38 Unwanted Memory
ザックが起きてきたのを見て、クレアは朝一の挨拶よりも先に「酷い顔」と苦い声を漏らした。それに気付いたマーサは苦笑して、タオルを濡らして彼に手渡す。
「そんなに酷い? はあ……痛いはずだ」
タオルで頬を押さえたザックが朝から気分も肩も落とした。
「いい大人なんですから、いちいちテリーの喧嘩なんて買わないでください」
「はあ……。努力する」
ため息を連発したザックにマーサが椅子を勧めた。
「テリーはまだ起きてこない? とりあえずザックのコーヒーだけでいいですか」
「ありがとう。テリーは一応声をかけた。だけど、起きてくるかは微妙なところ」
マーサがお湯を沸かしている間にクレアが用意してあった朝食を彼の前に置いた。
もう早朝とは言い難い時間帯だ。子供たちは既に朝の勉強の時間だし、クレアもマーサもとっくに朝食を済ませている。朝寝坊のザックとテリーを待っていた目玉焼きとソーセージはすっかり冷たくなっていた。
「泊まる度にあんな喧嘩してるの?」
クレアが呆れた視線でザックを覗き込んだ。
ザックは頬を冷やしながら肩をすくめる。
「まさか。毎回あんなのに付き合ってたら俺の体がもたない」
昨夜テリーを殴り倒して怒鳴っていた男とは同一人物と思えないほど、柔らかい笑みを浮かべたザックはトースターから香るパンの匂いに「美味しそう」とうっとりと呟く。
「そうだ。最近、パンはトビーのところから買ってるんですよ」
マーサが熱いコーヒーを淹れ、焼けたパンと一緒に出した。
「そうなんだ? あれ、じゃあ、前のパン屋さんは?」
「ご主人が亡くなって今はそれどころじゃないみたいです。それで、落ち着くまではトビーのところに頼むことにしたの。彼が届けに来ることは滅多にないんですけどね」
クレアはザックとクレアから飛び出た、知らない名前を聞き流す。
ザックはその知らない誰かの話を切り上げ、クレアを見た。
「話は十分聞けた? 足りないならテリーが寝てるうちに終わらせて」
「たくさん聞きすぎて頭の中だけじゃまとまらないくらい。マーサちゃん、いろいろとありがとう。とても助かりました」
「お役に立ててよかったです。またいつでも来てくださいね」
そのまま朝食を摂るザックを囲んで三人で喋り、その流れでクレアがあることをふと思い出した。
「あ、そうだ。今回の取材には全然関係ないんだけど、聞きたいことがあって」
ザックとマーサの視線がクレアへ重なった。先を促すそれらにクレアは人差し指を一本だけ立ててちょこちょこと曲げては伸ばす。
「ちょっと仕事ついでに頼まれて、人を探してるの。上司の友人がこの辺りに住んでるかもしれないって」
その人を表すように、クレアは人差し指をふらふらと揺らす。
「アランっていう男性。――知ってる?」
「あ! それでこの間はあそこのお花屋さんに」
マーサがクレアと出会った際、クレアが探していたのがアランという老人がいる花屋だった。
「そう、そうなの。だけど、おじいちゃんじゃなくて三十歳くらいの男性。背が高くて髪は黒の、たぶんショートカットで――」
クレアはマーサの方を向いてアランという人物の説明をしていたため、ザックが一瞬だけ顔を強張らせたことに気付かなかった。
ザックは頬が痛むふりをして、タオルを当てて固くなった口元を隠す。
「うーん……。子供たちにも聞いてみましょうか。他に特徴ってありますか」
「ありがとう! でも、私も特徴って詳しく分からなくって。上司も古い写真とか探したらしいんだけど、一枚も残ってなかったって」
クレアが顔も知らないアランを想像しているのか、視線を斜め上にして「上司も無茶を言うよね」と愚痴を零した。そして、ザックの方へ顔を向ける。
「配達屋のお客さんにもそういう人いない?」
「俺も花屋のアランさんしか知らない」
クレアの残念そうな様子に同情して微笑んだザックがコーヒーカップを持ち上げた。
と、背後の気配に振り返ると、昨夜の喧嘩で歪んだサングラスをかけたテリーが立っていた。彼は口角をぐっと下げたまま口を薄く開く。
「――アランなら、死んだ」
「テリー、おはよう」
テリーの呟きをかき消すようにザックが声を被せ、コーヒーを置いて席を立った。
クレアとマーサは聞き取れなかったテリーの言葉に疑問符を浮かべている。テリーはずれがちなサングラスを指で押さえ、ザックを押しのけてクレアの真ん前へ出た。
「僕の前で、その名前を出すんじゃねェ」
「え?」
「死んだ人間の名前なんて、聞きたくねェっつってんだよ、ボケ」
ザックがクレアとテリーの間に腕を割り込ませた。テリーを後ろへ一歩下がらせ、言葉の意味を理解し損ねているクレアへにっこりと愛想笑いを浮かべておく。
「クレア、ごめん。この話、あまり深くは――」
「僕ん目の前で死んだやつの名前が、アランだった」
ザックが止めるようにテリーの名前を呼び、腕を掴んだ。掴んだ先にある拳が小さく震えているのが伝わってくる。
「テリー、いいから」
「僕が、殺したんだ」
ザックの言葉に隠れるようにテリーが小さく床に向けて呟く。彼はゆるく頭を振り、ザックの手を払ってもう一度まっすぐにクレアを見つめた。
「何度も聞かれるくれェなら、今、終わらせた方がその都度いらいらしなくて済む」
ずれたサングラスから透けた瞳は冷たいナイフを連想させ、クレアは唾を喉の奥へ流し込む。何の感情も映さないそこに、硬い表情をした彼女が映っている。
「会ったのはたぶん五年前。死んだのもおんなじ。短い黒髪、目は……黒だったか灰色だったか。背は、そォだな、僕より頭一つは上だった気がするけど、よく覚えてねェ。――生きてれば三十にもなってたかもな」
ザックが渋い表情でテリーを見下ろす。
そのテリーはサングラスの位置を正しながら右頬を吊り上げて笑った。口元だけのそれにクレアの背に悪寒が走る。
「人探しは勝手にしろ。お前が探してる野郎と僕が知ってる野郎がおんなじなのかは知らねェ。ただ、この僕が大嫌ェな昔話をしたんだ。僕ん前で二度とこの話をするな」
テリーが視線を外し、ふらりと後ろへ下がった。どかっと椅子に座り、足を組む。
「目の前で嫌な死に方した野郎の名前なんて聞きたくねェ。分かったかァ、馬鹿女ァ」
鼻を鳴らしながら言ったテリーがザックのコーヒーに手を伸ばし、苦味を飲み込む。
「あ……はい。うん、分かった。もう、言わない……」
「あいあい、いいお返事ィ。よォく出来ましたァ」
朝の気温を下げたテリー本人はけろっとした様子でコーヒーに角砂糖を幾つか落とす。それに気付いたザックが「俺のコーヒーなのに!」と文句を言い、マーサが苦笑してもう一杯のコーヒーと朝食の用意を始めた。
クレアはゆるゆると動き始めた日常を見て、肩の力を抜いた。しかし、テリーに対する緊張感と、アランという人間が死んでいるという衝撃とが混ざり合い、心臓はばくばくと脈打っていた。
ノーマンさんに早く伝えなくちゃと何度も心で繰り返す。テリーが話した内容が、ぐるりぐるりと頭の中で踊っていた。
【アラン】




