77 Small Trigger
「よォう、ライラ。遊びに来てやったぜ」
ライラの部屋へ通されたテリーは鼻から頬にかけた傷跡を親指でなぞった。彼女の後ろには普段通り、側近のラモーナとジェフリーが控えている。
「ああ、可愛いテリー。異物を連れないで来るなんて初めてじゃないかしら」
くつくつと笑ったライラが装飾過多の椅子から立ち上がった。細く鋭いヒールが柔らかな絨毯に沈む。
「それにしても右腕が使えないと聞いていたんだけれどねぇ?」
「うるっせェ。使えねェもんぶら下げて持ち歩く趣味はねェよ」
テリーが僅かに佇むジョイントの香りに緩く頭を振った。ライラやその周囲を固める人間はジョイントを含めドラッグには手を出していないはずだが、使用している者の残り香が彼の中をじわりと侵していく。
「それで? 今日はなんの用かしら?」
テリーは眼前まで迫るライラを睨め上げる。女ボスが似合う年齢ではあるはずだが、彼女は化粧か表情か、年齢を惑わせる術を持っているようだった。派手な化粧にあどけない表情を浮かべたかと思えば、ぐるりと地に落ちて色をつけた声を出す。
「あたしに直接会いたいなんて、素敵な口説き文句を使ってくれるじゃないか」
「……ザックに手を出した馬鹿がいる」
「あら、そいつは物騒だねぇ。でも、珍しいことじゃないだろ」
ライラが細い指を口元に添え、にんまりと口元を歪めた。
「問題はその馬鹿に吐かせた内容だぜ。――馬鹿の組織はこの町のどこかと手を組もうとしてる、だとよ。で、その手を組む条件に相棒ちゃんの命を差し出した」
ライラがテリーのワークキャップのつばを指ですいと押し上げる。絨毯にワークキャップが落ち、彼女の鋭く整えられた爪が彼の輪郭を冷たくなぞっていく。
「別にリネアがその条件を出した組織だとは言わねェ。証拠も確信もねェし、……セミチェルキオだってあるし、小せェグループならそこら中だ。――ただ、今後、僕らの近くにリネアの影が少しでもちらついてみろ」
テリーが左手をポケットから出し、ライラの手を弱く払った。明るい茶色をした彼女の瞳をまっすぐに見返す。
「その時は容赦なくぶっ潰す。勘違いされたくねェなら、暫く僕らに近づくんじゃねェ」
ライラは払われた手を愛おしそうに撫で、口元だけで笑った。真っ赤な口紅が弧を描き、頬のゲートが持ち上がって歪む。
「ふふ、神経質なこと。そのセミチェルキオにも同じ警告をしたのかしらねぇ?」
「配達屋は中立だ。リネアの敵でも味方でもねェ。これは僕ら自身を守るための対策だ」
テリーの淡々とした、普段ならザックが言いそうな台詞にライラはあからさまに機嫌を損ねて鼻を鳴らした。彼の長く鬱陶しい前髪にふうっと息を吹きかける。
「――もしも、その組織と手を組んでるのがあたしらだったとして」
臙脂の絨毯へ沈んだ紺のワークキャップを、彼女のつま先が踏みつけた。
「あんたがあたしのものになったら手を引いてザックの安全も保証する――だなんて言えば、あんたはあたしの元へ落ちてくるかしら?」
ライラの歪んだゲートから影が落ち、テリーの足首を掴んだ。しかし、テリーは微動だにせず、彼女から視線を外さない。
「薬漬けになってくれるならとでも言えば、あんたはあたしのものになるのかしらねぇ?」
テリーは肺の奥深くへ空気を押し込み、右頬を吊り上げた。
「は。誰がお前のものなんかになるかよ、ボケ。僕はザックのものだぜ」
静かで攻撃的な声を、ライラは大声で笑い飛ばす。
「ははは! やっぱりあんたはそうでなくちゃねぇ! だからこそ奪いたくなる。――ああ。ようやくセドリックが死んであんたが崩れると思ったのに」
ひくりとテリーの表情が動く。
その歪みを正すように、ライラは両の手で彼の頬を包んだ。彼が上体を後ろへ引いたが、それを追いかけて腰を曲げて顔を近づける。
「面白くないよ、本当にね。あの異物だってあたしの邪魔をする!」
唇が重ねられ、テリーがぐっと唇を固く締めた。ライラに柔らかく唇を食まれ、彼女のたっぷりとした胸を腕で押して身をよじる。しかし、足を影に掴まれた状態では後退することも出来ず、唇の奥で歯を食い縛る。加えて、ジェフリーが銃を抜いてラモーナも首のゲートから影を吐いたので、下手な動きが出来ない。
熱い舌がどろりと唇を割る。それ以上の侵入は許さないとテリーが体に力を込めて意識を目の前のライラだけへ向けた瞬間、ラモーナの影が縄をかけるように彼の首に巻きついた。そのままぐいと彼を引き倒す。強制的に離された唇から生ぬるい唾液が糸を引き、切れて顎に落ちる。
背中から勢いよく絨毯に倒され、テリーは一瞬だけぐっと息をつまらせた。
「――ライラァ! どォいうつもりだァ、くそったれェッ! 年増とイイコトする趣味はねェぞ、ボケ!」
ライラはくつくつと笑いながら吠えるテリーの腹にまたがる。足をライラの影に、首をラモーナの影に固定されても、彼は隙さえあれば噛みついてきそうだった。
「油断したね、可愛いあたしのテリー。あのジジイは死んだってのに、あんたにこんなにも隙を作らせる。ああ、そんなあんたを得たザックが羨ましい」
ライラを引っかこうとしたテリーの右手をラモーナの両手が掴んだ。振り払おうとするが、怪我のせいで細くなった右手はあっさりと絨毯の上に押しつけられる。ラモーナの手に唾を吐き、左手でライラの接近を拒み続ける。
「ライラァ! やっぱり、お前らが――!」
「証拠も確信もなく決めつけるんじゃないよ。ただ、あんたは大事なことを忘れていただけ。――あたしはどんな時だってあんたを狙ってるんだよ。何を警戒したのか、ふふ、ザックを連れてこなかったことを後悔しな」
ジェフリーがライラに何かを手渡したのがテリーの視界に映る。それが何かも分からない内に、テリーの左手をジェフリーが掴んだ。体重をかけられ、抵抗も虚しく絨毯に貼り付け状態である。
「ちっくしょう! くそ、離せ! なんのつもりだァッ!」
「簡単なことだよ」
ライラが口元に手を持っていき、何かを口に含む。
「――さあ、テリー。落ちておいで」
再びライラに唇を合わせられたテリーが、彼女の熱い舌に噛みつこうとして。
「んッ、ァ――!」
ライラの舌を伝って、唾液と一緒に何かが降ってきたことに気付いた。戸惑うままそれが喉の奥へ落ちていき、サングラスの奥で目を見開く。
彼女は舌を噛まれるよりも先に素早く離れた。すくりと立ち上がり、後ろへ下がりながら声を上げて笑う。
「ははは! テリー、懐かしいわねぇ。覚えているかしら? 心地良く揺れる感覚を。脳を叩く衝動を。――それが切れた後の苦しみを!」
笑いながら部屋の奥まで下がったライラが手を振る。それを合図にラモーナとジェフリーが彼から離れ、彼女を守るように前へ立った。
自由になったテリーはすぐに体を起こし、強引に吐き気を誘い出すために親指を喉の奥へぐっと押し込んだ。
吐物が絨毯を汚すが、そこに落ちてきた何かが混ざっているかは分からない。
「うえっ、げほっ――ッ、ァ、ライラァッ! 何、飲ませやがった!」
そう問いながら、テリーは吐物を踏みつけ立ち上がった。
「分かってて聞くなんて愚かだよ、テリー。ほうら、相棒に助けを求めたらどうかしら? ――か弱い相棒に助けを求めて、その手で殺しておいで! 昔みたいに、セミチェルキオの同士をその手で殺した時みたいにねぇ!」
テリーが胃の辺りを押さえた。嫌な予感がそこから駆け上がり、脳に警鐘を鳴らす。
「今日のはプレゼントだ。続きが欲しいならいつでもおいで。可愛いあたしのテリー!」
ライラの言葉を最後まで聞かず、テリーは奥の窓を割って外へ逃げ出した。
壁に手を突き、もう片手を喉の奥へ突っ込んで。
何度となく吐いたテリーは崩れるように足を折った。人通りの少ない位置までどうにか逃げて――ただ、その位置が正しいのかどうかも今の彼にはよく分からない――ぐらぐらと揺れる視界と脳に目を閉じる。
「あァ……ザック、助け、助けて。げほっ、うえっ……。銃声が、聞こえ――違う、ちがう! でも、殺さねェと……!」
両耳を塞ぎ、体ごと大きく頭を振る。
自分の中の何かが大きくせり上がっていく。それはみるみるうちに彼を飲み込んで。
「あは……。殺さ、ねェと。――殴りてェ……あはは、殺してェ。はは、そォだよォ。――殺さねェと。あはは。殴らねェと。殴りてェ……もォっと、きもち、よく。あはは」
【一粒】




