった。テリーの膝が暴れているが体重で必死に押さえつける。腕は影で押さえているが、混乱した彼が腕のことを気にして動くはずがない。
これ以上影は使いたくないとザックは顔を歪めながら、薬を飲ませるために右の親指を彼の口の中に差し込んだ。その親指に思い切り歯を立てられ、奥歯に力を込める。
「君が噛むのは、俺の指じゃなくて、こっちだろ! こんのッ――大馬鹿野郎ッ!」
口の端から錠剤を落とす。すぐに指を抜きたいが、テリーが噛み付いたままで親指が抜けない。ザックは舌打ちをし、テリーのショルダーホルスターに収まったままのグロックを影で抜いた。
「テリー! 口を開けろ! 薬を、噛んで、飲み込めッ!」
左手に持ち直したグロックをテリーの口元に当てる。しかし、彼はいやいやと首を振って指を離さない。
「テリー! 撃ち殺されたいか!」
銃の端を歯に引っ掛け噛ませ、ようやく出来た隙間から指を引っこ抜いた。垂れた血を気にする間もなく、次いでグロックも引き抜いて遠くへ放り捨てる。
テリーが薬を吐き出そうとするので、口と鼻を手で塞ぐ。「噛んで、飲み込め!」と言い聞かせると、彼は暫く抵抗したものの喉を上下に動かした。
なんとか薬を飲ませることに成功したザックがようやく指の痛みに気付いた。痛みがずきずきと脈打ち始める。
テリーはまだ暴れようと身をよじって叫んでいるが、そのうち体に力が入らなくなり呂律も怪しくなってくるはずだ。
ザックが何度か深呼吸を繰り返したところで、道の向こうからシルヴェスターの声が聞こえてきた。ザックは影で押さえていたテリーの両手首に自身の手を重ね、ぐっと体重をかける。そして、影を消し去った。
「ああァ! 殴りてェのォ! 足りねェのォ! もっと、もっと、薬、欲し――!」
「馬鹿言うな! 俺が飲ませた薬で我慢してろ!」
体重をかけながら、そうしているうちにもテリーの抵抗が弱くなっていることに気付く。なんとか影を使わずとも押さえ込んで息を吐く。
暫く変わらないやり取りを繰り返していると「……大丈夫か」とシルヴェスターの控えめな声が聞こえた。
ザックがちらとそちらを見て苦笑で頷く。と、その僅かな隙間、力が緩んだ。
テリーが彼の手を払い、両手で突き飛ばす。そのまま尻もちをついたザックに覆い被さった。
シルヴェスターが大慌てで近寄ってくるが、ザックは制す。
「大丈夫、薬が効いてきてる。……だけど、一応、スライさんはまだ離れていて」
そう言ったザックは頬をぺちんと顔を叩かれ、視線をテリーに向けて微笑する。
シルヴェスターはその様子を見て体の力を抜き「……落ち着いたら声かけな」と、誰もこちらへ来させないため、袋小路の入り口の近くで見張りをしに行った。
「……殴りてェの。殴らせてェ……」
「その程度ならいくらでも」
テリーがザックの背中に腕を回す。力の入らない手で彼の背中を何度もぺちぺちと叩き、最後にぎゅっと服を掴んだ。体重を預け、首元に顔を埋める。
「んァ……。あれェ……? いい、匂い……」
「そう? ありがと。――テレンス、少し、眠ろうか」
そっとザックが囁いて、真横にあるテリーの頭を優しく撫でた。テリーの手から完全に力が抜け、すとんと落ちる。体がぐっと重くなる。
「……アラン……。僕の、側にいてェ……」
もごもごと滑舌の悪い声を聞きながら、ザックは頷くことも出来ず「テレンス」と優しく名前だけを呼んだ。
「いなく、ならないでェ……」
そのまま眠りに落ちたテリーに、ザックは小さく「アランじゃなくて悪かったな」と苦笑して、側頭部を軽く彼の頭にぶつけた。
【安堵】




