65 Cue
クレアが簡単な化粧を済ませてリビングへ入ると、テリーがいつも通り背を向けて椅子に座っていた。早朝のことを思い出して踏み込むのを躊躇っていると、彼が振り返る。
「なァに突っ立ってんだよ、馬鹿女」
「あ、いや、その……。おはよう」
「もう昼だぞ、ボケ」
ぼんやりしていたせいで事細かには覚えていないが、テリーが今朝とてつもなく怒っていたのは記憶に残っている。しかし、彼の怒りは上手く消化されているらしい。再び怒鳴られる覚悟もあったが、その様子はない。
「ええと……。勝手に泊まってごめんなさい。それと、遅くなったんだけどね、誕生日と退院祝いにチョコレート買ってきたんだけど……食べる?」
クレアがそろそろとチョコレートの箱を差し出すと、テリーは一瞥してから黙って受け取った。彼女の予想通りコメントは特になく、彼の機嫌の良し悪しはよく分からない。
さあてこれから空白の時間をどう埋めるか、とクレアが思案していると後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、微笑んだザックがそこにいる。
「少しは目が覚めた?」
テリーのあれだけの怒りに触れてもきっちり二度寝をしたクレアは、自身の図太い神経にうんざりしながら一つ頷いた。
「……こんな時間まで寝ちゃって、ごめんね。昨日も酔っ払っちゃって、その……何か迷惑かけなかった? 私、あんまり夜のこと覚えてなくって」
クレアが申し訳なさそうに俯いて、組んだ指先をくるくると回している。
「俺こそたくさん飲ませてごめん」
微笑んだザックがテリーの手にある箱に気付く。
「あ、プレゼント渡せたんだ。テリー、ちゃんとお礼言った?」
ザックのまるで母親かのような問にテリーはそっぽを向いたまま「あんがと」と小さく呟いた。彼のそっけなさにザックは眉を寄せたが、すぐにクレアへ笑顔を向ける。
「ありがとう。テリーならあっという間に空き箱にしちゃいそうだ。――ただ、チョコレートの前に昼飯にしないと。時間があるならクレアも食べて行って」
朝食の時間をすっ飛ばして目覚めたクレアは「じゃあ、遠慮なく……。あ、手伝うね」と声を上げたが、ザックは「もう運ぶだけだから」と彼女に椅子を勧めて出ていった。
彼女は少し悩んでから椅子に腰掛け、昨夜どうやってベッドに入ったのかと改めて考えたがやはり思い出せない。恥ずかしいところを見せちゃった、とため息をつく。そして、テリーの手元へなんとなく目を向けた。
「……あれ、煙草?」
チョコレートの箱はテーブルの端へ追いやられ、彼の手には小さな煙草の箱だ。
「テリーって吸うの?」
「こいつはお仕事ォ。これおんなじやつを仕入れに行くだけェ」
面倒くさそうにテリーが答え、煙草の箱をクレアの方へ滑らせた。
「時々お前からこれの匂いがする」
クレアが滑ってきた箱を手に取るとパッケージに見覚えがあった。この辺りではあまり売っていない珍しい銘柄で、彼女が咥えるものだ。
「うん、時々。よく分かるね」
「昔、おんなじのを吸ってた。――ザックはこの匂い、好きじゃねェぞ」
クレアは突然出てきたザックの名前に目をぱちくりさせた。
「……そうなんだ。ええと、ここに来る前は吸わないようにしてたんだけど……。もう少し気を付けたほうがいいかな」
戸惑いも混ざった声に、テリーは鼻を鳴らした。クレアの手から一本だけ煙草を抜き取って口に咥える。しかし、手元にはマッチもライターもない。
「お前、ザックとデキてんじゃねェの? 相手が嫌がんならやめればァ」
さらりと放たれた言葉の衝撃に、クレアはぶっと息を吹き出した。
「えっ! ええ!? 私と、ザックが? 別にそういう関係じゃ!」
大慌てでクレアが手と頭を横に振るが、テリーは咥えた煙草の先を揺らして遊んでいて、彼女に目を向けもしない。
「へェ? デキてねェ男と二人で飲んでェ、デキてねェ男のベッドで寝てェ?」
テリーの横顔、右の口角がにいっと嫌らしく上がる。
「ソファで寝りゃァいいのにィ? わざわざザックのベッドでェ? ――僕がいると出来ねェことでもしてたんじゃねェのォ?」
見られた状況が状況なので、クレアはかあっと顔を赤くして思わず立ち上がる。正直、自分がどうしてザックのベッドを借りる流れになったかも記憶にないのだが、彼が言った『僕がいると出来ねェこと』がなかったことは主張しなければならない。
「そ、そういうのじゃないから!」
「あれ。本当に?」
「本当に決まって――ってザック!」
するりと割って入ってきた声をクレアは振り返る。
「どうしてあなたまでテリー側についてるの!」
いつの間にか昼食が乗ったトレイを持ったザックが部屋に入ってきていた。彼はにこにこと微笑みながら机の上にサンドイッチとコーヒーを並べる。
「君こそ記憶が曖昧なんだろ。覚えてない内に、俺とイイコトしたかも?」
「嘘! え、ザック? 何かあったの? 嘘だよね?」
「うん、嘘」
ザックがすくめた肩をクレアが「もー! ザックの馬鹿ッ!」と思い切り叩いた。腕が揺れて危うくコーヒーを零しそうになり、二人で仲良く慌てている。
テリーはその様子をぼんやりと眺めながら煙草を口先でぴょこぴょこと動かした。
「――あ、テリー。駄目だってば」
ようやく席についたザックは煙草をテリーの口から抜き取り、濡れ布巾の上に置く。
煙草を奪われたテリーは口をへの字に曲げ、クレアの方へ顔を向けた。
「お前、どーせ彼氏とかいねェんだろ」
好奇心というよりは呆れた調子のテリーに、クレアは「どうせって何!」と声を上げ、響いた頭痛に顔をしかめた。
テリーの人差し指が正面にいるザックを指差す。
「こいつ、どォ?」
あまりに直球すぎる質問に、今度はザックがぶっと吹き出す番だった。
クレアが帰った後、ザックはしかめっ面で皿を洗っていた。
「……君は俺とクレアをどうしたいわけ?」
そのシンクの端にプディングを置いて食べているテリーが不機嫌そうに鼻で笑う。
「きっかけ作ってやったんだろォが、ボケ。とっとと振られて踏ん切りつけちまえ」
「そんな簡単な問題じゃない……」
ザックがため息をつくと、テリーはその脇をスプーンでつついた。
「でも、眼中なしってわけじゃねェぜ、あれ。いっそ付き合って、脱がしてゲートの有る無し確認しちまえ、くそったれ」
空っぽになったプディングのカップとスプーンがシンクに置かれ、ザックはそれを手に取ってスポンジで何度かこする。
「……ありがと」
「あァ?」
ザックが蛇口をひねろうと手を伸ばした状態でテリーを覗き込んだ。
「君が慣れない気を使ってる。――ごめん、どうにか踏ん切りをつける」
きゅっと蛇口がひねられ、きんと冷えた水が流れ出す。
ザックが泡を流しているのを見ながら、テリーは左手でがさがさと髪をかき混ぜた。
「あーァ。慣れねェことはするもんじゃねェな、くそ」
【きっかけ】




