49 Buddy
ザックが裏口の扉を開けると、二階から駆け下りてくる足音が聞こえてきた。
血まみれのワークキャップをコートの下、ズボンとシャツの隙間にねじ込んで隠す。
「おかえりなさい!」
ザックの姿を確認するよりも早くハロルドの声が届く。
「遅くなってごめん」
返事をするとほぼ同時にハロルドが姿を現した。彼は明るい声で何か言おうとしたが、ザックの姿を見てその言葉を飲み込んだ。彼を追いかけてきたクレアも同じようにザックの服に付いた血痕に気付いた。
彼らの皿のように丸くなった目に、ザックはぎこちなく苦笑を向ける。
「それって、血……?」
油の足りない軋んだ声になったクレアと、完全に硬直しているハロルドを割ってマーサが出てきた。彼女はまっすぐにザックの前へ移動し、両手でそっと彼の右手を包み込む。
「おかえりなさい。怪我をしているならそこを見せて。手当をしましょう」
「……大丈夫。俺の血じゃない」
マーサは冷えたザックの手を握り、僅かに口元を緩めて微笑んでみせる。
「ザックが怪我をしてなくてよかった。それならまずは着替えましょう。ね?」
ぎゅっと一度だけ強く力を込めてからマーサは手を離した。ズワルト孤児院では場所柄、負傷した者が逃げ込んでくることもある。中立として誰にでも平等に応急処置を行ってきた彼女はこの程度の血液も見慣れていた。
「うん、そうした方がいいみたい。……着替えてくる」
淡々と抑揚もないザックの言葉にマーサはにっこりと笑って背中を押した。そのまま重そうに階段を上っていく背中を見送り、クレアとハロルドを振り返った。二人に温かいミルクとおしぼりを用意するよう頼んで、彼女はザックを追って階段を上る。
深呼吸を一つ、ザックの部屋へノックを二度。
「ザック。それ、テリーの血でしょう。――救急箱は必要ですか。人手が足りない状況ならわたしも行きます」
マーサはザックの胸元に引っ掛かったサングラスに気付いていた。テリーに何事もないのならサングラスだけが戻ってくることはまずない。
返事のない扉にマーサが耳を押し当てる。物音はするが声は聞こえない。扉に押し当てた手で拳を作り、ぎゅっと目を閉じる。
そのままじっと返事を待っていると、扉が動いた。マーサがすぐに離れると、着替えたザックが出てくる。
「……ありがとう。救急箱は必要ない。それに、人手も」
「分かりました。ザック、洗濯物はわたしが片付けるから、ソファに座っていて」
汚れた衣服一式をマーサは強引に奪い取る。
ザックは上手く言葉が出てこないのか、マーサに何かを言うことも出来ずに背中を押されるままリビングの方へ足を進めた。そして、マーサが「すぐに戻ってくるから」と踵を返したところに声をかける。
「マーサ。――クレアとハルに、帰ってもらって」
立ち止まったマーサはザックの言葉を一度だけ胸で繰り返した。自分にはいて欲しいということかと判断して頷く。
「分かりました。だけど、何があったかくらいは教えてくれませんか。二人ともすごく心配して待っていたから」
「……ああ、ごめん。気が、回らなくて」
ザックが眉間に皺を寄せ、それを隠すように額を手で押さえた。
「テリーが怪我をしたんだ。だけど、無事だ。……あまり心配しないでって、伝えてくれる?」
随分と慎重に言葉を選んだように見えたそれをマーサは「分かりました」とすぐに受け止めた。
「話してくれてありがとう。すぐに伝えてきます」
マーサはもう一度ザックをリビングの方へ押してから階段を降り始めた。
「外は寒かったでしょう」
温かい濡れタオルで手と顔を拭ったザックの前にマーサはホットミルクを置いた。冷たくなった濡れタオルを受け取り、暖まったザックの指先に触れる。
「少しは暖まった?」
「うん。ありがとう」
マーサは先程よりはましな顔色になったザックの正面に座り、自身のホットミルクを両手で包み込んだ。勝手に借りたテリーのマグカップに口をつける。
「――セミチェルキオの用事は無事に終わった?」
「うん。……ああ、そうか。その話もテリーにしなくちゃ……。今から気が重い……」
鉛でも混ざっていそうな息を吐いたザックもホットミルクへ手を伸ばす。自身のマグカップは暖かく、指先からじわじわと心をほぐしていく。
「そのテリーは……セミチェルキオにいるの?」
マーサの小さな声に、ザックは左右に首を振った。
「病院。……腕を折られて、背中にナイフを刺された。出血が酷くて、俺と何人かで輸血をしてなんとか。――意識はまだ戻ってない」
淡々としたザックの報告に、マーサは背筋が冷えるのが分かった。ホットミルクの暖かさにすがるよう、手に力をこめる。ザックの服に染み付いた血の量で只事ではないと勘付いていたし、相応の覚悟もしていたが、それでも心がずきずきと痛んだ。
「ハルが言ってた、テリーを追っていた人に……?」
「そう。……テリーを追っていたのはハートルーザーだった。なんとか撒こうとはしたみたい。だけど、その相手がセドリックさんを殺すだなんて脅しを使った」
ザックの話のおちが見えたマーサは「ああ」と嘆くように相槌を打った。
テリーはハートルーザーと相対した場合は基本的に逃走という手段を取る。ノーマルである彼にとってハートルーザーとの戦いはリスクが高いからだ。ウォリアーだった頃でさえ、必要な場合以外はハートルーザーとの戦闘を避けていた。
その彼が牙を剥く状況は、想像に難くない。
「後は君の想像取り。それに怒ったテリーが馬鹿みたいに突っ込んだ。その結果がこれ」
マーサは呆れの含んだ息をつき、首を振った。セドリックが絡んだ彼のことはあまり考えたくない。
「このこと、誰にも話さないでくれる?」
「はい、もちろん。……でも、わたしには教えてくれるんですね」
マーサがマグカップを置く。
「――君はテリーの特別だ。だから、伝えたほうがいいと思って」
どこか冷たい響きで言われ、マーサはザックを見つめた。
ザックは僅かに微笑んでから立ち上がる。
「俺はもう一度病院に行かなきゃ。着替えとか持っていかないと」
「わたしも一緒に行ってもいい?」
「――目が覚めた時、君がいたほうがテリーの機嫌が良くなるかも」
マーサはくすりと笑ったザックを見上げ、その目が全く笑っていないことに気付いた。苦笑して左右に首を振る。
「やっぱりやめておきます。テリー、嫌がるだろうから」
マーサも立ち上がり、ソファの背もたれに掛けていたコートのポケットを探る。
「ねえ、ザック。あなたは十分テリーの特別です。そんな悲しい顔しないでください」
そして、コートのポケットから小さな袋を取り出してザックに手渡した。
「テリーは誰よりもセドリックさんを守って、誰よりも私を抱き締めるかもしれない」
マーサは力強く微笑みながら空になったマグカップ二つを手に取った。
「だけど、テリーがあんなに楽しそうに喋ったり、我が儘を言ったり、喧嘩をする相手はあなたしかいません。あなたは十分特別だよ。心配しないで。――あなたはテリーの相棒でしょう?」
何も返せずにいるザックへマーサは「それ、テリーへのプレゼントです。渡しておいてください。……これ、洗ってから帰りますね」と照れたように笑って、部屋を出ていった。
【特別な人】




