37 Mock Fight
ザックが拳を振り下ろすより早く、マーサはクレアの手を掴んでそこから離れていた。
「もう! また喧嘩!」
すっかり酔いが吹き飛んだのか、マーサが早急に部屋の端まで移動する。引っ張られたクレアが先程の位置を振り返ると、ザックとテリーが殴り合っていた。
「やだ! なんでっ!」
「ああなったら駄目です。暫く止まりません。ここで少し待ちましょう」
ザックが拳を振り下ろし、テリーがそれを迎え撃つ。しかし、テリーの足元はおぼつかない。酔いがかなり回っているらしく、時折机にぶつかってふらついている。
「な、なんだか慣れてるね……?」
「あの二人、お酒が入るとよく喧嘩になるんです。毎回テリーがふっかけるんですけど……。その喧嘩を買うザックもザックですよね」
落ち着いた様子のマーサとは裏腹に、目の前は椅子や机が倒れてしっちゃかめっちゃかである。
「ザ、ザックは大丈夫なの? テリーってものすごく強いんじゃ……」
「大丈夫です」
派手な音がして、テリーが倒れた椅子の上へ倒れる。「いってェ! くそったれ!」と顔をしかめるテリーの胸ぐらを、ザックは遠慮なしに掴んで強引に彼を立たせた。
「ザックだって元傭兵さんですしね。慣れてるんだと思います」
「え?」
「テリーが手加減してるのかもしれませんけど……。それ以前にあれだけ酔ってますから。お互いそこまで大きな怪我にはなりませんよ」
ザックはテリーから一発貰って頬を腫らしていた。そのお返しだと言わんばかりにテリーの顔に拳を一発。
見ているだけで痛そうな状況にクレアが「うわ」と声を漏らす。
そうしているうちにテリーの足元が揺れ、二人が絡むようにして倒れ込んだ。
「え、あの……傭兵? ザックが?」
「え? あ、聞いてませんか。やだ、すみません……。じゃあ聞かなかったことにしてください。わたしも酔っちゃって、口が……」
マーサが慌てて口を押さえる。しかし、聞いてしまったものはもう遅い。
クレアはテリーを床に組み敷いているザックを改めて見た。もう怒鳴り声はせず、ザックの低く冷たい声だけがテリーに降り注いでいる。ザックが何を言っているかまでは聞こえないが、テリーは言い返さない。
マーサは喧嘩の終わりを感じたのか「片付けなきゃ」と疲れたような息をつく。クレアは「そうだね」と同意しながらも、二人から目を離せないでいた。
ザックが言葉を突き立てる度、睨む度、テリーが口元を笑みの形にするのが分かって鳥肌が立つ。
「――あの二人、なんなの」
ザックとテリーは机や椅子を元の位置に戻し、割れた瓶を片付けた後、並んで窓枠にもたれかかっていた。冷たい風が酔いを覚ましていく。
「少しはストレス発散になった?」
「ええェ? 足んないっつったら殴らせてくれんのォ?」
「……聞かなかったことにして」
お互い同じように腫らした顔を見合わせ、揃ってくつくつと笑う。
二人がそのまま言葉も少なく背中から風を浴びていると教室の扉が開いた。クレアとマーサが揃って顔を出す。
「わたしたちはもう寝ますね。ザックとテリーはまだ寝ないの?」
「俺たちもすぐ部屋に戻る。だけど、先に寝てて。ここの鍵は朝にでも返せばいい?」
「はい、それで大丈夫です。テリー、ゆっくり休んでね」
マーサの声を受け、テリーは追い払うように手を振った。
「おやすみ。クレア、明日はゆっくり出ても大丈夫?」
「うん、大丈夫。午前の予定は何もないから。――それじゃ、おやすみなさい」
テリーは女性陣に背を向け、窓枠に肘を突いた。真っ白な息を吐き、それを見上げる。半円の月が雲に隠れて薄暗いが、背中からの明かりは眩しく瞼を半分伏せた。
「明かり、消そうか」
「好きにすればァ」
二人きりになった部屋、ザックが窓から離れた。テーブルに置かれたランプを吹き消すと、教室が夜の暗さにじんわりと馴染む。
テリーは伏せていた瞼を持ち上げ、空を見上げた。
「月、見える?」
テリーの隣に戻ってきたザックが、同じように顔を空へ向けた。
「――場所なら分かる」
ぼやけた明るい半月に、テリーが右頬を上げた。腫れた頬が歪む。
「君といるようになって、俺も月を見ることが多くなった」
「知ってるゥ。……僕、太陽は嫌ェなの」
「うん。知ってる」
テリーが大きなくしゃみをして、窓枠を押すようにして体を離した。
「はーァ。寒ィ。寝ようぜ、ザック」
その声に頷いたザックが窓を閉め、自身の腫れた頬にそっと触れた。もう少し冷やしておけば良かったかと考えながら、隣のテリーへ目線を降ろした。
「あんだよ。僕の顔になんかついてんの」
「ううん」
ザックはこちらを不思議そうに見て突っ立っているテリーへ手を伸ばす。腫れた頬へ触れると、彼は僅かに顔を歪めた。そのまま頬に走る古傷を優しくなぞる。
「痛そう」
それは頬の腫れか、古傷か。
分からないまま、テリーは目を細めた。
「こんなもん、痛ェうちに入んねえよ」
テリーがザックの腫れた頬をぺちんと叩く。ザックは痛みに悲鳴を上げ、体を反らしてテリーから逃げた。
「俺は痛い! どうして叩くのさ!」
自身の頬を守るように手で押さえたザックは、テリーに非難の目を向ける。しかし、テリーは知らん振りで教室から出て行こうしている。
「――誰が君のストレス発散に付き合ってあげたと思ってるんだ……」
「誰ってェ? 僕の相棒ちゃん」
からりと笑うテリーの背中に追いつき、ザックが顔をしかめる。
「相棒か。サンドバッグだなんて言われなくてよかった」
ザックが先程の仕返しに、テリーの後頭部を軽く叩いた。テリーが「いってェ」とわざとらしい声を上げ、首を回してザックへ顔を向ける。
「サンドバッグがご希望のドマゾちゃんならそうしてやるぜ」
「お断りだ。自分でも殴っていたら?」
テリーが部屋を出て、くるりとその場で体を反転させた。鍵をかけるザックの背中をじっと見つめる。
「――そうでもしなきゃやってらんなくなった時は、ちゃんと止めろよ、相棒ちゃん」
鍵を回したザックが後ろのテリーを振り返る。
そして、不敵に微笑んだ。
「そのために俺がいるんだろ、相棒くん」
【喧嘩】




